2010年7月25日日曜日

もくまおう

Cocco - もくまおう



Coccoの歌にはよく、ふたりの自分が登場する。
このあたり一応過去のわたしと、今のわたしと置いている。

今のわたしは未来を内包する。変化の余地がある。
しかし過去は変えられないので、過去のわたしはずっとそのまま。

現在と過去、両方を含むわたしが「自問自答」するわけでなく、
どちらかというと両者は独立していて現在が過去の側へ語りかけていたり
両者が対話(になっているかは定かでないけど)していたりする。

まずは。
ここで取り上げる「もくまおう」も含めて時系列で並べてみる。

~おさらい~

水鏡
 過去「あなた」・「紫陽花」
 現在「わたし」
 結果:あなたは歌い、わたしは耳をふさいだ

羽根~lay down my arms~
 過去「羽根・鳩」
 現在「わたし」
 結果:「羽根」はまもなく空に帰り、灰も残らなくなる

【焼け野が原】
 過去「私」
 現在「あなた」
 結果:空は遠すぎる

【もくまおう】
 過去「あなた」
 現在「わたし」


・わたしが見たかったもの

 単なる未来でなく、「肩越しに見える未来」。
 
 肩越しということは何者かがわたしと未来との間に立っている。
 この詞の中、ほかに登場人物がいないものですから、
 その「何者か」の正体は過去のわたし。

 するってーと。
 わたしが未来へ進むと同じだけ、過去の自分が先回りしているもの
 だから、常に主人公の得る現在(未来だったもの)は過去の自分の
 影響下、あるいは過去そのものの延長線上でしかない。

 ずっと、過去から続く変化のない未来しか存在しない。
 ひとつの道しかない。
 だからある意味で悩みもない。
 「これから進む道」が決まっているから。決めようがないから。


・なぜ、その未来を見ることができなかったのか

 因・縁・果でまとめるとこう。

 本来ならば

 因 人は変われる
 縁 変化のきっかけにめぐりあい
 果 人は変わる。

 という流れが毎日ちょっとづつ繰り返され、あるいは
 時に大きなイベントとして大変化が起きることによって
 人は変わってゆく。

 「うんこちんちん」でゲラゲラ笑っていた小学生も
 どこかで卒業するし、しばらくの間駆け抜けたのちに
 青春時代が夢なんてあとからほのぼの思うようにもなる。

 人が変わると認識が変わる。
 認識がかわると世界が変わる。
 世界はひとつだけど、認識は多種多様。
 ついでに言えば生きやすさも生きづらさも認識ひとつにある。

 認識をより世界に即したものしていくことで、
 人は状況に応じたポリシーの変化を試みる。
 変化に成功することもあれば失敗することもあるのが人生。
 変化で成功することもあれば失敗することもあるのが人生。
 変化するのもリスク、変化しないのもリスク。

 ところが、変化を何かが邪魔するケースがある。
 執着やこだわりといったもの。
 ほかの言い方をすれば文字通り「固定観念」。
 変化しないさせないさせられない。

 ほかに説明する例が思いつかないから極端な例しか出せないんで
 それに即して書いてみる。

 世の中には、恐ろしい記憶を"消して"しまうケースがある。
 思い出せないメカニズムはこう。

 本来ならば、

 因 記憶を保持し続けている
 縁 思い出すキッカケが訪れる
 果 思い出す

 というプロセスで記憶がよみがえる。
 しかし、
 
 因 記憶を保持し続けている。消せないほどの。
 縁 思い出させまいと脳がストップをかけ続ける
 果 思い出さない

 といった心の防衛機能によって忌まわしい過去の記憶を
 封印することがある。

 身近な例。

 レジ待ちの間、コンビニ店員の名札を見たはずだけど
 思い出せないというのは「消去」だ。
 取るに足らない情報だから。

 しかし、大事なデートの期日がすっぽぬけたりもする。
 これが「封印」。

 予定に大事なデートがあるというだけで緊張してしまうと
 それ自体がずっとストレスであり続ける。
 そうするとほかのものが手につかないし、うまくいく準備も
 うまくいかなくなってしまう。

 だから心はいったん期日を「封印」することで
 心の平穏を取り戻し、物事をうまく回すようにしている。

 ふっとリラックスしたときにふと思い出すのがこれ。
 もう少し重いものだと、シャワー浴びてたりゆったり
 読書している最中に

 うーあーあうあうあーキコエナイー

 と、耳を塞ぎたくなるような過去の「何やってんの俺」
 みたいな記憶がよみがえるやつ。
 何の関連・きっかけもないのに突然思い出すあれ。

 もちろん、過去の自分暴露大会や他人の言動を見て
 自分のアウアウアーを思い出すこともあるけど、
 これはストッパーが耐え切れなくなって外れたことによる。

 いうなれば、簡単に外れる程度の悲惨さ。その程度の檻の強度。
 どっこい、あまりに悲惨な記憶はちょっとそっとのきっかけ
 くらいじゃ復活しないのもあったり。
 
 つまりそういうわけで、消去と封印は似て非なるもの。

 消去はファクター("因"子って言うもんね)そのものを
 消す作業であるのに対し、封印は消去できないほどの
 インパクトがあったものにおこなう心の動き。
 消せないものはフタするしかない。

 鼻炎薬のCMでいうならば、人間にはレセプター(鍵穴)がある。
 そこに(鍵)がはまるとアレルギーなどの反応が起きる。

 因 特定の物質とくっつくレセプターがある
 縁 がっちりはまる物質が結びついて
 果 アレルギー反応が起こる

 これを防ぐため、鼻炎薬はブロッカーを用意する

 因 特定の物質とくっつくレセプターがある
 縁 レセプターにはまる偽物をふたがわりにして
 果 アレルギー反応を起こす物質と結合しないようにする
 
 果を妨害するためには因をなくすか縁を断ち切ればよいのだけど、
 薬でレセプターを破壊するのは非現実的である(?)ので、
 ブロックすることで望む結果を得ている。
 
 これと同じこと。
 記憶ブロッカーが存在する。大小多寡問わず誰にでも。

 これと同じように、新潟の事件のように長い間監禁されていたとか
 事故や病気でずっと意識失っていたとかして、「縁がない」状態が
 続くという特殊な例を除けば、変化をブロックする存在が
 立ちはだかることで人は変化することができないといえる。

 「人は変われる」という因がなくなるのはそうめったに
 ありえないはずだから。
 
 詞に沿ってまとめると、

 因 「わたし」は変われる。
 縁 「あなた」が変化をブロックしている。
 果 「わたし」は違う未来を見られない。


・もくまおうとは

 「あなた」は大きな樹。
 「わたし」が欲しかったのは「あなたを守る力」。

 モクマオウって、正直見栄えしない。
 ビーチのキャンプコーナーに生えてる、葉っぱも松ぼっくりも
 ニセモノの木。

 防風や塩害を防ぐためだけにあるようなもんだし、枝なんか
 チクチクして鳥なんかがとまるような余地はなさそうなイメージ。

 だから、タイトルにある「もくまおう」は、「あなた」のことではない。 

 この曲では、

 「あなた」である、愛されている「大きな樹」
 「わたし」である、やたら愛されもしない「もくまおう」

 のふたつが存在する。

 過去の「わたし」は過去を纏い、愛された。
 しかし今の「わたし」はこれから変わってゆこうとしている。


・変わるには。

 過去の自分との統合を拒んでいたのは、「わたし」のほうだった。
 「水鏡」で耳をふさいだのは「わたし」の側だ。

 未来へ進むために過去を振り切ろうとしていた。もがいていた。
 でも過去の自分はどこまでも追いかけてくる。
 この曲では先回りさえしている。

 おかげで「あなた」以外のベクトルは得ようがない。
 それでも「あなた」以外のベクトルを探していた。
 でも見つからなかった。だから進めないでいた。

 それではどうにもならなかった。
 
 過去の側から呼びかける形の「焼け野が原」では

 じゃなきゃ 言って
 ちゃんと 言って
 聞こえないふりをしないで
 ここに居たいの
 私は側に居るのよ
 聞いて
 ちゃんと聞いて

 といっている。

 「水鏡」では、一度統合を果たした存在として「紫陽花」がいた。
 紫陽花は統合を果たしたけど、結果「死んでしまった」。
 生きている自分の一部なのに、自分でなくなってしまった。
 それが厭だったかしら。「わたし」の側が。

 だから「鳩」を追い払い、「あなた」の歌に耳を塞ぎつづけてきた。
 「羽根」でようやく統合への光が差したかなと思いきや、
 「焼け野が原」でまた聞こえないふりをしている。

 縛っていたのは「わたし」であって、ほんとうに必要なのは
 「あなたを守る」ことだと気づいた、いや、知っていたけど
 それを選択するのは困難を極めたのかもしれない。

 「あなた」のうしろに隠れて進むことをやめ、変化に対して
 すべて真っ向から「自分」で立ち向かっていかなくちゃ
 ならないから。

 さて。
 この曲では「あなた」と「わたし」以外にもうひとつ
 一人称が存在する。
 
 サビに登場する「私」だ。
 「わたし」と「私」は近いけど厳密に異なる。

 「焼け野が原」にも漢字表記の「私」が登場するも、
 そもそもその曲はイレギュラーで、視点が逆転している。
 一人称は人によって異なるので、「わたし」でない「自分」を指す
 言葉として「私」を選択したように見える。

 話し戻ってこれにより、現在・過去・未来で言えば
 現在の「わたし」、過去の「あなた」、そして未来の「私」
 と、時制の異なる意識ですべて一人称が異なっている。

 ただ、現在の「わたし」が変化・未来を内包するので
 「私」は「わたし」の意識の先にある。つながっている。
 決して「あなた」ではない。

 あたらしい意識の主をあらわす一人称としての「私」こそが、
 「水鏡」から続く一連の作品でなかなか出なかった、主人公が
 絶大な苦労と葛藤にまみれてやっと出せた言葉に見える。

 「あなた」の側でない、「わたし」の側でもない。
 両者で「私」なんだよという終着点。

 星の光も海の色も波の音も花や土の匂いもなにもかも
 感じるのは「あなた」でも「わたし」でもなく
 ただここにいる「私」。
 
 「私」のかわりに「あなた」が身代わりのように立つのではなく、
 「私」こそが自ら進み、新しい未来を見に行くよという決意。

 いうなれば、「わたし」が現実よりの意識を持ち、ポリシーを
 変えてゆく用意があるなら、「あなた」は潔癖とも言えそうな
 理想主義者。悪く言えば夢想家。
 理想を失うのは厭だし、こだわりは捨てられない。
 でもそれでは先へ進めない。

 我の強い「あなた」を盾にして突き進むのは迷いがない。
 しかしそれだけ「あなた」も「わたし」も現実世界との乖離に
 悩まされることにもなる。

 だから葛藤を高次元で処理する存在として「私」が歩みだす。
 そのためには「わたし」だけではどうにもふらふらして
 しまうものだから、目指す理想・譲れない、芯となる価値観を
 失わずに持ち続けるため「あなた」はそのままいてほしいと
 願うこころ。

 現実を前に理想はくじかれそうになるし、もしかしたら
 過去に一度、あるいは一度ならず理想を守れずにないがしろに
 してしまったかもしれない。
 そのため理想のない現実主義者に成り下がったりとか。

 時々でスタイルやポリシーは変えてゆかざるを得ないけど
 芯は変えずにいられたらと願うこころ。

 そしてこれまで歌ってたとおり、「あなた」は「私」と
 連続性を失い、「あのころのわたし」という思い出でしか
 語られなくなる。
 認識・思想・価値観などなどのつながりを失ってしまう。
 でも確かに自分の中にある。残る。

 その、理想を護るための「もくまおう」になりたいと
 思っているとする仮説。

2010年7月23日金曜日

羽根 ~ lay down my arms ~

Cocco - 羽根 ~ lay down my arms ~

歌詞はこちら


「そのシャツどこで売ってるんですか」


でおなじみの小室哲哉氏に言わせれば、世界は天と地との
2つでできているとのこと。

どっこい

 「戦後と基地の65年-
  童名は消せても
  島の血と硝煙と黒線香の匂いは消えない(ビン・ホエモ)」
  (「エリア88 ここは米寿の激戦区」より)

といった具合に、ハワイで教師をしていようが
ブラジルサンパウロ郊外で農園を営んでいようが
心はわれらウチナーンチュであるからして、世界は

天・地・人

の三つで成り立っているという認識でございますから
こっちの考えでひもといてみる。


■つらつら

・どこへ行こう?

 詞の中で「羽根」は土へ帰った。
 詞の中で「羽根」は空へ帰った。
 
 となればのこるひとつ。
 人へと帰る作業を「羽根」は行う。

 だから、どこへ行こうという誰となしの問いかけは
 「羽根」という地に足のついていない存在から、
 しっかり地に足ついた人へと帰ったのちに
 どういうベクトルで生きればよいかを求めている。


・めずらしく

 羽根というタイトルに副題がついている。

 「はばたくための両腕を休める」

 くらいの意味。たぶん。

 でもって学校の英語で習うように、armは複数形になると
 武器を意味するものだから

 「武器を置く。戦いをやめる。ふりかざした腕を下げる」

 という意味も読み取れる。
 ふたつの意味を持たせるためにわざわざ英語表記にしたのかも。


・青い武器

 錆びるのだから、これは金属だ。
 しかし、青い金属というのはそうそう存在しない。
 銅なんか錆びてはじめて青くなる。

 となると、これは金属でない、ほかのなにかの喩えだ。

 そもそも、錆びたらどんな武器だって役に立たない。
 でもここではわざわざ「青い」武器と表現している。

 ならば。
 青い間は撃ち落とせるだけの力を持っているけど、
 赤く錆びてしまうとその力を失ってしまうとしたら。

 するってーと、これはたとえば武器そのもの、たとえば銃
 ではなく、弾丸に喩えられないか。

 未熟な果実に毒があるように、さるかに合戦にでてくる青い柿が
 あまりに殺傷能力が高いように、やわかくなった黄色いパパヤーを
 チャンプルーにしてもおいしくないように、未熟な「わたし」は
 青い言葉でもって「鳩」に対する攻撃の手をやめなかった。

 「鳩」は攻撃を受け続けたせいであまりに虚ろ。

 しかし一方で「わたし」の側も疲れはててしまっている。

 おかげで今は毒を失い、つけた実は甘美にまみれた口あたりの
 よいものでしかなくなった。
 そして、鳩は毒のない果実を何事も無く平らげてしまった。

 すでに攻撃する言葉を失っている。
 むしろ、青からエンジ色へと変化したさまを
 人間としての成熟と捉えるならば紛れもなく進歩だ。
 いたわる言葉さえ投げかけている。


・戦いの終結

 "lay down my arms"

 というくらいだから、羽根のついたarmsの持ち主である
 「鳩」は主人公だし、
 armsで攻撃を続けてきた「わたし」もまた主人公。

 主人公が二人いる。

 いわば、これは水鏡の延長線上にあるストーリー。 

 そう考えると理解しやすいし、今回のPVは素直なつくりに
 なっているようにも思える。

 さて。
 水鏡では変化を拒む「あなた」がいた。
 厳密に同じ"人物"を指すかどうかは不明も、
 ここでは「鳩」が登場する。

 この「鳩」はやがて舞い上がり、土へ、空へ帰る。
 そして最後に人に帰る。
 燃えて灰になるどころか、灰さえ残らず。


・和解、そして統合

 水鏡にもでてきた、反発によって統合出来ていない
 「自分の一部」が自我へ統合していただくには
 それぞれの和解が必要になる。
 
 この作業がやっと行われようとしている。

 「紫陽花」に同じく、言葉の通り

 「過去の自分」
 「あのころのわたし」

 という、現在と関連を持たない自分について新しく

 「羽根」

 という名前を付けたのでしょう。
 そして「羽根」の思い・価値観は現在とつながりを失い、
 人によっちゃ

 「いやーあの頃の俺どうかしてたよ」
 とか
 「若かったんだねえ・・・」

 と、思い出を文字通り"他人事"のように語るように、
 今の自分とは「別物」になってしまう。

 同じ自分なのに、持てるつながりは「思い出」しかない。

 でも。
 ほんとは決して消え去るのではなく、自分に帰ること。
 そして決して忘れ去るのではなく、ちゃんと憶えていて
 あげるよという気持ち・認識が「わたし」に生まれ、
 その気持ちを「羽根」も知った上で和解に至ったのではなかろか。

 そんな両者がようやくいっしょになれるねという仮説。



さて。

消えれば楽になる「わたし」とは誰。
動けない「あなた」とは誰。

どこへ行こうと言っていた主人公はどうなった。

燃えているのはどこか。
焼け野となっているのはどこか。

空へ帰れたのか。

Cocco - 焼け野が原

星に願いを

Cocco - 星に願いを

歌詞はこちら


■つらつら

・対になっている箇所を拾ってみる

 歩み

  1.歩みも甘い拙い声
   騒がないで 血飲み子ちゃん

  2.慰めないで構わないで
   労わないで歩けるから

  ・歩けないと騒ぐ人間
  ・ひとりで歩けると切り捨てる人間


 痛み

  1.浸ってないで滲みたぐらいで
   濡れたなんて笑えるから

  2.ひらかないでひろげないで
   やさしい手で触らないで

  ・傷が滲みたくらいで涙に濡れる人間
  ・傷をえぐられてもどこか平気な人間 


・登場人物

 ・強い「わたし」
 ・弱い「血飲み子ちゃん」
 ・「あなた」

 この三者。
 「あなた」は弱い人間を見つけてはいたわるのが好きなのか
 今これから「わたし」を置き去りにしようとしている。
 弱い女勝ち抜きトーナメントを行っている。

 それを知ってて近づく「血飲み子ちゃん」。
 人のものなどお構いなし、利用出来るものはすべて使って
 誰かの生き血をすすって生きている。
 
 
・信じている?いない?

 普通、何かを信じた果てに絶望したらそれを信じなくなる。
 否定する。
 たとえば神を否定するにはまず、神の存在を認めないと
 話が始められない。

 本当に神の存在がないものとするなら

 「は?カミってなんね?オバーの名前か?」

 という論理でしか片づけられない。

 話戻ってここでは曲のタイトル通り、星に願いをかけ、
 結果叶わなかった人間の話。

 じゃあこの星というものは「願いをかなえてくれない」もの
 としてを否定しているかってーと、そうでない。
 
 この期に及んでもなお、星に願いをかけている。
 お前など消えてしまえと言っている。
 皮肉ではなく、心から願っている。

 星の数だけ願いがあるならば、相反する願いもあるはず。
 それらがどんな形であれすべて叶えられるとすれば、
 優先順位が決められた上で流れ星と共に叶っていくことになる。
 なぜなら宇宙はコスモスで以て成立している。

  自分の願いよりも優先された願いがあった。
  今このとき叶わなぬ願いなど意味が無い。必要ない。
 
  いっそすべてかなってしまえ。
  それがどんな混沌をもたらそうとも。
 
 すべての願いがなくなったとき、暗闇だけが広がる。 

 夜が明けますようにという、他愛ない願いさえかける星もなく。
 わたしの願いが最後に叶う。

 そして膨れ上がった世界はまたもとに戻る。
 わたしもない、あなたもない。
 大地も海もない。

 もし神がいるのなら、神がその気ならまた光が生まれ、
 空と星がふたたび生まれる。
 
 安らかな闇夜はいつまで続く。
 時間も混沌の中へ消えた世界で。

2010年7月21日水曜日

水鏡

Cocco - 水鏡

歌詞はこちら


■つらつら

・季節について

 このPVは酷寒の冬。
 リリースされたのは新しい暦で春。
 曲中に登場する季語は紫陽花。旧い暦で夏。

 さあバラバラだ。
 紐解くにゃ一筋縄ではいかなさそう。


・鏡もない、水もない

 PVに描かれているのは厚く氷の張った場所。
 水面なんてありゃしない。何も映さない。
 そこにあるのはただただ広がる湖面。
 多少なりとも氷がむき出しでいたら「上手に歩けない」
 さまを表現できたろうけど雪が積もってる。滑らない。

 なにかとタイトルと矛盾している。
 今回のPVはヒントないのかな。


・さあわたしは何処へ

 さまよう心境を綴った曲って迷走感を出すために
 フェードアウトで終わることが多い。
 なのにこの曲は完結している。
 「歩き続けている」感じがしない。

 ということはベクトルを失っているか、もしくは
 ベクトルはある程度定まっているけれど「あなた」が
 まだまだ強く掴んでいるから進めないということになる。
 どちらにせよ、停滞している。

 ただ、どこへと誰となしに問いかけていることから
 まだはっきり進むべき道が見えていなさそうなので
 ベクトルを失ってへたりこんでいるんじゃないかしら。


・「紫陽花」、肌にあるもので疼くもの、そして「あなた」

 「古傷が疼く」って言葉があって、それとよくセットで
 使われるのが「雨」だ。

 気圧かなにかで神経がどうたらこうたらという話はおいといて
 雨が降るならあじさいは喜んで咲くはず。
 なのに死んでしまった。

 そのあじさいは枯れるわけでなく、死んでしまった。
 いったい何を、誰を指すのかは謎。この曲最大の謎。

 Rainingと通ずるものがあるかどうかはわからないけど、
 少なくとも雨の日は気持よく過ごせそうにない。

 仮に「紫陽花」が過去の主人公本人を指すのだとしたら、
 主人公は本来、雨が好きな性格だったはず。
 でも雨が降るたび疼きに苛まれているうちに
 「あんなにも雨が好きだった自分」でなくなってしまった
 という読み方もできる。

 「それでも紫陽花は死んでしまった」と同じパラグラフに
 書かれているのは踊ってと囁く「あなた」。

 ということは「あなた」と「紫陽花」は強固に関連している。
 いうなれば、ともに同じ過去の自分を指している。

 過去の自分は雨も踊りも好きだった。
 でも、

 踊りが好きな「あなた」は現在の自分にきちんと連続しているけど、
 雨が好きな自分は「紫陽花」として切り離され、同時に現在の自分と
 連続性を失い、置き去りになってしまった。

 という違いがある。
 切り捨てたながらも、それもまた愛しい自分の一部に
 かわりないから名前をつけていたような。


・汚れなく、美しいもの

 現在とつながりのない過去・思い出というのは
 届かない分、美化される。
 "武勇伝"を語るおっさんのよう、
 「それってあーた、人に迷惑かけてんじゃんよ」
 というものさえ。


・なぜ「あなた」の歌に耳をふさぐのか

 今の自分と過去の自分は違う。
 意識に連続性はあっても価値観は必ずしも同じでない。
 その価値観に大きな違いがある場合、たいてい
 アップデートされた現在の価値観を優先させるものだけど
 どうも過去に縛られているフシがある。
 よほど強い意思・決意をもっていたのか。

 ありがちな歌のシチュエーションだと
 「あんな大人になんかなりたくない!」と思ってたのに
 「気がつけばこんな大人でした。ちゃんちゃん」
 という流れ。
 相反する意識・それによる葛藤、そして生きづらさの解消は
 良くも悪くも己の認識をひたすら現実の側へ折り合いをつけてゆく
 ほかないものだから、多くの人はその歌のように軟着陸に成功する。
 悪く(?)言えば、認識・価値観の取捨選択をおこなうことで
 自分をアップデートしていく作業をやめない。

 何を思っていたかはさておき、過去の自分と現在の自分の
 間に大きな隔たりがあるものだから、この曲の中の主人公は
 未だ空をさまよい続けて着陸出来ていない。
 着地点がない。

 ところで。
 冒頭でこの両者は互いに呼び合っていた。
 その割には過去の自分の側が声高に歌いはじめ、
 それに耳をふさぐ今の自分がいる。

 ではなぜ両者は互いに呼び合ったのか。
 過去と現在の擦り合わせを試みたのか、それとも
 過去の自分をすっかり切り捨てるため別れを告げに来たのか。
 
 いずれにせよとにかく、何らかの形で整合を取ろうとした。

 しかし
 過去の自分が納得してくれない。主張を続ける。
 現在の自分も納得できない。耳をふさぐ。

 おかげで今の自分が今の認識で以て前へ進めずにいるし、
 過去の自分も自分を縛ったままでそのまま。

 「紫陽花」が死んでしまったように、「あなた」の一部がまた
 切り捨てられ、死んでゆくことを拒んでいるよう。
 これ以上身を削られ、切り捨てられることが「あなた」は
 耐えられないのかもしれない。
 また、その逆で「あなた」が「紫陽花」のようにまた、
 自分と連続しないものになることを「わたし」が望んで
 いないのかもしれない。

 例え悪いけど、このあたりの意識は解離性同一性障害のよう。
 (もちろん、この主人公をその通りの言葉のものとして
 断じるつもりはないし、ましてや歌い手について言及する
 つもりもまったくない。
 実際、この曲には「時系列さえつながってないいくつもの人格」
 がいるわけでもない。)
 すべての自分が混ぜ合わさって「自分」があるのだけど、
 捨てたくない自分、それこそ鏡写しにいうなれば
 「捨てられたくない」自分というのが拒否権を発動すると
 統合そして新しい自分へのアップデートが正常に行われない。
 これが見捨てられ不安と絡むと、自分さえ自分(の一部)を
 悪い言い方で"見限ってしまう"行為に必要以上の躊躇いを
 感じてしまうかもしれない。

 また、そもそも自分が分離されてしまうのは(根本的でないも)
 苦しみの解消を目的として行われたところであるわけだから
 それがふたたび統合されることは目の前の苦しみを受け入れ
 られる余地・余裕が必要。

 それらがないと統合作業そのものもそうだし、その後の「自分」を
 維持し続けることも非常に困難を極める。


・あなたの指がしみついたままで遠くへ

 リフレインでは
 「わたし」は遠くへゆこうとしている。
 「あなた」を置き去りにして。
 
 しかしサビでは

  「あなたの指がしみついたままで
   上手に歩けるはずもない」

 とある。
 「あなた」から離れたい。
 でも「あなた」から離れて行けないことを「わたし」は
 理解している。どちらも自分だから。

 統合は望んではいないけど、このままでもいられない。
 ダブルスタンダードは葛藤の原因になっても平安の基礎には
 ならない。


・水面に歪む影
 
 これは誰か。
 水面に映るのは自分と「あなた」だけのはず。鏡だから。
 しかしここで「いまさら」という言葉がある。

 今まで影を潜めていたのに、最後の最後になってふっと
 姿を現し始めたかのように見える存在。
 「あなた」でない、「わたし」でもない人間。
 少なくとも、ここには「わたし」しかいないから
 その影は過去の側にだけ映っている。

 それは自分でない他者なのか、はたまた死んだはずの
 「紫陽花」なのか。それとも他の。

 その影がどうも大きな鍵を握っていそうなんだけど、
 いろいろ残したままここで曲は終わってしまう。

2010年7月16日金曜日

ポロメリア

Cocco - ポロメリア

歌詞はこちら



金網に囲まれた場所。
逃げ出せない場所。

裏をかえせば外部から何者も寄せ付けない存在でもあった。

しかしそれは完璧ではなかった。

たまにくぐり抜けてきた侵入者にみんな大騒ぎし、
その都度ホウキを手にした大人たちが追い払う光景に
みんな歓声とため息を漏らした。

今思えば、侵入者からしたら

・指さして大声でわめく
・やたら触ろうと近寄ってくる
・しまいにゃ石投げるやつもいる

というモンスターを前にすれば逃げたくて仕方なかったろう。
入ってきたのが間違いだったのだ。

しかし悲しいかな、パニックになると停止してしまう程度の
思考回路しか持ちあわせていないものですから帰り道を知らない。

どこから、どうやって入ったのかも覚えてないんで
無駄に園庭を駆けまわり、木や塀に登ってはモンスターたちの
大歓声を浴びることとなった。

そんなこんなでやっと一日が過ぎ、わたしたちは"釈放"される。


しかし面倒くさいことに釈放には"身元引受人"が必要で、
その人が来ない限り引き続き外へは出られないのだ。

外が恋しいのか、はたまた引受人そのものが恋しいのか、
待ちきれない子たちは門扉にしがみついて
行き交う大人たちの顔をつぶさに見つめ、誰か近づいてくると
そのたび大騒ぎした。
たとえそれが郵便やさんやガスやさんであっても。

とにかく、「大人」は違うのだ。すごいのだ。
大きいし、財布には紙のお金が入っているし、運転だってする。

そんな大人たちに連れられてひとり、またひとりいなくなる。

お迎えというのは先抜け方式で、特に一抜けはかっこいい。
羨望の眼差しを背に受けながら帰るのはすばらしい。
みんながバイバイと言ってくれる。
・・・ほかにやることがないからというだけのことかもしれないけど。

でもお迎えにやってくる順番というのはあまり変わり映え
するわけでもないので、トップグループに属さないわたしは
みんなにまじってまだかとワイワイするだけ無駄だから、
サルビアをプツンプツンしてはなめなめしてすごしていた。

見上げれば遠い空。

丘の方から風が吹き始める頃、声がかかる。


「えー、おむかえきたよー!!」



■つらつら

・あの丘を越えれば いつもあなたがいた

家路につく前のひととき。
丘を眺めながら思いを馳せる。

「あの丘を越えれば いつもあなたがいた」

自宅の場所と同居家族をこう表現するのはあまりによそよそしい。

そう考えると、これは自宅を指していないし、
親兄弟を指しているわけでもないはず。


・「あなた」とは誰か

"おまえはいい子だ"と上から目線で言ってるのだから、大人だ。
「わたし」をよくしってる大人だ。

でも。
実は「わたし」をよく知ってるけど、
案外それほどよく知らないかもしれない。

普通親ってもんは、乳児でも無い限り理由なしに「いい子だね」と、
ことさら改まって言うことはない。たぶん。
しょっちゅう怒られることばかりやっちゃうから。
そんなにいい子でもないから。

じゃあわざわざ「いい子」だとわたしに言ってくれるのは誰だろう。
無条件にわたしという存在をよしとしてくれるのは誰だろう。


・「錆びた欠片」とは

いい子だと言う割に「錆びた欠片」なんてガラクタしかくれない
ところを見ると実はそんなに愛されてない。

・・・わけないね。

ふむ。
錆びてるもの、積み上げられるものってなんだ。

10円玉?

いやいや、10円玉は「欠片」ではない。
10円玉は10円玉という形でもって完結している。

じゃあなんだ。
錆びてるものってなんだ。それでいてお金じゃない。

それはきっと、錆びた色した甘いものだ。
その欠片を、テーブル、もとい、"食台"の上にある
フタつきのお菓子入れから取り出してチラシ(そう、裏が白い
チラシはたいていパチンコ店のものだ。しかも彼ら彼女らは
それをヒモでつづって帳面もといメモ帳にし黒電話のそばに
おいておくのだ)かティッシュの上に積み上げている。
おきまりのフレーズとともに。


・いつきす

キスをくれる場面てなんだろう。
おやすみのキスかしら。
しかし、それにしてはえらい早い。
日が落ちる前にキスをくれている。

はてさて、別に意味があるのか、
それとも実際そういう生活ペースなのか。

日が沈む前に夕食を済ませて床につき、
真夜中に目覚めては眠れなくてラジオ深夜便を
朝までうつらうつらしながら聴いている人たち。
朝が早いというのは実は夜から続いてましたみたいな
時間を生きている人たちなんだろうきっと。


・繋がれた風さえ動き始める

1番では家路につく前のひととき、回想して過ごしていた。
2番も引き続き回想が続く。
ということは、回想から覚めて戻ってきた情景はもとの場所だ。

雨が降って少し冷えたせいか、まだけっこう明るいのに
風は凪いで、そして今度は丘の方から陸風が吹いてきた。

そんな夕方より少し前、岬近くの情景。

そしてリフレインによって回想から覚めた状態からさらに
意識がこっちへもどってきてフェードアウトする。

時に、この風は縛られていない。
繋がれている。

普通、風を視覚化するなら風車か旗だ。
ススキやウージでもいい。
しかしそれらは少しの風でもゆらゆらくるくるワサワサする。

さて。
けっこうな風を受けてはじめて格好のつくものが
そこにあるという仮説。
そしてそれから導かれる時期・イベント、みんなの話題。

理由なく空を見上げたのではなく、その存在がきっかけで
屋根より遥か高い空を感じることとなった。
もしかしたら、その光景に子供らしい想像をしたのかも。
するとどうしても足りない。ひとつだけ足りない。
そこにいない。


・てか、ポロメリアどこよ。

とうとう歌詞の中に登場しなかった「ポロメリア」。

ポロメリアは花だ。プルメリア。
繊細な言葉を紡ぐこの歌い手が花の「匂い」という言葉を
使うだろうか。花は香るものだ。

であるからに、「かわいい夢の匂い」はプルメリアの香りではない。

プルメリアはいったいどこにあったのか。
この歌の中いったいどこに描かれていたのか。
南国情緒あふれる花と夢見る時間をつなぐもの。色とりどりのひらひら。

夢を見るとき至近距離にあった匂い。
その匂いのもとをたどれば描かれている場所は得られる。

そしてそれは決して「プルメリア」の花の香りではなく
世界にひとつだけしかない「ポロメリア」の匂いだ。


主人公が、永遠のさよならをした花、時間、思い出の歌と思ったのさ。

2010年7月12日月曜日

首。 熟れた罪

Cocco - 首。

歌詞はこちら


部屋を「買い替え」るってどんな感じなんでしょね。
普通引っ越すもんだけど。住んでる側が。

超大金持ちなのか、はたまた使い捨ての部屋って概念が
この世に存在するのか。
カワバタハウスは「捨てる」って感じじゃないし。

キッチンで何かに怯える女といびつな視点のカメラワーク。
はてさて、これらの意味するところは。

タイトルが「首」でなく、「首。」と、おまけがついていることの
意味するところは。
この句点が生み出すものとは一体、いや何体?


***

Cocco - 熟れた罪



「ふたりで始めてひとりで終わるものなーんだ♪」

「えっ、ちょっと俺よくわかんない。ヒント!
あたまになになにがつく、とか」

「えへへー、んーとねえ、あたまがつかない!」

「あたまがつかない?」

「そうそう。おちちゃうの」

「落ちる?・・・パチンコがチンコになるとかそういうの?」

「もうー、すぐそういう話になるんだからーエッチー」

「なあ、いいだろう。さあさあ」

「あんっ・・・ちょっと、もう。せっかちなんだから・・・」






カウントダウン

Cocco - カウントダウン

歌詞はこちら


まだ残ってる。まだ間に合う。最後のたった1つ。
わたしをスケープゴートにしようたってそうはいかないわ。
今日だけは絶対に外せないの。

あの乙女ぶったカマトトには譲れない。


ねえ、いつまで待たせるの。
早くして。

待たされる側の身にもなって。
こんなにも胸が張り裂ける気持ちでいるのよ。
お願い。時間がないの。わたしは忙しいの。

もう指をかけているのよ。
あなたのほうへと長く伸ばしたこの腕も痙攣をはじめてる。
そろそろ限界なの。
気が変わったらすぐにでもこの指はあなたを消し去るわ。
こんなにも待たせておいてエクスキューズのひとつもないの?
結果次第でどうなるかわかってるんでしょうね。

私は運命に愛されているわよね?

早くそう言いなさいよ・・・なっちゃん。


「今日の1位はおとめ座のあなた。

集中力を発揮してリーダーs」


ああああああああああああー!
小島テメーええええええええ!
血迷ったかあああああああああああああ!?

謝れ!
このわたしをドン底に落としやがって!
朝からこんな気分にさせやがって!

もう一日ブルーじゃないさ!
ふざけんじゃないわよ!

土下座もんよ!土下座!

オカマ座なんかいいから早く先続けて!
時間がないってば!

11位からずっと舐めるように見ていたのよ!?
ホント時間ないのよ?その結果がこれなわけ!?

もう少しだけ見ていてあげるから急いで!
そんくらいの愛くらい残っちゃいるわよ!わたしは慈悲深いのよ!?

ていうかよ、まずよ、やーはなんか!?
ヒージャーに恨みでもあるわけ?んじ?

八木だけにね!って? ハ!
うまいくないわボケ!

山羊は強いばーよ!食べてもおいしい!
しに上等だばーて!
それをこんなぞんざいにしてからに!こんなデージなことあるかね!?
バチあたりにもほどがあるさ!
あんたはね、そのムーンプリンセスなんたらもろともね、
山羊にけり上げられなさい!顔面ばんみかしぇー!
日本中の山羊にかわってあたしがおしおきしてやってもいいわ!


「そしてごめんなさ~い。 

今日の最下位はやぎ座のあなた。

なにをやっても周囲と対立してしまう一日。
言い訳をするとますます傷口を広げる結果に・・・。
ターコイズブルーのリングがラッキーアイテムです^-^」


そんなもん持っとらんわー!
つーか毎度そんな微妙なもんもってるかあああああい!

まずよ、ターコイズブルーってなんか?んじ。
ターコ、イズ、ブルー。
ターコさんはブルーです、か?

ターコって誰ーよ?妙子か!?どこのタエコか!?
そんな女知らんし!
わたしがブルーだわ。コッコイズブルー。ってやかましいわ!

はっしぇまったくよ、
こんなにも人を不快な気持ちにさせておいてからによ、
毎度毎度「ごめんなさは~い」ってなんかよまず!
100回あやまっても足りんばーよフラー!
間違ってましたって言っても許さんけどね!この期に及んで!

こんな結果聞くために待たされてたんかあたしは!
テレビに主導権握られてますってか、振り回されてますってか!
んじ!?

こうなったらもう、あたしの底力見せてやるからね!
思い通りにしてやる!黙らせてやる!
ふわははは!畏れおののいて泣き叫ぶがいい!
あと3秒の命じゃ!念仏でも時報でも好きに唱えな!

3
「今日も一日」
2
「元気に」
1
「行ってらっしゃい!」




ふう。

・・・てか遅刻ーっ!?


***

日本では普通、けん銃・弾丸は入手できないという仮説。

2010年7月7日水曜日

雲路の果て

Cocco - 雲路の果て

歌詞んかいくまーやんどー。


「えー、くもじの果てってよ、なにがあるばー?」


「まーやが?」


「くもじさー、く・も・じ!」


「あー・・・んじ、那覇ミュージックあらに?」


大きな地図で見る

***

失恋だとか死別を歌った歌だという解釈ちらほら。

んー。

果たしてそれは、失ったのか。

言い換えると

それは一度手に入れたのか、確固としたのか。
自分だけのものとしたのか。


・「あなた」に関する記憶

からだが覚えている以外の記憶・思い出がない。
お食事したりいっしょに本読んだりお話したりとか。

失恋したなら、思い出が大洪水のようになって溢れ、
それに押しつぶされてしまいそうになりつつ、いつか忘れることを
切に願う一方で忘れてしまうこともどこか寂しがるはず。

どっこいこの「わたし」の記憶。
おまんまんにくちづけてもらう以外にすることがない。
それも束の間、事務的にベルが鳴る。

それって「恋」なの?
ふたりはいったい束の間の時間とからだ以外に何を共有したの。


・指が守るもの、指で守るもの。

か弱い「わたし」のこと?
米味噌醤油も買えないくらい生活きついの?
だったらプロミスにでも行けば?


なんだろう、「もう失った」という完了形の匂いが薄い。
いっしょに同じ時間、もとい、「期間」を過ごした匂いがない。

「わたし」に、"彼女"としての実績が見当たらない。
その一方で、触れられたことだけを鮮明に記憶している。

肌で感じ取った指の硬さ・厚さだけでその人のことがわかるような、
そんな感性さえ持っていそうな女。

「わたし」の側から決して「あなた」の方へ歩んでゆけない制限。

「あなた」について完全に束縛できない制限。

時間制限。


「失恋」というよりも、進むにも退くにも簡単にけりのつけようがない
「悲恋」、いやそれが恋と呼べるかどうかもわからない、ある種一方的な
感情という仮説。
別にこの歌に思いを重ねてもいいけれど、職業を選ぶと思うよあたしゃ。




【以下妄想余談】

この歌の歌詞には

・聖書
・光
・溶けあっている状態

が登場する。


・昔見た聖書のページ

「昔」に「見た」程度の聖書。
新約か旧約かは描かれていない。

ぱっと見るのだから、いきなり「ピリピ人への手紙」のあたり開いても
たぶんなんのこっちゃだ。
とすれば、普通頭から開いてゆくのがセオリー。

どっこい、新約聖書ののっけってのは

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストのうんたらかんたら」

とまあ、一見さんお断りなもんですからたぶんすぐ閉じるし、
こんなページのことなんて思いださない。
たとえ思い出そうとしたところで


「あー、えーっと、イサクがヨハネのあのその・・・ああ、あの人」


うん、絶対ない。

じゃあ何が面白くて聖書なんざ開こうかななんて思うかてーと、
創世記だ。きっと。

混沌から光を生み出したカミサマ。
今となっちゃそのカミサマを恨みさえしているかもしれない。

でもって。
関連するかしないかはわからないけど、もしかしたらこのあたり
椎名林檎の「本能」がより真正面から取り組んでいるような。

という仮説。

2010年7月2日金曜日

Raining

Cocco - Raining

歌詞はこちら


思いついた仮説をつらつらと。

・はじめに

「ママ譲りの赤毛を 2つに束n」

うん。
Coccoは赤毛じゃない。
どう見てもだ。
本当は赤毛かもしれない。
でもわからないからひとまず黒ということで考えてみる。

そういうわけで、これは彼女の話ではないという仮説。

じゃあ、このストーリーは何か下敷きがあるはずだ。
というわけでwikipedia。

Cocco - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/COCCO

タイアップ
>Raining 徳間書店配給映画「式日」エンディングテーマ

ふむ。
この映画を紐解いてみる。

式日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E6%97%A5

あらすじ
>彼女がうちに秘める、肉親の死という喪失感、
>自分を捨てた母親への憎しみ、常に比較の対象にされてきた
>姉への嫉妬など…

どうやら

・肉親が死んでいる
・ママは嫌いだ
・姉も嫌いだ

というあたりがキーになりそう。


・ママ譲りの赤毛を 2つに束ねて みつあみ 揺れてた

のちに切ることになるこの三つ編み。
赤毛の、三つ編み。

まずそもそも、この少女は普段から三つ編みにしていただろうか。

正直、今日び三つ編みなんてあまりにレトロだ。
21世紀と比べるのが言いすぎだとしても、すでに「ちびまる子ちゃん」の
時代で聖子ちゃんカットが小学生のあこがれとなっている。
当時堂々と三つ編みなんざ結ってるのはみぎわさんくらいだ。

まあ、聖子ちゃんカットは結うほどの髪の量がないので
これ以上どうこう言わない。

とにかく。
結えるほどの長い髪はせいぜいポニーかピッグくらいにしておくくらいが
手間もかからないしそんなにダサくない。
普通はそうするはず。

何が言いたいかってーと、

三つ編みにせざるを得ないシチュエーションが彼女に訪れた

という仮説。


・なぜ彼女は髪を切ったのか

ママ譲りの赤毛を持つ彼女は、それを理由に髪を切ることはなかった。
しかし、三つ編みにしたらなぜだか切りたくなった。さあなぜだ。

ところで。
普通、好き好んで三つ編みにする子がいないとして、
そうせざるを得ない状況がある。

校則だ。

今となっては人権どうこうでかなりラフになったものだけど
ギリ90年代はじめごろまで

・男子は丸刈り、あるいはスポーツ刈り
・女子はオカッパ、長い髪は三つ編み※

※担任の「自 爆霊」先生のクラスにいる、じょ、女子~ぃ生徒のイメージ。
「旧い」女子生徒のステレオタイプ。
一方でリハウスにお住まいの女の子はダサくない。
旧 セーラー服x三つ編み 
新 ブレザーxストレート
このコントラスト。

とまあ校則のもと、みいーんなおなじような頭だった。

今日びお目にかかれなった半ズボンをまだ小学生が履いていた年代の昔話。
今じゃみんな七分丈。
この短パン世代がたぶんそのまま、坊主・オカッパ・三つ編みとは
無縁の教育を受けてきたんだはず。

さて。

いくばくか年上の姉は、三つ編みだった。
ママと同じ髪色で、姉と同じ三つ編みになったのはどうしても
虫が好かなかったのかもしれない。

ひょっとしたら姉もまた同じような髪色で、まるまる同じ頭が
ふたつ並ぶのが余計に癪に障ったのかもしれない。

だからどうした、本人結わなきゃいいじゃんという話になるけど、
どうしても結わなくちゃいけない場合がある。

お葬式だ。

何度も何度も深くおじぎをしなくちゃいけない状況というのは、
ポニテくらいじゃすまない。
パラパラと髪が落ちてみっともない。

ましてや、「これからお口でする女性」のように、いちいち
鉄矢式に耳に髪の毛を上げるなんて美しくない。
人前で髪の毛を触ることが無作法であるゆえ、髪に触れずにすむ状態に
しておかなくちゃいけない。
だから、大人の女性は髪を上げてピンで留めるし、子供は髪を編む。

そういうわけで、
彼女は母との確執、姉との確執から髪を切った。

あと、「白い服」を着ていた理由もこれだ。


・どこで髪を切ったのか?

「席を立って」
「帰り道のにおい」
「教室で誰かが笑ってた」

うん。

これは学校じゃない。

学校じゃないからね??

だって

お葬式なんだもん。学校休むでしょう普通。
一日忌引き。忌引きでなくても休む。

もう一度フレーズをプレイバック。

「静かに席を立って」

衝動的にハサミで髪を切り、腕まで切るよなことをするというのに

「静かに」

席を立つ余裕があるだろか。
もし学校の机ならガタタッと立ってイスなんか後ろに倒れて

髪の毛獲ったどー!!

くらいの勢いでやるはず。
しかし、そうしなかった。

彼女は、静かに、席を立った。

つまりは、彼女はそのとき、静かに「その席」をたたなくちゃいけない
シチュエーションにあったということになる。
湧き上がる衝動をギリギリの理性で抑えながら立った。

よって、彼女がいたのはそれなりの「厳かな場」であったはずだ。


・教室で誰かが笑ってた

世間は平日。みんなは学校、私はお葬式。

ふと、今頃なにしてるかななんて思っちゃう。
いつもの学校生活とかけ離れた場にいるだけあって、
なまじリアルに想像できる。

みんな笑ってるんだ。楽しくやってるんだ。
こんなにも晴れてるし。
私こんなんだけど。

実際に教室にいたのなら、「誰かが笑う」なんて表現ではないはず。
たとえ背を向けていたとしても、少なくとも声はわかるまいか。

そういうわけで
「誰とは限定しないけど、まあ、今日も相変わらず誰かは笑ってるんだろな」

と、ふと心に浮かんださまをあらわしている。


・行列に並べずに

彼女は、この場で「少し歌った」。
彼女は、この場で「席を立った」。

おうちでするポクポクチーンだと歌いもしなけりゃ、
席を立つ、というよりもお座布団から「立ち上がる」はず。
もしかすると、ここではイスが用意されているのかもしれない。

となれば、このお葬式はキリスト教式だ。

長イスの並んだ礼拝堂で、みんなで賛美歌312番かなにかを歌っている。

独創的なヘアスタイルと独瘡的な腕になってしまったせいか、
はたまたただ気乗りしなかっただけなのかはわからないけど、
彼女は行列に並べないまま「少し」歌ってた。
なぜ「少し」なのかはわからないけど。

イマイチなじみのない歌だから歌えなかったのかもしれないし、
歌えるけどそのときは歌う気になれなかっただけなのかもしれない。


・どんな日?

「それはとても晴れた日で」

「今日みたく雨ならきっと泣けてた」

このふたつのフレーズは対になっている。
そうなると、これらは(ほぼ)同じ日を指している。

普通、お葬式の日は特別視しない。
故人の最期の日として、命日が特別な日となる。

よって、これを歌っているのは故人の命日だ。
映画のあらすじからすると、誕生日を指すのかもしれない。
とにかく「今日」は雨が降っていて、泣けてしょうがない。

だけど、お葬式の日は晴れていた。
泣きたかったけど、その日は泣けなかった。
せめて、雨でも降ってくれていたら泣けてた。

教室で誰かが笑ってるような、気持ちのいい、
とても晴れた日だったせいで、目の前の、
どしゃぶりがとても信じられなかったのかもしれないし、
また他に理由あって泣けなかったのでしょう。

さて、なぜ泣けなかったのでしょうね。
涙腺と気持ちが空模様とかならず同じになってしまうのかしら。
それとも、雨粒で涙をカムフラージュしないと泣くこともできない
シビアな生き方をしてきたのか。
はてさて、作品見てないからどうにも。



***

もうひとつの仮説。

タイトルが「式日」からしてほかに式がつく行事を考えてみる。

卒業式。
入学式。
結婚式。
・・・

んー、違うかなあ。

そもそも、

「白い服で遠くから行列に並べずに少し歌ってた」

というフレーズがイレギュラーなものである自分を指している。
ならばこれと対になるのは

「黒い服で列に並んで歌う」

ということになりゃせんか。
白黒つけるか紅白だけど、赤い服着なくちゃいけない(?)イベントなんて
クリスマスしか知らないし。ていうかサンタ限定だしそれ。

白い服がことさら浮いていて、行列に並べないから
これまた浮いてるみたいな。