2010年7月7日水曜日

雲路の果て

Cocco - 雲路の果て

歌詞んかいくまーやんどー。


「えー、くもじの果てってよ、なにがあるばー?」


「まーやが?」


「くもじさー、く・も・じ!」


「あー・・・んじ、那覇ミュージックあらに?」


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***

失恋だとか死別を歌った歌だという解釈ちらほら。

んー。

果たしてそれは、失ったのか。

言い換えると

それは一度手に入れたのか、確固としたのか。
自分だけのものとしたのか。


・「あなた」に関する記憶

からだが覚えている以外の記憶・思い出がない。
お食事したりいっしょに本読んだりお話したりとか。

失恋したなら、思い出が大洪水のようになって溢れ、
それに押しつぶされてしまいそうになりつつ、いつか忘れることを
切に願う一方で忘れてしまうこともどこか寂しがるはず。

どっこいこの「わたし」の記憶。
おまんまんにくちづけてもらう以外にすることがない。
それも束の間、事務的にベルが鳴る。

それって「恋」なの?
ふたりはいったい束の間の時間とからだ以外に何を共有したの。


・指が守るもの、指で守るもの。

か弱い「わたし」のこと?
米味噌醤油も買えないくらい生活きついの?
だったらプロミスにでも行けば?


なんだろう、「もう失った」という完了形の匂いが薄い。
いっしょに同じ時間、もとい、「期間」を過ごした匂いがない。

「わたし」に、"彼女"としての実績が見当たらない。
その一方で、触れられたことだけを鮮明に記憶している。

肌で感じ取った指の硬さ・厚さだけでその人のことがわかるような、
そんな感性さえ持っていそうな女。

「わたし」の側から決して「あなた」の方へ歩んでゆけない制限。

「あなた」について完全に束縛できない制限。

時間制限。


「失恋」というよりも、進むにも退くにも簡単にけりのつけようがない
「悲恋」、いやそれが恋と呼べるかどうかもわからない、ある種一方的な
感情という仮説。
別にこの歌に思いを重ねてもいいけれど、職業を選ぶと思うよあたしゃ。




【以下妄想余談】

この歌の歌詞には

・聖書
・光
・溶けあっている状態

が登場する。


・昔見た聖書のページ

「昔」に「見た」程度の聖書。
新約か旧約かは描かれていない。

ぱっと見るのだから、いきなり「ピリピ人への手紙」のあたり開いても
たぶんなんのこっちゃだ。
とすれば、普通頭から開いてゆくのがセオリー。

どっこい、新約聖書ののっけってのは

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストのうんたらかんたら」

とまあ、一見さんお断りなもんですからたぶんすぐ閉じるし、
こんなページのことなんて思いださない。
たとえ思い出そうとしたところで


「あー、えーっと、イサクがヨハネのあのその・・・ああ、あの人」


うん、絶対ない。

じゃあ何が面白くて聖書なんざ開こうかななんて思うかてーと、
創世記だ。きっと。

混沌から光を生み出したカミサマ。
今となっちゃそのカミサマを恨みさえしているかもしれない。

でもって。
関連するかしないかはわからないけど、もしかしたらこのあたり
椎名林檎の「本能」がより真正面から取り組んでいるような。

という仮説。