2014年11月12日水曜日

レリゴーと15の夜とマイルドヤンキー



見方が変われば世界が変わる。
自分はなんて不自由なんだろうかと思っていたが
いざルールやしがらみを破ればなんて自由なんだろうか。

盗んだバイクで走り出す
行き先も解らぬまま

というシチュエーションとまったく同じなのが

レリゴー
レリゴー

でして、劇中のエルサはまさしく同じ路線。
要するにレリゴーは

ヤンキーソング

であり、これが流行った時点で

日本総マイルドヤンキー

とかいうのはあながち単なるステレオタイプで
無いことを証明してしまってた。
ちなみに15の夜は当初

俺って自由だ♪
爆走最高♪
風になるのカッコイイぜフンフフン♪

という内容でつまらないものだったため、書き直させたと
須藤晃さんは言う。
でもって出来上がった歌は没後21世紀まで残ってる。
そのミソは

「自由になれた気がした 15の夜」

というキメの歌詞。
この一言がなければこの歌は死んでる。

「自由になれた」

のではなく

自由になれた「気がした」

ココ大事だけど、実はあんまりちゃんと気づいてもらってない。
自由だ!自由だぞ!とさんざ歌っていて、耳に残るのは
もちろん「盗んだバイクで走り出す」ところ。

その一番最後にさらっと一言だけ

「気がした」

という否定を差し込んでいるのだけど、注意をそらすマジックのよう、
この歌の哀愁のもととなるこの部分がことさらクローズアップ
されずにおかれているから切ないけどどこが切ないか
ちょっとよく見ないと気づけない。

同様にエルサだってありのままとか自由とかそんなもん
この人生にありもするものか不安だったことだろう。
だってそんな生活、トラブル抱えてお城に缶詰のお姫様にゃ
まったくなかったんだもんよ。

だから、その不安をかき消すように力強く歌う。
不安がこみ上げてくるほど力がこもる。

だもんですから、この歌は爽快自己肯定ソングどころか
そこにある情景は哀愁である。憂いである。情念である。
自己不安である。
coldがbotherしないとかいう強がりである。

ありのままと声高に叫ぶほど、寂しさが募るのである。
本来気持ちよくスクリーン見ながら合唱とかいう代物では
決してないはずだ。この情念はもはや演歌。
八代亜紀や坂本冬美は合唱するんじゃなく、背中丸めて
サンダル履いてひとりおでんをつつきながらコップ酒を
ちびちびするほうがよほど絵になるのである。

変化形で言えばglobeのDEPARTURESも、雪の中で女の側が
切々と情念を歌い上げるあたりジャンルはともかくその
スピリットは演歌だ。日本人はこいつにめっぽう弱い。
だから大ヒットした。小室哲哉の思惑通りである。
着物着てたらもう、「期待の新人・山田桂子」で十分いけてた。

いや大丈夫。
TKはJD-800をMasaoKogaモデルの大正琴に持ち替えて
一緒にステージに立てるので食いぱっぐれない。
問題は酒井さんの立ち位置が綾小路きみまろあたりに
食われそうであることだけだ。



話戻ってレリゴーも15の夜も、自由とか、ありのままとかいう
100%自己肯定を歌っただけの歌と思ってらっしゃる方も
少なくないと思うけども、別にその人たちはその人たちでまあ、
そのままでいんじゃないですかね。
暗い雪山の中で一人だけの冷たい氷の城をエルサは心の底から
楽しんで造ってるのでしょう。

どうぞありのままで、いやがれ



【余談】

ただひとつフォローを入れるなら、この元凶は訳詞のまずさが
もたらしたもんであるけど、最低限きちんと

「自由になれた気がした」

に相当する

「少しも寒くないわ」

という強がりは元の歌詞どおりなので、まったくなりが
変わってしまってるわけではないが。
とりあえず、

わたし輝く

とか

自分信じて

とか

自分大好き

みたいな軟弱J-POPな言葉は元の歌詞にないはずである。
完全な意訳にしてあさっての方向に誘導する気満々。

ディズニーが敢えてOKしたのなら、そういう商売なんだろう。
それでおまんま食ってる以上、いい悪いを言うつもりはないが。

もし仮に翻訳した人が本当に心からエルサはこのように
考えたんだと思ってこの歌詞にしたのだとしたら、それは
エルサの気持ちに寄り添ったものではなくただ単純に
その翻訳家自身のペラいおセンチな感情を当てはめただけの
ことになってしまうが。


【さらに余談】

その点で言えば、「魔法にかけられて」はディズニーの中でも異色。
もはやドリームワークスではないかと思えるほどの、過去のディズニー
自身への皮肉がたんまり。
それがいいか悪いかということは別にして、そういう作品らであったし
時代や人がそれを求めてたということのあらわれでもあるけど。

じゃあそこで「お決まりの規定路線」から方向転換したんですかねってーと、
このアナ雪レリゴーブームを煽ってるあたり、そうでも無いように見える。

でも。
この物語自体は

・自己よりも他者、立場上地域社会全体を優先させなくてはならない
⇒集団への帰属意識(アイデンティティ)

と同時に

・自分は自分である
⇒自己同一性(アイデンティティ)

が葛藤し、これを高次元に統合するという、ある種思春期のいきさつを
1時間なんぼの尺にまとめてみました的なもんであるけど、
このストーリーは若干足りてない。

有り余る雪の力、氷の力というのは自己愛の象徴であり、いわば欲求。
これをコントロールするのが他者愛であり、言い換えると抑制、統制。

しかしそもそも力が暴走したきっかけは、妹のために、妹を喜ばせる
ために行ったことであって、これは他者愛のはずだ。
その事故が発生する前までは問題なくコントロールできていたはずだ。

しかし不意に事故が起き、以降どういうわけか暴走する。
ここがまずきっかけとして弱い。

で、レリゴーレリゴーしたあと紆余曲折を経て
どういうわけか家族愛・姉妹愛によって力の統制を得る。
そのきっかけらしいきっかけというのはない。

だってもともとこの姉妹に思いやりや愛情が欠けていたとは思えない。
物語を素直に追いかけていくのであれば

他者への思いやりと同時に力の統制を失い、それにより妹を傷つける。
統制を失ったきっかけは不明。

どういうわけか思いやりが復活し、力の統制を得る。

という流れにしか見えない。
言いたいことはわかる。こんなつもりじゃないのもわかる。
しかし、弱い。
元の童話では明確なきっかけとそれを仕掛けた人物がいるのに
このお話ではそれがいないものですから、きっかけが存在しない。
ここに大きな不整合があり、解消し切れてない。

そもそもこのお話には男の子が姉になり、さらに姉=女王になり、
さらにさらに女王が当初設定から変更され邪悪でなくなっている。
もう二転三転。まとまりがない。そのしわ寄せが出てる。
オラフ出してる場合じゃない。
しかしそこは最後まで何のフォローもなく終了。

さらに、

「愛」って言うのは別に男女の愛とかじゃなくて
家族愛とかみんなへの愛情とかそういうもんもあるのよね

というメッセージを込めたかったのだろうけど、なんだろう。
なんか無理感がある。
というかこの謎脚本自体がもう収拾つかなくて無茶苦茶。

ただ、

「愛」って言うのは別に男女の愛とかじゃなくて
家族愛とかみんなへの愛情とかそういうもんもあるのよね

というメッセージは従来の路線からの脱却という点で言えば
引き継いでいると見てもいいかも。
まあそれを台無しにしてるのだが、レリゴーブームが。

(2018Dec)

O.L.H.の本からメモ&膨らまし。


「およげ!たいやきくん」の主人公、たいやきは自身について
文字通り型に押されたものであることを否定した。
たいやきだからこうあるべき、を否定し海に飛び込んだ。
盛り上がる部分の

はじめておよいだうみのそこ

ぬすんだバイクではしりだす

は見事に符合する。
しかし15の夜と違い、毎度「なれた気がした」をぶっこむように
解答をすぐに提示しない。

一番ではおなかのアンコがおもいと言い、二番になると
ときどきサメにいじめられるようになる。
どこか不穏な空気が醸し出される。
このフレーズは非常に秀逸で、4~5歳の子供でも肌で感じられる
「哀愁」だ。

自由意思で海に飛び込んだがどうも水があわない。
というか、水にあわない。
本来の居場所を求めたがそうでないのではないか。

そして柄にもなくエビを食べようとして釣り上げられる。
結局はおじさんにおいしく食べられる運命であり、捕食する側
ではなかった。
自己規定はどこまでも自己規定の域を超えない。
存在とは他者がかかわってはじめて為すというレゾンデートルとの
対極の解を示す。

しかしそれを認めたくない世間は今なお15の夜に共感する。
やさぐれた15歳の少年が登場した時点で聞き手はバイクを盗み
走ることを要求するのだ。

いうなれば、「およげ!たいやきくん」「はしれ!じゅうごのよる」は
いずれも聞き手のメタな視点から見た願望としておよげといったり
はしれといったりする要請だ。

だが、なぜそれを後押しするのか。
世間で当たり前ならばことさら特別な物語にはならない。
ということは、それは叶わぬ事柄であるからこそ、それを身に染みて
知っているからこその視点があるのではないか。

中学生が尾崎を聴くのと、大人が尾崎を聴くのでは視点は違うのではないか。
長渕のスタイルは明確でその後者に立ち、「Captain Of The Ship」では
あんな大人になんかなりたくねえと噛みしめていた頃の「昔の自分」が
登場し、タイトルの副題が「ふねをだせ!おまえがせんちょうだ」となる。
一度食べられたたいやきくんの第二幕である。

現実には田舎飛び出して都会で痛い目に遭った田舎ネズミのような
親戚のおじさんがあのころの自分を松藤傾けながら話すようなもんであり
およげたいやきくんも過去形で語られる回想の物語である。
ツヨシツヨシと名を呼び船を出せと声高に叫んでもその翌朝からは
みんなまた港町で悠々と過ごす、そんな一服の清涼剤である。

なにか間違って船を出してしまうとアーリーリタイヤして店を始め
その後数ヶ月で畳むような既定路線が待っていたりするので注意。
そこんとこはアントレとかビッグトゥモローのバックナンバーを
買いあさっていただければたんまり記事があることだろう。

一方曲のつくりも印象深い。

まず、Jポップのような
Aメロ Bメロ サビ
ではない。
強いて言うなら

Aメロ Bメロ Aメロ

である。
それなら旧来のフォークや歌謡曲と同じでいわばBメロが
サビにあたるかというとそうではない。

たとえばカーペンターズのTop Of The Worldは
A+A+B(本来サビだけどここではあえてBと表記する)構成で
このBメロが揺るがないサビだ。
この曲サビ歌ってと言ったらみんな間違いなくBメロを歌う。

では実質的に「およげ!たいやきくんの」のサビはどこか?
と問うと難しいが、印象に残ってる部分はどこか?
と訊くとそりゃ「まいにちまいにちぼくらはてっぱんの」
の部分である。
曲の勢いで言えばBメロであるが、誰もそこから歌わない。
サビがないのだ。だから出だしを歌わざるを得ない。

そして2番ラスト、つりばりに食いつくところで物語が急展開する。
そこへすかさずBメロをぶっこむ。
Bメロをそのまま大サビ化してしまうのである。

そしてラスト、たいやきはたいやきでしかないことを悟り
Aメロだけで終わる。

歌謡曲では1番・2番・サビリフレインで終わる手法が多いが
同様の構成とみるならばサビで締めくくっているはずだ。
ならば、全体を俯瞰すると、AメロがサビでありBメロが大サビであると
見るとこの曲は最初から最後まで

サビ + 大サビ

のくりかえしでできていることになる。
歌詞の当てはまる部分と照らし合わせてみると
Aメロは総じて穏やかだがBメロは大変なことばかりである。

であるならば、だ。
一番のBメロでひろいうみではずむここころもまた、強がりである。
哀愁である。憂いである。

ヒットの図式はここにもあったという仮説。