2010年8月27日金曜日

第07回 「嘘をつかない練習」

Lecture 1

「嘘」と「誤解を招く表現」のちがい

 ■ストレートに嘘つけばいいのに

  「嘘」も「誤解を招く表現」も、ともに目指すところは
  相手に誤った認識を与える、ひらたく言えば「騙す」こと。

  目指す結果は同じだ。

  ならば、ハナから大ほら吹けばよろしがな。
  なぜそうしない。結果は同じなのに。
  それは

   たとえそれらがともに同じ目的のものであったとしても、
   「嘘」と「嘘でない表現」には決定的な違いがある

  から。
  なにが違うかというと、

   わざわざ嘘でない表現をする動機

  が違う。


 ■クリントンの不適切な表現

   モニカ・ルインスキーさんと"不適切な関係"を持った
   ヒラリーさんとこのダンナ。
   彼は会見でこのように話していた。

    「私は皆に言いたい。
     俺ぁモニカとパッコンしてない。だから不倫疑惑は誤りだ。
     これは嘘じゃない」

   そして公聴会でのやりとり。

    議員「ビルはヤってないって嘘ついてたじゃないか!」

    弁護士「だからヤってないってば。ヤってはいないの。
        わかる?ねえ。ま、まさかお前・・・」

    議員「ど、ど、ど、ど、童貞ちゃうわ!
       ポルシェしか思いつかなかっただけじゃ!」

  フェラーリしてもらったことはビルもモニカも認めるところで、
  また、モニカの給油口に昭和ビル石油の、太くて液体の
  出てくるノズルは入ったことはなかったと、これまた両者は
  同様の表明をしている。

  何をもって「性的関係」かどうか、また、
  どこから「不倫」であるかの線引きを利用して

   ・私の定義では、給油口以外の穴にノズルを挿すのは「性的関係」ではない
   ・給油口でないところには挿れたけどね;-)

   よって

   ・給油口にインしなかった以上、「性的関係」は
    なかったと言えるから、これは不倫ではない

  という論法で言葉を組み立てて、国民に対して「疑惑は誤り」
  であるとビルは語った。

  まーどっこいフタあけてみりゃスキャンダルたるに
  十分いやらしい話であったものなわけでして。


 ■ここで2つの仮説でアプローチ

  ひとつめ
  ・ビルは心から、嘘だけはつきたくなかったとする

  ふたつめ
  ・真っ赤な嘘をつくよりはのちのちエクスキューズの
   余地があると考えたとする
  
  前者は、つい嘘をついてごまかしてしまうという「傾向性」に
  どこか抗っている姿勢がある。
  また、後者も時と場合によっては「勘違いしたほうも悪い」
  みたいな感じになるときがある。

  このようにひとつめ・ふたつめどちらのケースでも、
  「嘘」と「誤解を招く表現」のあいだには
  小さいけど確実な違いがある。

  ではその違いとはなにかってーと、そこに

   ・嘘をついてはいけない

  という道徳義務を尊重する考えが存在している。
  これをひとつめにあてはめると

  「嘘をついてはいけないから、嘘をつかない」

  という定言命法に沿ったことを為すことになる。
  これは道徳的に価値のあることだ。

  そしてふたつめ。
  エクスキューズの根拠となるのはこれも

   ・嘘をついてはいけない

  という道徳義務を尊重する考えを持っていたからであって
  仮にその考え自体を持っていなかったならば

   わざわざ「嘘でないように言う」必要がない。

  つまり、「嘘をつかない」ことに対して意義を
  理解しているからこそ、そうしたといえる。

  どういうことかというと、

  「保身のため、欺こうとする」
  ↓
  「欺くため、嘘ないし誤解を与える表現をする」
  ↓
  「嘘をついてはいけないというのは普遍的に道徳的である。
   よってギリ嘘をつかないほうがバレたとき逃げ道があるので
   後者を選択する」

  このように、普遍的な道徳的価値があると踏んでいる。わかっている。


 ■ここで整理

  ともあれビルは

   ・人を欺いてはならない

  という道徳義務をないがしろにした一方

   ・嘘をついてはいけない

  という道徳義務を遵守した。

  保身という動機からはじまった仮言命法ですらない
  「善くないこと」は、その途中で定言命法を経るかたちで
  「嘘つかない」行為に結びついた。


 ■カントは何がナシで何がアリとしたのか

  サンデルさんにおけるカントの解釈では

   ・あることあること

  を並べるのはアリとした。しかし

   ・あることないこと

  言うのはダメだとした。

  イメージするならドラマや映画の裁判シーンに出てくる
  悪徳弁護士・悪徳検事のようなもので、自分たちに不利な
  証言や証拠品を隠蔽した上で進めるような感じ。

   嘘は言ってない。証拠も本物。

  ちなみに真実がそこにないかどうかは、判決という

   「結果」

  でしか得られない。
  結果は結果であって、mixiのチェーン日記騒動同様、
  結果先行の動機というのはありえない。

  犯人でも被害者でもない以上、検察も弁護士も誰が本当の犯人かを
  100%わかっているならこの世に冤罪はないし、その逆もない。

  いろんなピースをつきあわせて最後にできた画を裁判官が
  判断するのであって、その作業自体に嘘さえなければそれでいい。
  
  冤罪のケース(CASE)をつくりうるから裁判が悪としたら
  極端な話なにをもって社会が裁けるかということになる。

  こんな感じで最初から結果を見越してしまうと、定言命法に
  いちいち制限をつけなくてはならなくなってしまい、
  「善意たる正しい動機」がこの世に存在しなくなる。

   ex.)
   「飢えている子供たちを助けたい。だから募金する」
    →だけど世の中には善意のお金で私腹を肥やすやつもいる

    じゃあ

   「飢えている子供たちを助けたい。だから募金する。
    でも何も考えずにやるのはダメだから調べる」
    →"マスゴミ"は嘘をつく

    じゃあ

   「(略)自分の目で調べる」
    →騙されるかもしれない

    (以下無限ループ)

   
  要は、はじめから結果を予測できても、
  それがいつもいつでもそうなると断言できない。
  よって結果から動機がよいもの・そうでないもので
  あったかどうかというのはなにもいえない。

  つらつら書いたけどつまり、

   善いことしたいと思ったこと自体が、ゆるぎない
   じゅうぶん善い動機だってことをカントさんが保証している

  ということ。


***


今ここにある自分、今ここにいない自分。

 ■カントの思想

  ・経験の対象としての自分
   →感性界におり、感覚から物事を知覚・理解する

  ・経験の主体としての自分
   →叡智界におり、知性から物事を知覚・理解する
    ここに自律と理性、そして自由がある

  いうなれば、前者は本能的・傾向的な部分。

   「腹が減った」という感覚 →「食べものを探す」
   「痛い」という感覚 →「苦痛を減らそうとする」
   「いい女だ」という感覚 →「うっひょう」

  広い意味で条件反射的になにかしらの反応するので
  そこに自由はない。
  
  仏教で言えば
 
   ・[欲界] 経験の対象としての自分
   ・[色界] 経験の主体としての自分

  と、そっくりあてはめることもできるし、
  禅や老荘思想なら

   ・[ここにいる自分] 経験の対象としての自分
   ・[ここにいない自分] 経験の主体としての自分

  にあてはめられる。
  禅かなにかのたとえ話に確かこんなのが。

   ・クマに追いかけられ、がけから落ちてしまった
   ・落ちる途中枝一本にひっかかり助かった
   ・そんな折、野いちごが生えているのを見つけた

  その人は

   ・枝が折れたら死ぬ
   ・奇跡的に這い上がっても食われて死ぬ

  という「悲惨な状況」でもいちごの味を楽しむことができた。

  この場合、「状況を知覚する自分」は同時に少なくとも2つあり

   ・死にそうなくらい危険な状況に直面
   ・死にそうなくらいうまいイチゴに直面

  を「感覚」として得ている。
  人間というのは感覚をすべて受け取るだけでなく、取捨選択して
  感じたり、それとまったく切り離された意識を持つことも
  可能であるとした。
  意識次第でそこにそのものがないかのように、またはあるかのように
  とらえることができる。

  また、山岡鉄舟がえらい坊さんを尋ねて

  「一切のものは空であることを知りました」

  と、悟ったことを披露したところ、坊さんに頭をゴチンと
  やられたもんだから鉄舟は怒り出した。
  すると坊さん、

  「一切が空なら、なぜ怒る」

  と、一蹴した。

  存在も感覚もすべて意識次第ならば、ここにいる鉄舟も
  いるけどいないこととできるし、殴られた感覚もあるけど
  ないこととすることもできる。
  
  人間は心持ち(感覚チャネルの選択はそのひとつ)次第で
  自由になれる。

  いつでもどこでも鳥になって空を飛ぶイメージさえすれば
  それは「自由」だ。どこへでもゆける。
  また、「心頭滅却すれば火もまた涼し」もこれに同じ。
  
  もういっちょ。

  同様に、冷蔵庫に冷えたコーラがあると知っているから
  のどが渇いたら「そのコーラ」を飲みたくなる。
  でも、確かにコーラはあるのにあることを知らなかったら、
  あるいは忘れていたら、

   「冷蔵庫の中のコーラを飲む」

  という選択肢は存在しないし、コーラ自体、その人の中では
  冷蔵庫の中に存在しない。その欲求が起こらない。

  その逆で、コーラなんてないのにあるものと思い込んでしまって
  冷蔵庫をあけるたびにガッカリすることもありうる。
  それは、「確かにあったもの」が一瞬にして「なくなる」。
  もともとなかったものを「喪失」する、人間のふしぎ。

  それはまるで、幸せそうな他人を見て

  「自分にも幸せがあるはずだ、ないはずがない」

  と、勝手に自分にありもしない幸せを期待するような。
  他者と比べたりするからないものがあるように思えたり
  あるものがないように思ったりして迷う。
  
  つまり、カントであれおしゃかさんであれキリストさんであれ
  老子荘子であれ

   人間というのは欲求のもとにある以上他律的であるが
   認識ひとつで自律的(自由)になれるし、そのスイッチは
   傾向性よりも優先度的に上のレイヤーにある
   
  ということ。

  また同時にふたつのレイヤーにまたがっているから
  人間は

  「していること」(流されている自分)
   と
  「なすべきこと」(流されないことを目指す自分)

  の間に隔たりがある。

  そういうわけで鉄舟だって人間だもんで、
  どうしても感覚は切り離すことはできない。
  痛みを感じるということは人間である以上避けられない。

  しかし、

   痛みを知覚した、だからそれに広い意味で反射的に反応する

  というのは他律的であって自由でない。

   痛みを知覚した。しかしここで自律的に考え行動することが
   真に自由である

  と考えることが大事であって、

   傾向性を俯瞰しているからこそ、感覚の世界にあるものすべてを
   「空である」とする見方ができる。

  この視点を真に得られていたら、反応することはなかったはず。
  これを広い意味でとらえると

   「やられたらやりかえせ」
   「目には目を、歯には歯を」

  というのは他律的だ。一方で

   「右の頬をぶたれたら、左の頬を向けなさい」

  とするのは自律的だと知ることができる。


 ■歌詞の属する世界

  「あれもしたいこれもしたいもっとしたいもっともっとしたい」
  「何かを探しに行こう」
  「ロマンスの神様願いをかなえて金持ちのイケメンがほしいの」

  というのは感性、言い換えれば「欲」に訴えかけている。
  もっとほしがろう!得よう!とするもの。

  一方で

  「君が変われば、世界も変わる。葉っぱ1枚あればいい」

  というのは叡智界、色界、理性、超自我etc
  いろいろ呼び名はあれどそういうのに呼びかけている。




 ■科学と道徳

  道徳がいわゆる「この世界」、言い換えるなら

   ・感性界

  にあるものを論理立てて説明できるものだから、それしかし得ない
  ものだから、それより上のレイヤーにある人の心の中の世界にある
  自由さと道徳の世界を解き明かすことはできない。


***

Lecture 2

カントの政治理論

 ■権利と契約

  土地の「権利書」ってのがある。
  土地を譲渡することなどに同意して「契約」を結び、
  それにより定まった「権利」関係を明記したもの。

  つまり、「権利」というのは「契約」でもって確定する。


 ■正義を生み出す法とそうでない法

  カントさん言うに、法(広い意味でルール)は、
  人が集まって決めるものと自然発生的に生まれるものの
  2種類あるとした。

  老人医療や司法修習生の給与廃止など、人によっちゃ
  「悪法」呼ばわりするようなルールがあったりする。

  国の財政が厳しいから切れそうなとこ切ったら人の生命が
  ないがしろにされてしまったり、司法制度が金持ち連中に
  牛耳られる恐れがでてきたとメディアは伝える。

  いろんな利害関係のある国民の代表が集まり協議した結果が
  これだもんで、つまるところ

   人が決めたルールは、力関係・利害関係によって
   結果どちらかに傾いたものになることが往々にしてある

  といえなくもない。
  その一方で。

  たとえば日本国憲法では、第3章「国民の権利及び義務」において
  国民の権利が定められている。
  これは基本的人権という名の人間の尊厳、ロックの言うところの
  自然権をより具体的に解釈し明文化したもの。

  これは法の下の平等を謳ったものであり、正義だ。
  このような正義に適う法をカントさんは

   理性の理念

  と呼んだ。
  これは、いろんな事情を持った人がワイワイ集まって導き出された
  "何かしら思惑の絡んだ"ルールなどではなく、人が人を尊重しあって
  得られた合意によって生まれた権利に関するルール。

  つまり、正義に適う法は、人が寄り集まって決められる
  性質のものではない。

  でもっておさらい。
  「権利」というのは「契約」でもって確定するわけだから、
  そこにはなにかしらの契約があったと考えられる。


 ■誰が誰と契約したよ。書面は?証拠は?

  なもんあらへんがな。

  というわけで、"実際に結ばれていない契約"、すなはち

   憲法の条文に載せる前からすでに存在していた契約

  である

   「仮説的契約」

  の道徳的効力とはなにかをロールズを通して考える。


***

ジョン・ロールズの仮説的合意

 ■ロールズの「正義論」

  ロールズは

   人間は不可侵であり、社会全体の福祉でさえこれを侵せない。
   これは、多数決などによって覆せるものでもないし、
   たとえ社会にとって利益を阻むものであってもかわらない。

  とし、また

   正義の原理は「仮説的な社会契約」より導かれ得る

  とした。


 ■「仮説的な社会契約」を「無知のベール」で説明

  たとえば。

  「新規プロジェクトにつき募集」で集まった新入社員ら。
  彼らは互いに素性を知らない。

  この状態は「無知のベール」が互いの間に存在する。
  互いに相手のことを知らない。

  この状態では相手の年齢や経歴、財産などのバックグラウンドが
  一切不明である以上

  ・下手にタメ口聞けない
  
  という接し方になる。

  相手を知っていくとまず、年齢が上なのか下なのかはっきりしてくる。
  これでタメ口聞いてもよさそうかどうかのラインを引くことになる。

  また一方で、その人に意見するだけ恥かくような「その道のベテラン」が
  いることが判明したり、ともすればお偉いさんの息子が紛れ込んでいる
  ことが判明することだってあるかもしれない。
  そいつに気を使うかどうかは別として。

  とにかくそれらを知る前。
  できあがったばかりの人の集まりイコール職場という名の「社会」

  において「掃除当番」だの「シフト決め」だのを行った場合、
  それぞれの意見を尊重して物事が決められる。

  一方で相手のことをわかっている状態になれば

  ・年齢
  ・知識や経験といった能力の差
  ・実はリーダー候補として入社した社員がいるという事実

  などなどが判明している以上、多かれ少なかれ、優位にある人に
  重きを置いた結果になる。

  このように、「無知のベール」は

   相手を尊重する

  という効能により、結果

   平等を保障する

  ものとなる。
  よって、「無知のベール」下で決められた物事・契約は
  そうでない状況下で決められたものと違って

   正義に根ざしたもの

  であると言える。
  これが「仮説的な契約」。
  
  反対に、契約の経緯において互いの力関係の影響が存在しうるもの、
  同様に実際の法制定プロセスにあるものを「現実的な契約」と呼んだ。

  ここでは、前者をより上の社会にまでもっと広げた概念で
  各々の義務と権利のありかたを考える。
  すると門戸や職業、年齢性別人種障がいの有無などなどもろとも
  すっとばして

   人が人同士尊重しあう、平等である状態

  が生まれてくることがわかる。
  この状態において合意されたことがら(仮説的な社会契約)のみが

   正義の原理

  であるたりえるとロールズさんは言う。


 ■現実の契約について

  「仮説的な契約」を掘り下げる前に。

  まず、そもそも契約の持つ道徳的な意味・効用を確認する。
  そのため、"実際に締結する契約"である「現実的な契約」を
  見ることにする。

  着目点は2つ。

   1.いかに拘束したり義務を負わせるか
   2.契約が生み出す条件をいかに正当化するか


 ■早速ながら

   2.契約が生み出す条件をいかに正当化するか

  について、
 
   契約それ自体は、条件を正当化しない

  と、カントさんもロールズさんも言う。
  悪徳商法や投資詐欺にひっかかって「契約」した老人らの契約内容は
  散々なもの。
  つまり、正義でないものは正当化のしようがない以上、契約自体に
  条件を正当化する力はないと言える。

  どんなに「契約は契約だ」と言っても、その契約条件について
  司法は悪徳業者の側に有利な判断を下さないはず。

  実際、「グレーゾーン金利」については過払い金請求が山のように
  行われ、"契約"内容のうち法定金利を超える部分は無効、つまり

   正義でない

  ものとなるから、それが過払い金を返す理由になっている。

  またこれは個人・法人間の契約のみならず、法にも言えることで
  奴隷制をみとめた法(=社会の契約)も正当なものとは決して言えない。

  以上のことから、

   同意の事実は、義務があることの十分条件ではない

  といえる。


 ■ではひとつめについてはどんなだ
  
   1.いかに拘束したり義務を負わせるか

  これについては着眼点が2つ。
  まずひとつめ。

   a.同意した契約は守らなくてはならないという自律
  
  契約というのは他者のために自らに義務を課す行為、
  つまり自律的な行為である側面がある。
  これを反故にするのは道徳的でない。
  だから義務を負う。

  まとめると、

   ・義務を義務たらしめているのは自分の理性

  といえることがわかる。
  そしてふたつめ。

   b.他者により便益を得る(た)のだから、相応のモノ・カネや
     労働を差し出さなくてはならない

  相手がボランティアであると了解していない限り、成果に対価を
  差し出さないのは搾取であり、一方的な主従関係になってしまう。
  これは正義ではない。人が他者の労働を所有している。

  よって、相互に平等であるためには「貸し借りなし」の状態に
  しておかなくてはならない。

  つまり契約というのは事前に

   ・なにをもって相互に「貸し借りなし」で取引を終えたといえるか

  という点を明らかにしておくための

   手段

  であるといえるし、極端な言い方をすれば

   契約は、手段でしかない

  といえる。
  以上のことから

   同意の有無とは関係なく、「貸し借りなし」にしなくてはならない
   という観点から相応の義務(いわゆる見返り)が発生することは確かだ
 

  といえる。
  さらにこれを言い換えると

   "実際に結ばれていない契約"であっても、義務は発生する

  ということになり、さっきの言葉に沿う文にすると

   同意の事実は、義務があることの十分条件でさえない

  となる。


 ■何で同意もなしに義務が発生するよ

  たとえば交通事故で電柱にぶつかり心肺停止の状態になる。

  その現場に居合わせた人が通報してくれて救急車で病院に
  搬送され、大掛かりな手術の後意識不明のまま引き続きICUで
  手当てを受けた。

  そして奇跡的に回復して退院する時には大きな額の手術費用と入院費用。

  しかし事故の当事者は手当ても入院も同意していなかった

  それでも多額の人件費・薬代・食事代にベッドいろいろに関する
  支払い義務はないと言えるだろうか。

  もちろん、望んでもいないのに、事故の当事者が大金持ちであることを
  見越して

   ・これといった必要もないのに保険適用外の処置を乱発

  していたなら、その部分については支払う義務はないけど。


 ■何をもって同意なしの義務が発生するか

  平等な人々の間の仮説的契約、つまり、

   ・当然それがなされるべきである
    死にかけの状態では、放っておくのではなく
    救命措置をおこなうことが誰の目から見ても当然である

    ⇒前出の[自律]に即したもの。

   ・誰も一方的に不利益を被らない条件の契約
    救命措置にかかる対価について、誰でも納得できる
    程度のものが請求されること

    ⇒前述の「貸し借りなし」、イコール[相互性]に
     即したもの。

  でのみ契約の同意がなくともそれに伴う義務が発生する。
  だから、上記の例で言えば義務は存在するといえる。