2010年8月14日土曜日

第06回 「動機と結果 どちらが大切?」

Lecture 1

イマヌエル・カントの道徳

 ■個人の尊厳

  カントは、すべての個人には尊厳があるとした。
  その根拠はつぎの二つ。

  ・「理性的に物事を解決することもできる」存在である
   いつもいつでも理性的に処理するわけではない、しかし
   まったくできないわけでもない。

  ・自律した(autonomous)存在である
   後述。

  
 ■人間を支配するもの

  功利主義のベンサムは、苦痛と快楽が人の最高の支配者だとした。
  しかし、カントはこれを否定。
  人間のもつ理性が人を人たらしめるものであって、苦痛を避け
  快楽を求めるだけの「理性のない」けものとは一線を画す
  存在であるとした。


 ■自由とは

  人は普通、「自由」であることを次のように考える

  行為であれば
  ・望むことができる

  モノであれば
  ・いつでも入手可能である、障害がない

  しかしカントが次のように考える。

  ・自分自身で与える法則にしたがって行動すること。
   イコール、「自律的」であること。


 ■どゆこっちゃ

  人が快楽を求めたり苦痛を避けるとき、
  本当に「自由」に行動しているとはいえないとする考え。

  なぜなら、我々は欲望や衝動の奴隷として行動しているから。

  お昼時にはエッチなことでなくゴハンがほしくなるし
  寝不足のときにはエッチすることでなく眠ることを欲す。

  我々は欲求を選べないし、一方で欲求は"その必要あって"
  都度注文をつけてくる。
  しかもそれはなまじ人を動かす力がある。

  これは「自由」ではない。

  そしてこの時点で
  「自由」と「必要」は相容れないものになる。

  ex.)
   たとえば苦痛を避けるとき。

   すごくひどい頭痛・歯痛・生理痛に苛まれている!
   一秒でも早くとめたい!
   どうする!?

   さらに。
   たとえばその対処法として「必要な」薬を買って飲むとき

   ・速く効く!ダブルブロック処方のナロンエース(大正製薬)
   ・タブンキクカモーネ頭痛薬(本間貝名ファーマ)
   ・新三共胃腸薬(第一三共)

   どれを買って飲むだろう。

  このように、人間は欲求という、意識の「外」から命令を受けて
  行動が制限され、さらに、「外」から刷り込まれたイメージで
  モノ選択することが多い。

  そういうわけで一見「自由に」行為やモノを選んでいるようで、
  案外そうでもない。

  このような、自分自身で選んだわけでない欲望、広い意味で
  外からの刺激に従って行動しているものについて
  カントはこれを「他律(heteronomy)」とした。

  
 ■他律とは

  落ちてゆくボールは、自分の意思で落ちてない。
  これは「他律」であり、"自分でない"、ここでは重力という
  自然の規"律"に従ってボールは動作している。

  これは自由ではない。
  

 ■真に自由であることとは

  人が本能、ないし本能によって生み出された欲求・衝動に
  従って行動するとき、外から与えられた目的を実現する

   手段(means)

  として

   行動(act)

  する。

  欲求に従っておこなう我々のひとつひとつの行動はすべて、
  欲求から命令を受けたものによるところのもの。

  欲求はなんとかしろと「命令」しても、具体的にどうしろとは
  「指示」しない。

  このとき人は、命令に従って行動を考えて動く。
  考えて動いてる分、自分で目標立てて動いてる気になってるけど
  それは欲求にとって目的達成のための手段でしかない。
  言い換えると、人間は往々にして

   目的の設定者ではない。

  また、"手段"として

   利用される存在である。

  そこに自身の意思はなく、"自分でない"、欲求の律に従っている。

  いうなれば、人間という生き物は欲求という坂道の上に立っており
  気を抜くと"自然法則"によって坂下へ転がってゆく。
  カントはこのさまを「傾向性」と呼んだ。


 ■人とボールの違いは

  ボールは坂道があれば転がるだけで、自身でストップしたり
  向きを変えるとかすることはできない。
  自分で行動の根拠となる目的そのものを設定できない。
  でも人間はちがう。

  人間とボール、また、人間とけもののあいだには
  自分自身で与える法則(自分を律すること)にしたがって
  行動する能力の有無が横たわっている。

  これが、けものやモノなどと違って、人が人を尊重すべき
  根拠となっている。

  だから欲求や他者の言いなりにならず、自分自身が
  自分自身に目的を持たせ、行動の号令を出すことこそが
  本当の自由であるといえる。

  功利主義は「最大多数の最大効用」の名の下に他者を
  「利用」するから間違っているとカントは言う。

  また、功利主義者のジョン・スチュアート・ミルが言った

   「正義を守り、人の尊厳を尊重すれば
    人間の幸福を最大化できる」

  というフレーズについては

   「間違った理由で人の尊厳を尊重している」

  と、切り捨てた。
  その理由は

   「人を尊重するために尊重するのではなく、
    幸福を最大化するという目的の手段として
    人を尊重することが間違っている」

  というもの。
  目的と手段が一致していないことが気に入らないとのこと。


 ■なにが自律的な、道徳的に価値ある目的・行動であるか

  ひとことで言えば、

   「動機」

  が肝心。
  欲求に由来しない、ややこしい言い方をすると

   「正しい目的のために正しい行いをする」

  こと。ひらたくいってたとえば

   「正しいことをしなくちゃいけない」

  というこころが目的となり、その「しなくてはならない」という
  "義務"が道徳的価値を与える唯一の動機となる。
  
  
 ■道徳性の有無

  「正しいことをしなくてはならない」だから正しいことをする
  「人の助けにならなくてはいけない」だから人を助ける
  「悪いことをしてはいけない」だから悪いことをしない

  などなど、"義務"である目的を達成するための行動は
  目的に道徳性の根源があるけど

  「ほめられたい」だから正しいことをする
  「自分も助けられたい」だから人を助ける
  「捕まりたくない」だから悪いことをしない

  といった"欲求"、つまり行動とイコールでない動機は
  道徳性の根源とはならない。

   ex.)つり銭をごまかさない理由

    買い物に不慣れな客がいて、つり銭をごまかしても
    その場では絶対バレないと店主は踏んだ。
    しかし店主、ここで思いとどまる。

    「あの店はつり銭をごまかすといううわさが立ったら
     店の評判に傷がつく。やっぱやめとこ」

    これは道徳的な思考プロセスかってーと、そうでない。

    結果として

     つり銭をごまかさない、善いおこない

    になっただけで、ハナから

     善いおこないをおこなうから、客にも誠実である

    という姿勢で臨んだわけではない。

     善いおこないをするという目的のために
     よいおこないを実行する
    
    という目的・行動のセットではないから
    道徳的に価値あるものではない。
 

 ■もうそろそろいいだろ

  ここでカントが言いたいことはわかるが、
  はっきり言ってまわりくどくてめんどくさい。

  これは仏教の考えで解くと一発だ。

  欲求というのは「自分の欲する求め」であって、
  人は他人の欲求のためにごく自然に動くことはない。

  つまり、欲求というのは自利を求めるこころであって、
  すなわち我愛だ。
  メリットの帰着先は自分。

  また、傾向性というのは渇愛であり、キリスト教なら原罪だ。

  一方で義務というのはここでは欲求でないものすべてを指す。
  イコール、メリットの帰着先が自分でないもの。
  これは我愛に対する他者愛、つまり慈悲だ。

  ここでさっきのフレーズをもってきてくっつけてみる。

  「慈悲のほどこしを行うため、他人を利用する」

  これはおかしい。
  慈悲は完全な自己犠牲であるのに、その提供元に他者がいるのは
  その行為が成り立たない。

  また、善い行為をおこなうにはインセンティブが必要であると
  カントさんは言う。
  このあたり、キリスト教では天国行きチケットを用意してたり
  仏教では「徳」という概念を用意している。
  他人のメリットが自分のメリットになるよというもの。

  ただしその、"自分のメリット"というのは今この世で生きてる
  自分そのものが目に見えるモノなどで受益するわけでない
  というあたり、厳密には自身が享受するメリットではない。

  その本当にあるかどうかわからないあの世思想や徳といった
  概念をみとめるには、その道徳観念(時に神仏)に対する
  「信仰・敬意」が必要になる。

  このあたり、神仏という具体的な宗教くさいものでなくとも、
  日本人なら「お天道様に恥じない生き方」という概念がある。
  この概念を理解し、善いおこないをすることの意義を
  自分のものにできればずっと道徳に近づく。


 ■話戻って善意の動機

  「動機はただそれだけで善いものであって、
   その結果は関係ない。
   また、結果が善いものだからといって
   動機が善いものになるわけでもない」

  とカントさんは言う。

  もう4年も前になるけど、mixiで大規模なチェーン日記が発生した
  このとき、このチェーン日記にちょっと待ったをかけたコミュが
  立ち上げられたのだけど、コミュニティの紹介文に

  「善意が善意であり続けることができなくなった」

  というくだりがあった。

  それを読んだ自分はこの記述に違和感を覚え、それを日記に書いた。
  ごていねいにコミュの管理人さんからレスもあった。

  余談ながらそのときの考えを書くと、自分はまず法律用語の
  「悪意」をイメージした。善意の反意語として。

  ざっくり言えば、「悪意」は「こんな結果になると知っててする」
  くらいの意味。

  しかしチェーン日記の書き手は「よかれと思って」やってるのだから
  そこに「悪意」はない。(よほどひねくれた人でない限り)
 
  つまり、善意はどこまでも善意なのであって、善意でなくなるという
  ことはないはずで、善意そのものに結果は関係ない。
  善意が善意でなくなることはないけど、善意で迷惑なことが
  起きることは往々にしてあるよね、という表現をしてほしかった
  というお話。

  善意が善意でなくなったのはグッドウィルグループくらいなもんだ。


 ■人の数だけ正しさがある?

  教えられてきたものや信じるものは人それぞれ。
  ならば傾向性を断ち切る道徳のトリガーも人の数だけ
  ちがうかたちをしているか?

  これに対する問いに、カントさんは次の言葉で
  そのこたえは「1つ」とした。

   「自律的な存在として自分に法則を与えるとき
    そこへ導く理性はひとつである」

  法則いろいろあれど、道徳へと導くトリガーはただひとつ、
  それは
  
   理性

  であり、理性はすべての人間でおなじかたちをしているとした。
  これは知識や経験にとらわれない、なによりも先立つもの。
  これを

   「純粋実践理性」

  とカントさんは名づけた。


***


Lecture 2

イマヌエル・カントの道徳 Part2

 ■著作「人倫の形而上学の基礎づけ」であらわしたもの

  ・道徳性の最高原理はなにか
  ・どうすれば自由が可能になるのか

 
 ■カントの3つの対比

  [i 道徳性:動機]
  
  【義務と傾向性】  

   Spelling Bee(スペリングコンテスト)の決勝戦で
   審判がミスを見逃してしまったために勝利を手に入れた少年がいた。
   そのとき少年は自ら審判のミスを申告し、勝ちを返上した。

   彼はその動機について
   「自分をいやなやつだと思いたくなかったから」
   と言った。

   これは道徳的な動機か?

  自分のことを「いやなやつ」と思うということは、
  その自分が不誠実であることを知っている。

  言い換えれば、「正しいおこないをしなかった」ことを
  みとめるには「本来なすべきであったこと」もまた
  知っていなくてはならない。

  つまり、この行為の源泉は

  「本来なすべきこと」をすることが「当たり前」であって
  それを行わないことは「不義」である

  という認識にもとづいていて、

   「仮に善いこと(義務の遂行)をした自分」と
   「仮に不義(傾向性に従うこと)を行った自分」を

  見つめた結果のもの。
  どういうことかというと

   傾向性に対するメタな視点がそこに確かにある

  ということ。

  傾向性の中にいる人は傾向性の中にいることがわからない。
  自律的でないから、動かされていることさえ気づかないから。

   答えやすべきことが傾向性によるひとつのものしかないから。

  答えはひとつだとか、信じる道を行けとか言うロックンロールは
  もしかすると自分で決めているようで実は他律かもしれない。

  しかし自律はそうでない。
  いろんな答えをみつめることができる。と同時に

   どれが正しいことであるかを知っている

  という、価値基準を超越した、価値基準の優劣さえも
  判断して決めることができる選択能力が備わっている。


  [ii 自由:意思の決定]

  【自律と他律】

  自由というのは自律的であるときのみだとカントは言った。
  これはさきにあったとおり。

  では、他者からのおしつけ、果ては自分自身の欲求から
  指図を受けずに自分が自分自身に目的を持たせ、そのルールに
  のっとって行動する源泉はどこにあるか。

  やっぱりそれは

   理性

  だ。

  理性は人の意思をつくるものであり、前述の言葉で言うなら

   状況から判断するのではなく、そもそもなにが正しい、
   なにが従うべき義務であるかを知っている、
   価値基準を超越した、価値基準の優劣さえも
   決めることができる選択能力

  のことを指す。


  [iii 理性:命法]

  【定言命法と仮言命法】

  理性は2種類の命令を出すとカントさんは言う。
  命法とは、その理性が命じる、従わなくてはならない命令のことで

  「目的Xを達成するため、行為Yをしろ」

  という命令において存在するのは次の2種類。

  ・定言命法

   目的Xが善いことで、行為Yがそれに沿った善いことであれば
   その命法は定言的といえる。

    ex.)
    「行方不明の人を一刻も早く救いたい。
     だから日記で知人にも知らせる」
    「救える命を救いたい、だから募金する」
    「世界が平和になってほしい、だから祈る」

  ・仮言命法

   ここで行為Yが善いことで、目的Xが善いことでなければ
   その命法は仮言的といえる。
   つまり、仮言命法はXとYが一致しないもの。
   いわゆる「偽善」を内包するもの。

   ex.)
    「情報を錯綜させて混乱させたい。
     だから日記で知人にも知らせる」
    「誰かに褒められたい、だから募金する」
    「祈ってる姿を見てほしい、だから祈る。
     広場でラッパ吹きながら」

  ちなみに、

  「なんか広めてって書いてあるから、とりあえず自分の日記に書く」

  という動機と行為は、理性というよりは自律/他律の問題。
  このあたりのネットリテラシー(時に情報リテラシーを含む)は
  鵜呑みにするとか無条件に従うなどといったあたりが自律的で
  ないことが問題になる。


 ■定言命法について掘り下げる3つの定式(ここでは2つ)

  定言命法は次のようにあるべきで、そうでないものは
  定言命法とは呼べず、仮言的であるといえる。


  [i 普遍的法則の定式]

  カントさん曰く。

  「同時に普遍的法則となることを
   意思しうるような格率に従ってのみ行為せよ」

  まずこれなんのこっちゃだもんで平易な言葉に書き換える。

  「お前さんのルールや常識が"俺ルール"や
   "俺常識"でないか注意しろ」

  ひらたくいえば

   ジャイアニズムの否定だ。
  
  ジャイアンの言う

   「(永遠に)借りてるだけだ」

  は、普遍的な概念で言えば

   「借りパク」

  であり、より普遍的な概念で言えば

   「接収・取り上げ・完全なる所有・盗み」

  だ。

  このように、ジャイアンの格率(俺ルール・俺常識・俺原理)は
  普遍的法則(一般的なルール・常識・原理)に照らし合わせると
  合致しない。

  みんなは「返してもらう」前提で「貸す」のであって、
  期日あるいは要請によっても返却が行われない行為を「借りる」と
  呼ぶことは決してない。それには別の言葉がちゃんと存在する。

  つまり、普遍化してみてそれが合致するかどうかで
  その格率が「正しい」かどうかがわかる。

  普遍化という作業は、その格率が普遍的法則に比べてなにかしらの
  特例・特権などなどの優位性をもってやしないかあぶり出すためのもの。
  そこに差異がある場合、それは欲求による「貪り」の部分であって
  欲求は

   傾向性

  の産物であるから自律的でないと言える。
  つまり、

   「客を馬鹿にしているのか!店長出て来い!説教してやる」

  というクレーマーについて、それがもし

   「俺を馬鹿にしているのか!店長出て来い!俺に誠意見せろ!」

  という意味だとしたらそれは

   「他の客が迷惑するのを防ぐ」

  ことではなく

   「気分を害した俺がすっきりしたい、あわよくばゴネて
    なんか貰いたい。得したい」

  という、他者のことなんかどうでもいい、自分の欲求を
  満たそうとする傾向性が前面に出たものでしかなく、

   「俺が得するため、正義の鉄槌を下す」

  というif~thenがつながってない仮言的命法が姿をあらわす。


  [ii 目的としての人間性の定式]

  カントさん曰く。

  「君の人格にも、ほかのすべての人の人格にもある人間性を
   単に手段としてのみならず、常に同時に目的として
   扱うように行為せよ」

  これもなんのこっちゃなのでかみくだく。

  「それは誰のためにやってるのかよくよく注意しろ」

  さきのクレーマーの例でいえば、説教ぶーたれるのは

   ・他の客も迷惑しない(利益を損ねない)ようにするため
   ・店が怒られないようにする、根本的な改善という
    観点で言えば、店の質をあげることで店の利益に寄与する

  ことが本来のスタンスのはずなんだけど、そもそもの動機が

   ・迷惑被ったということをタテにして、いじめてすっきりしたい
   ・なんかくれ

  だったらそこにあるメリットの帰着先は自分でしかなく、
  そのとき店・店員はただの「利益を得るという欲求の達成」という
  目的のための

   手段

  でしかなく、店の利益となるよう、店の質を高めることに
  寄与するという、行為の目的にその他者があるようにすることを
  忘れている。これもまた

   傾向性

  の産物でしかない。なので目的を明らかにした結果ここでも

   「俺が得するため、正義の鉄槌を下す」

  というif~thenがつながってない仮言的命法が姿をあらわす。

  そういうわけで、表現の自由という公共の福祉のためじゃなくて
  自分の趣味のために児童ポルノ規制に反対するとか、敵の敵は味方
  という理屈で自分のナショナリズムを満足させたいから
  フリーチベットとか叫ぶのは仮言的であるため他律的で自由がない。


***


 ■ここでひとつの疑問

   ・コンビニで買い物をするとき、
    「商品を得るため」に「店員」という他者を手段として
     利用している。

   ・レポートを書くとき、
    「単位を取るため」に「自分」さえ手段として利用している。

   これは他律的でないか?


  こたえ。

   かさねがさね、動機が肝心。

  言葉遊びのようだけど、目的と「利用」の意味がちと違う。

  レジで店員にチェックしてもらう行為は

   盗んではいけない、誠実であるべき

  という義務を遂行するためのもの。手段と目的が合致している。
  これは定言命法に沿っている。

  これと対比するものは、

   他の仲間が盗むのを手伝うため、店員の目をひくために
   レジで精算してもらう
  
  といった行為であり、これは定言命法に沿っておらず
  店員を「利用」している。
  同様に、単位を取得するためにリポートを書く行為は

   勤勉であるべき、期日を守るべき、師を敬うべき

  などなどの義務の履行が直接の動機にある。
  これが代筆のように金が目当てだったりした場合は
  リポートを書く動機が義務の履行という善いことでなく、
  金がほしいという欲求になる。

  どちらのケースにせよ、他者の尊厳を尊重すること、
  そしてそれによる義務を履行する気持ちの有無で定言命法に
  沿うものになるか、あるいは「利用」に成り下がるかどうかが
  決まる。


このテーマは次回につづくらしい。