2010年8月27日金曜日

第08回 「能力主義に正義はない?」

Lecture 1

ロールズによる「分配の正義」

■前回のおさらい

・正義の原理は、仮説的契約によりもたらされる
・仮説的契約は、無知のベールが互いの間にある状態下で成立する


■無知のベールと功利主義

無知のベール下にある人々は、

「最大多数の最大幸福」

を優先させる功利主義を選ぶか。
答えはノー。

なぜなら、フタあけた結果少数派に属していた場合
意思や財産を奪われてしまうから。
常に多数派でいる確率は高くない。

では何を選ぶか。そこで

人は「平等な基本的自由」を選ぶ

とした。
思想・言論・身体の自由など、いわゆる基本的人権が保障された
社会に入ることを望むはず。

これより、ロールズは功利主義は拒否されるはずとした。
この根底にあるのは

・自らの基本的権利と自由をいかなる経済的利益とも交換しない

という考え方。


■無知のベールと平等主義

今後自分が金持ちになるか、はたまた貧乏になるかはわからない。
じゃあ保険をかけておく意味で金持ちも貧乏もない社会を
望んでおこう

という考えがあっていいかもしれない。
しかしこれでは貧乏になることはなくても金持ちにもなれない。
言い換えると

努力が報われない

社会となる。
悪くはないんだけど良くもない。
無知のベール下で、人々は完全な平等を望むとも思えない。

投資で言うならスクエアな両建て。
もうけも損も無い状態。


■そこで登場、格差原理という概念

途方もない金持ちにもなれる一方で、最下層に位置しても
生活レベルを保障する社会って悪くないよね※

という考えに基づき、ムチベーな人々はこれを選択するはずと
ロールズさんは考えた。これは

条件つきの平等原理

であって、完全な平等ではないも完全に搾取されることもない
ことが望まれる社会。
言い換えると、

ある程度の格差を容認する社会

といえる。
この場合、

恵まれない人々に益となる経済的不平等のみが許される

と、ロールズさんは言う。

※この考え方に近いのは投資で言うならオプション取引。
もうけは享受して、損な状況はオプションを行使せずに
最低限の損失で済む。
宝くじを買うのにも似ている。


***

ちょっと待ったの能力主義

■完全な能力主義を選ばない理由は?

平等な基本的自由なんていい、
成果主義の社会でヨーイドンじゃダメなのか?

(成果主義を含む)能力主義というのは能力や結果がすべて。
つまり、

足の速い人も足のない人も同じゴールを目指す

ことになる。これは

ゴールラインを平等にしたことで、スタートが平等でなくなる

ことであり、言い換えると

成果の評価尺度となるものすら各々にとって"平等"でない

と言える。
そこでたとえ両者同じだけ努力したとしても、足のない人はとうてい
敵いっこない。

つまり、

努力が評価される機会とその見返り

はあっても

能力(足)や結果(タイム)が欠けていると、努力は評価されない

ことになる。
言い換えると

その社会の中で永遠にインセンティブを受け取れない人々

が生まれることになる。
これは

生まれながらにして努力が報われるかそうでないかが
決定されうる社会

だ。こんな社会をムチベーな人々が望むだろうか。
これを選ぶとしたら、もはやギャンブルだ。


■ギャンブルとインベストメント

理性的な投資家は、手持ちの一切合財の資産を
すべて賭けるだろうか。
こたえはノーだ。

余裕資金の中で、そしてその中でも分散投資する。
受け入れられるリスクの中で戦っている。

なにが言いたいかというと

・投資しない   平等主義
・先物全力買い  完全能力主義
・先物オプション 格差原理

みたいな感じにたとえられそうな気がするみたいな。

この世の中で、全力で先物買うことは当然のことだろうか。
無知のベールが互いを隔てている市場の中で、たやすく
オールオアナッシングの賭けに出るだろうか。

皮肉なことに、リバタリアニズムの権化というかそのものというか
マーケットでおまんま食ってる人たちでさえ

人として最低限の生活

を死守した上で生きているというスタンスを認めざるを得ない。
身を滅ぼしうるギャンブルと投資は違うもの。

つまり、能力にだけ報いるシステムというのは

"誰にとっても最善である"とは決して言い切れない。


■格差原理を検証する2つの議論

・ギャンブルだっていいじゃないか(前述)
・所得や富、機会の分配は公平なものでなくてはならない
⇒生まれ持ったものにおけるアドバンテージや
ディスアドバンテージに対してなんらかの形で
是正しなくてはならない

次に後者について検証するため、封建的貴族社会について
ロールズさんは考えた。


■社会の進歩をみてみる

【封建的貴族社会】
・生まれながらに一生の身分・職業が決定されている

西洋のお城を中心とした社会みたいな。
インドのカースト制度もおなじ。
これは機会分配がハナから存在しない。農家は一生農家。

そこで次の社会へ進化した。

【形式的に機会均等である社会】
・職業選択の自由アハハン

たとえばの例。

司法試験てのがある。
しかし弁護士などなどになるにはべらぼーな額のお金が必要。
金持ちのボンボンにはそれは苦ではない。
しかし貧乏人にはそれが大きな障害となる。

スタートラインが違う以上、同じ努力は同じ結果にならない。
同じ報いを得られない。

これが公正な競争であるといえるのか。

金持ちが努力した、弁護士になった。
貧乏人が死ぬほど努力してはじめて、弁護士になれた。

この違いは

べらぼーな金でしか解決できないハードル

が確かに存在することであり、封建的貴族社会と比較した上で
言い換えると

決して得られなかった職業機会が
べらぼーな金で得られるようになっただけの話

であり、本質的には

限られた人以外にとって、依然として機会は
生まれながらにしてあってないようなもの

といえる。

そしてこれからさらにもう一歩進む。

【公正な機会均等である社会】
・機会そのものへのハードルがない、またはないに等しい

ここではじめて自分たち社会の考える「能力主義」になる。

たとえば普通選挙における被選挙権。
一定年齢以上に付与される被選挙権によって誰でも立候補できる。
議論はあれど供託金もそんな途方もない金額でもないとする。

しかし

・機会を用意しても
さらに
・その機会にちゃんと参加できるようにしても

それでも差がつくポイントがある。なにかってーと

二世議員は地盤かばんカンバンそろってるだけに
生まれながらにして圧倒的に有利

という現実がまだ残っている。


■ではどうするか

ロールズさんはだからこそ「格差原理」へ進む必要があると説く。
世の中には

・天才的な遺伝子を持った人間
・優秀な芸術家の子として生まれ、指導を受けられる人間
・"地元の名士"の子として生まれた人間

などなど、「生まれ」のよい人間がいる。
恵まれた彼らとそうでない人々の間にはどうにもこうにも
埋めがたい差がある。

ならば彼らにハンディを課して競争することが理に適うかというと
それは完全な平等主義になってしまい

・持って生まれた才能や環境が台無し

になってしまう。
才能はうんと花開いてもらったほうが社会にとっても
益になるはず。
しかしそれだけでは恵まれた人たちだけが得をする
世の中になる。

ではどうするか。
そこでロールズさんはさきに述べたとおり

恵まれない人々に益となるよう、恵まれた人々から
経済的利益を移転するという不平等な扱いが
特例として許される

社会がよいとした。
持って生まれた才能を利用するのはかまわないし、むしろ存分に
やってもらいましょうとした。

そして生まれた時点で存在する各々の経済的なアドバンテージ差を
埋めるべく、

生まれ持つ「恵まれた才能・生まれ・育ち」に起因する
経済的利益を「恵まれない人々の側」へ移転する

ことで差はなくなるとした。

これはその人自身の生み出した功績を取り上げるものではなく、
その人の生まれ持った「恵み」を、ほかの恵まれない側へ
分配しようねという考え。

ちなみに。
これはたとえ同じ環境で生まれ・同じ環境で育った双子でさえも
両者に差があると考える。
極端な言い方をすれば

何分だか何時間だか先に生まれたという理由だけで

「あんたお兄ちゃんなんだからしっかりしなさいよ」

と口すっぱく言われ、そのとおりに育てられた結果

・勤勉な長男
・奔放な次男

という違いが生まれたりもする。
兄貴京大だけど弟ふつー大みたいな。

といった具合なので、

双子の兄弟でさえ生まれ・育ちに差がないとは言えない

といえる。
これを言い換えると

努力する才能さえも、生まれ・育ちに左右される

ということになる。
そして

長男として生まれたのは自分の力ではない、恵み

でわけであるから

生まれはともかく努力は紛れもない本人の功績であるから
それを取り上げるのはおかしい

とする考え方さえ成り立たなくなってしまう。

話戻って

恵まれない人々に益となる経済的不平等のみが許される

という考え方を言い換えると

恵まれない人々に益となる経済的不平等が課せられることを
受け入れてはじめて自分の益を手に入れることができる

とできる。
つまり、富の分配と富の分配はまず再分配ありき、
吉本芸人風に言えば

再分配"先行"

の考え方であることがわかる。


***

Lecture 2

格差原理への反論

■1.インセンティブはどうなるか

「累進課税率が9割とかめちゃくちゃなもんだったら
せっかく才能あってもやる気なくすがな」

税を取りすぎて才能ある人のモチベーションを下げることは
あってはならないとロールズさんもおっしゃっているので
反論にはならない。


■2.努力はどうなるか

「一生懸命がんばったのだから、相応の金は彼らのものだ」

・さきにあったとおり、生まれ持った才能や、身体的な
すぐれた能力または障がいは自分の功績でも自分の非による
ものでもない。

・そもそも、対価は努力でなく結果に支払われている。

これらのことはつまり

(自分のものでない)才能 + 努力 = 成果  

この成果に支払われているものである。
言い換えると

大きな才能 + 少しの努力 = 成果
小さな才能 + 大きな努力 = 成果

これら同じ成果量にかかるそれぞれの努力量は違うものだが、
対価は同じだけ支払われる。
このことから

どれだけ努力したかなんていうのは成果に支払われる
対価となんら関係ない


という答えになり、悪く言えば的外れな反論になる。


■3.才能の自己所有はどうなるか

「才能や資質を社会全体のものと考え、それから得られた
果実を取り上げるのは納得いかない。
わたしの才能はわたしのものだ。
なぜならわたしはわたしを所有しているからだ」

この部分、サンデルさんの説明はどうも少ない気がする。
ハテナな人もけっこう多いのでは。なにがハテナかってーと

なにをもってロールズさんは、
自分自身を所有しているわけではない
としたか

という点。

そもそも自己所有についてロールズさん本人が言及していない以上
それに対する説明がなくても致し方ない。

考え方としては、

自分の力で掴み取ったものだけが真に自分のものであり、
それに対する対価を受け取る資格がある

という考え方が根底にあり、

自分で掴み取ってもいない、生まれついた才能や親の七光りは
お前さん自身に対する対価ではなかろうに

という理屈がころがっている。
さらにもう一歩進めると

この時代に、この親で、この五体満足で、この才能で
生まれてきたこと自体、
一切手前の功績でもなんでもなかろうよ

という話になる。
つまり生まれ持ったこのバディアンソウは

自分でアクション起こして得たものでない以上、

ロールズさん的には

どーしてそれを自分のものとできるよ

という考え方になる。 
これをさらに展開すると

・たまたま戦争もない世の中で安心してのーのーと
働ける時代に生まれたこと
・たまたまバブルにのっかって売り手市場の中で
就職できたこと
・たまたま時代のニーズと持ってる能力が合致して
給料もらえること

などなど、これらすべて

テメーの力でもぎ取ったもんじゃねえだろ

という話になり、時代背景の部分について擬人化するとこうなる。



勝ち組世代でいるのは自力ではないし、
好きでニート街道突っ走っているわけでもないし
好きでゆとり教育に浸かってたわけでもない。

その、ありあまる外的要因によってつくられた才能・キャリアは
どうして自力で勝ち得たものだと胸張って言い切れるんかいな

という見方があってもしょうがない。
これを全部が全部いいのも悪いのも当人らのものとしたら、

氷河期世代に何かしらのアクション差し伸べる理由がなくなる。

氷河期世代が一方的に置き去りにされてしまう「才能の自己所有」は
正義か?公平か?

余談を言えば、戦争で学校にも行けないまま社会の波に飲まれ
子育てしながら働いて家族を養い、とうに還暦過ぎてもいまだに
自分の名前以外字も書けない人たちがこの世の中にいる。
そういった人たちに体系立てて教育してくれる公的機関はこれまでも、
そして今現在も存在しない地域が存在する。

そういう人たちに、

「いいや、努力が足りない。能力がないのは自力で得ていないせいだ」

というほうがどっか無理がある。


***

「道徳的な対価」と「正当な期待に対する資格」

■対価と資格

バブル兄さんが一定の仕事をしました。対価を受け取りました。
氷河期派遣弟が一定の仕事をしました。対価を受け取りました。

このとき、両者が同じ時間に同じクオリティの仕事をしたら
道徳的な対価は同じといえる。

しかし、兄のほうがより大きな賃金を受け取る資格がある。

そこに何の違いがあるかというと

・正社員は高い賃金を期待できる資格がある
・派遣にはそれがない

・キャリアには高い賃金を期待できる資格がある
・派遣を転々としてる人間にはそれがない

つまり、バブル兄の受け取る額に対する資格を、
派遣弟は持っていない。

ここでは、学歴やキャリアが重視されるから。

もうひとつ例。

23歳大卒の駆け出し職人が仕事をしました。対価を受け取りました。
23歳高卒のベテラン職人が仕事をしました。対価を受け取りました。

このとき、両者が同じ時間に同じクオリティの仕事をしたら
道徳的な対価は同じといえる。

しかし、高卒のほうがより大きな賃金を受け取る資格がある。

ここでは、学歴ではなくキャリアが重視されるから。

さらにもうひとつ例。

23歳大卒の日雇いバイトが仕事をしました。対価を受け取りました。
23歳高卒の日雇いバイトが仕事をしました。対価を受け取りました。

両者の賃金はおなじ。

ここでは、学歴もキャリアも無意味だから。

つまり、職種や職域というそれぞれの「小さな社会」において
各々の能力というのは重んじられるかそうでないか、
つまり

価値があるかどうかを見なす姿勢が変わる

ものであるといえる。
極端な言い方をすれば

ジョークを交えたトークができる才能なんて、葬儀屋には無意味

だといえるものだから、もし明石家さんまが葬儀屋に転職したら
たちまち長者番付から外れることになる。

つまり、技能給という目に見えるものばかりでなく、極論を言えば
免許保有者の「名義貸し」のように、能力があればそれでいい、
つまり

その人のおこないではなく、「自力で得たものでない才能・能力」
というものに支払われる部分は確実に存在する

といえる。


■つまりどゆこっちゃ

たとえばウデのいい土建屋さんがいるとする。
景気のいいときはえらい稼ぐ。
しかし景気が悪くなった途端、建設中のビルさえもそのままに
仕事がなくなってしまうこともままある。

ではここで、

仕事がない = その人に価値がない

といえるだろうか。
技術に対する知識や経験、人をまとめる力などなどは
そのまま持っているはずだ。
しかし彼らに支払われる経済的利益がないのはどういう理屈かってーと

そのとき社会が彼らを重んじる価値観を持ち合わせていない

と言える。
これはさきの職域うんぬんの話にも同じく言えることで

葬儀屋は明石家さんまを重んじる価値観を持ち合わせていない

という理由によって、積極的にコメディアンに支払う用意が
ないということになる。

このように、時代や職種・職域などなどが変われば重宝される
能力というのは変わるという現実がある。

つまり、

「才能・能力」に支払われる経済的利益は
時と場所、ひらたく言えば需給関係に左右されるもの

ということになる。

つまり、社会がその時々に持ち合わせる価値観というものを
経済的利益の移転というかたち是正することで、それら
需給関係で価値観からあぶれた存在の食いっぱぐれを防ごう

という理念に基づいていることがわかる。


■さーて、次回のサンデルさんは

マイケルです。

状況の産物であって自力で掴んだものでない「才能・能力」の
是正のために経済的利益を移転することの正義を見ました。

するとアナゴ君が言うんです。

「経済的利益の移転、つまり是正に正義があるなら
機会や名誉の配分に関する是正はどうだろう」

って。
僕もう困っちゃいました。

さて次回のサンデルさんは

・アファーマティブアクション
・最高のフルートは誰の手に

の2本です。