2010年9月15日水曜日

第12回 「善き生を追求する」

Lecture 1

ルールと目的

 ■人種分離主義者の思い

  人種分離主義、悪い言い方で人種差別主義を容認する中で
  生まれ育った人間たちは、それを変えることを望まなかった。
  極端な話、それがよいことか悪いことかはまったくの別問題で
  あって、その社会自体に愛着があると言ってよい。

  これは、どっかの記事で読んだ「校風が変わるのには否定的」
  という卒業生の思いであるとか、犬だのイルカだのといった
  食文化でモメているところにあるものと基本的な構造は同じ。

  もっと軽い話題でいうなら、「バカボン」や「おそ松くん」、
  「サザエさん」といったまんが・アニメでは

   「おいおそ松、ちょっとタバコ買ってきてくれんか」

  といった会話が当たり前にあった。
  今じゃ禁煙うんぬんや未成年の喫煙どうたらタスポなんたらで
  金輪際そんな表現はでてこない。

  それについて、昭和生まれかつ喫煙を毛嫌いする側でない
  人間である自分たちにとっては少し寂しい気するけど
  これが現実なんだからしょうがないと落ち着くところの話。

  別に肯定否定ではなく、そういった風景があったし、実際自分も
  近所のお店にお遣いにやられ、駄賃代わりに買うことを許された
  駄菓子をほおばった記憶、サンデルさん言うところの

   「物語的観念」

  があるものですから共感するところはあるねというだけであって
  別にあのころがよかったとか今がよくないとかいう意味はない。

  これは善悪でなく、愛着の問題だからだ。


 ■うちなータイムと石垣島の交通

  「沖縄人は時間にルーズ」

  ということは全国的に知られるところでありまして、
  「19時集合」は「19時に家を出る」と同義であると言ってよい。

  しかし最近は沖縄もヤマト化が進み、そういったこともなくなり
  やたらあくせくした世の中になってしまった。

  一方、石垣ではクラクションを鳴らすのはご法度とのことで、
  それは今でも守られているらしいあたり、うらやましくも思う。

  これら

   ・時間通りに集まらない
   ・クラクションは鳴らすほうがrude

  というものについて、正義に照らし合わせるなら

   ・時間を守らないとは正義でない
   ・公共の道路を我が物顔で占拠するのは正義でない

  という見方になる。しかしこれが必ずしも肯定的にとられないか
  というとそうでもない。
  逆の見方がそこにはあって、わかってるんだかわかってねえんだか
  よくわからんヤマトゥーの表現をするなら

   ゆっくりとした島時間

  てなもんがそこにある。


 ■つまりどういうことね

   道路交通法という、日本国の普遍的なルール

  を超越した、ラー油記事の言葉で言うところの

   島の流儀

  というのが確かに存在するということ。
  ローカルな善が、普遍的な善を超えるところはあるよねと言える実例。

  この、島の流儀を肯定し、正義たらしめているものはなにかというと
  それこそが

   「島」や「島の流儀」に対する帰属・愛着・共感

  にほかならない。


 ■いやいやちょっと待て

  じゃあ道路交通法はどうなるのよ。
  なんのためのルールやねん。

  という話になる。
  
  そうやって普遍化することだけに正義を見出すと、学園ドラマの中に
  登場する「学級委員長」「風紀委員」のような

   規則至上主義

  の鼻つまみ者になってしまう。
  これはどういう了見かというと

   そのルールが何のためにあるのか

  という根本的な部分を見失っているところにある。
  
  たとえば、時間を守るというルール。
  これは一緒になにか行動を共にする上で、誰かが待たされることで
  気分を害するとか、金銭的・機会的な損失が発生するということが
  まずいという点があることから、それを防止するためのもの。

  しかし、それらについて

   ・別に待ってても気分を害しない。お互い様
   ・飲み会程度で金銭的・機会的な損失が発生するわけでもない
   ・誰かが死ぬわけでもねーし

   もちろん店だってこの島にある以上

   ・時間通りに来る客なんざナイチャーくらいのもん

   程度にしか思わない。

  という価値観を皆が共有していたらどうだろう。
  その場合は時間を必ずしも守る必要はない。
  なぜなら、

   皆は時間を守るという必要性をみとめず、それを目的としていない

  と言えるから。
  同様に、クラクションin石垣のケースでも

   ・別に待ってても気分を害しない。お互い様
   ・数回の信号待ち程度で金銭的・機会的な損失が発生するわけでもない
   ・誰かが死ぬわけでもねーし、つか、鳴らしたら死ぬかもしれんし

  という価値観をそのコミュニティが持っていたなら、これも

   ゆずり合いができない、信号がないとまともに走れない
   心の狭い人間らを信号機で統制することで円滑で安全な
   道路交通システム確保する

  ということを目的としたルールづけはこの場面では必ずしも必要ない。
  なぜなら、皆の意識が

   じゅうぶんゆずりあいのこころを持っている

  から。
  却って、余所者がそれを否定してルールについて声を上げる場合、
  イコール

   むやみに普遍化する

  場合、

   ただぼーっとしてるだけのオジー

  を

   道路を占拠し、譲らずにいる者

  と断ずることになる。
  しかしそのオジーには譲る譲らないという気はないし、
  そのコミュニティではそれも理解しているのに

   心の狭い、自己を譲れない、口うるさい余所者がなんか言ってる

  ということになりかねない。


 ■つまりどういうことよ

   ルールというのは、目的あってナンボのもんであって、
   アリストテレス的な考え方でテロスを見てみる必要がある

  ということ。


***


同性婚はアリか

 ■まず異性婚のテロスを考える

  ボーイミーツガールを経てくっつきました、というものを

   社会化

  するこの風習。
  全世界いろんな民族・宗教あれど、婚姻・夫婦というシステムそして
  それをみなで祝う婚礼というセレモニーがまんべんなく存在する。

  これは何のためにあるのか。
  ただくっついて暮らすだけではだめなのか。
  くっついて暮らして子が生まれて育つだけではだめなのか。
  なぜだめなのか。

   なぜ社会化する必要があるのか。
   その目的はなんだ。

  まずここでいえるのは

   社会的な儀礼として祝う

  ことがらである以上、

   社会がみとめるよいもの、よろこばしいもの、美徳

  のひとつであることが確かだということ。


 ■社会化の形態

  日本人だから日本式に考えてみる。

  そもそも、平安時代にゃ戸籍台帳というのはなかったはず。
  婚姻届という紙っきれはなく、結婚は

   婚礼の儀式

  でもって成立した。
  じゃあそのセレモニーの目的ってなんやねんなってーと

   ・夫となる者、妻となる者、そして社会の3者間の同意の確認

  であると言える。
  同意があることから、これは

   契約の儀式

  であるといえる。
  夫は妻に、妻は夫に、夫婦は社会に対して契約を結ぶ。
  この時点で、

   ・1. 夫とその家族は妻とその家族の同意を確認する
   ・2. 妻とその家族は夫とその家族の同意を確認する
   ・3. 1・2をもって、社会は双方の同意を確認し、
      同時にふたりを夫婦としてみとめる

   つまり、社会が両者側の同意があったことを担保する役目となるし、
   その結婚が社会的に認められるもの、社会通念に反していないことの
   お墨付きを与えることにもなる。

  さてこれでよいですかねってーと、意外とそうでもない。
  なぜなら、社会の側が

   ・あの結婚はやっぱナシ。認めない。

  と、手のひらを返してしまったら、ふたりの婚姻関係はとたんに
  社会の担保がなくなり、皆に認められないものになってしまう。
  だから、

   ・4. 社会は、ふたりの婚姻を認めたことを神仏に誓約する

  という、絶対的なものに拠ってはじめて完璧なものとなる。

  だから、結婚式には「立会い人」という概念がある。
  ドラマや映画での結婚式でありがちな光景、

   「この二人の結婚に異議のないものは沈黙をもってうんたらかんたら」

  というのは、参列者を「承認を与える社会」として巻き込む作業。
  立会人なくして、誰が社会の代表として見届けるか、また、いかにして
  立会人が結婚をみとめたことを担保するかと考えればこーなる。
  同様に、婚姻届に証人欄があるのはこの考えに基づいているといえる。

  余談を言えば、たとえは悪いかもしれないけど任侠の手打ちも考え方は
  これに同じで、人と人、あるいは組同士の仲直りの場を任侠社会が見守り、
  さらにそれを神道の神の前でおこなうことにそれぞれ意義がある。


 ■ある意味個人主義

  新郎・新婦がそれぞれ神や仏に誓うんじゃないのという考えも
  ありそうだけど、そもそも日本における結婚と言うのは

   家と家の結びつき

  であることにちがいない。これは

   山田 家
        結婚披露宴
   田中 家

  と書いてあるところから見て取れる。
  本当に男女個人間の結びつきならば

   山田 太郎
        結婚披露宴
   田中 花子

  と記されるはず。でもそうでない、実際。

  以上のことからやはり旧来は、家と家という社会のむすびつきに
  より大きな社会が同意し、社会がそれを神仏に誓約するという
  かたちと言える。

  この点で言えば、両家がみとめる神仏という共通認識がないと
  心情的にイマイチ説得力もないもんですから、共に生活を始める
  以前に、このあたりですでに宗教の違いは溝となりうる。

  もっとも、最近じゃセレモニーでさえ※神や仏の存在を置かず、また、
  家と家との結びつきでなく個人間の結びつきという概念を持つ
  日本人も多いことですから

   人前式

  という、社会に対して夫と妻が誓約をおこなうかたちもあったり。
  よいか悪いかというのは別にして、そういう価値観があるというだけで。

  ※クリスチャンでないけど式だけは教会で、の発想


 ■なんにせよ

  婚姻というのは、社会が夫婦関係をみとめる、そのふたりの関係が
  「夫婦である」と社会がみとめる担保であるからして、そこには

   社会の承認

  が必要不可欠であるといえる。


 ■僕の髪が肩から伸びて

  我々が一般に

   「結婚しようよフフンフン」

  と言っているのは、ややこしい言葉で言うと

   「社会に認めてもらう作業をしようよフフンフン」

  ということになる。
  そもそも、結婚"後"、つまり婚姻生活そのものについて
  まず語弊を恐れずにざっくり言えば

   世の男女に思惑いろいろある以上、共通するひとつの目的はない

  と言える。
  
   ・ジジイの遺産がほしいから
   ・ゲイ偽装結婚
   ・国籍ビジネス
   ・酔った勢いで目的なし

  などなど、それってほんとに婚姻かいなというものだってある。
  しかし、そんな彼らでも

   結婚することはできる。

  つまり、「結婚」というものは

   社会がふたりを認めるということが目的のイベント・手続き

  であってつまり、

   「夫婦になること」そのものを認めるのであって
   「どんな夫婦になるか」という方向性はなにも定めていない

  といえる。なのでたとえば

   セックスしろとか子どもを生み育てろとか言う発想なんて、
   結婚そのものには微塵もない

  と言える。なぜなら

   性行為は夫婦の必要条件でないから。

  結婚し、死ぬまで寝るときはお手てつないで寝るだけ
  というふたりは、夫婦でないと言えるのか。

   セックスなんてそんな発想とんでもない!

  というかつみ&さゆりイズムな考えは、夫婦として
  「あるまじき」ことなのか。
  ふたりしわくちゃになって、こたつでなかよくみかんを食べて
  微笑みあっているだけでは夫婦でないと断言するのか。

  大事なのは性の営みでなく生の営みではないのか。

  ハーバードの授業での討論はマークにはじまりライアン、ハナまで
  そこから論じ始めてしまったがために

   結婚でなくセックスの目的についてさえ定義し始めた

  ものだから、ぐちゃぐちゃになってしまった。


 ■スティーブの視点・論点

  というのはまさにここのぐちゃぐちゃを指摘したもので、

   マスターベーションは人が許可するものではない

  というたとえから

   結婚生活におけるセックスの有無は人がとやかく言うことでない

  と、この流れをバッサリ切り捨てた。


 ■話戻って

  そういうわけで、夫婦にかかる法律と言うのは

   どんな夫婦になるか

  ということは定めておらず、法が制定された当時の社会通念としての

   夫婦ってまずどういうものか

  といったものしか定めていない。だから  

   ・夫婦は同じ苗字を名乗る
   ・夫婦は同居し、協力して生活する

  といったあたりのごくごく限られたもの、つまり

   最低要件

  にしか言及しておらず、これをもって社会は婚姻をみとめますよ
  というものでしかない。


 ■最低要件というのがミソ

  その社会の認める夫婦であるためには、その社会が要求する最低要件を
  クリアする必要があることはわかった。

  現状、

   ・3次元の相手がいないラブプラス人間
   ・一緒に住むとか協力するとかいう気がない相手を持つ人間
   ・同姓を名乗る気がないカップル
   ・同性と一緒になろうとするカップル
   ・男18歳未満、女16歳未満

  などなどはクリアできない。
  これはその法律が制定された時点の社会から価値観がさほど変わっていない
  ともいえる。

  しかし、夫婦別姓や同姓婚論争が起こっている以上、社会の持つ価値観は
  確実に変化している。
  

 ■ところかわれば

  一夫多妻の文化の国だってあるわけで、結婚の要件は世界中で
  ひとつではない。
  じゃあなにが要件を定義するかというと、それを認める

   社会

  にほかならない。言い換えると

   その社会が、その社会における結婚とはなんたるやを定義する

  わけだから、

   社会の関与なくして結婚という概念は存在しない

  ことになる。

  
 ■もし仮に

  社会が結婚について認める/認めないという立場を一切とらず、
  自由に「私たちは夫婦です」と名乗ることができたらどうなるか。

  ギガジンかなにかの記事に出てくるよう、口の聞けない小さい女の子を
  とっつかまえてきて有無を言わさずおもちゃ同然に扱っておきながら
  
  「夫婦ですがなにか。問題でも?」

  と、ダンナが宣言できるのは正義だろうか。
  いやいや、少なくともこの日本では正義でない。
  日本の法律じゃ両性の同意からまず要件に入ってるし、
  物事の分別うんぬんの年齢制限だってある。

  ということはやはり社会が結婚の要件を定義しなくてはならない。

  なぜなら

   婚姻の概念は自然状態、もっと言うとイヌサルキジなどなど
   ワイルドな意味での自然に存在するものでなく、人間社会が
   つくったもんであるから。

  よって

   社会はいかなる結婚の定義も許可もすべきでない

  とするセザンの考えはヘンだ。


 ■いろんな文化あれど

   それでも共通する結婚のテロスってなんね

  というものについては、簡単に言えば

   永遠の愛を誓う

  くらいのものでしかなく、ここが多くの動物のパートナーシップと
  一線を画す、人間だけが、人間の社会が生み出した概念。


 ■そこで新たな問題発生

  永遠の愛を誓う目的である結婚というものが   
 
   当然、異性間のみでなされるもの

  と、限定しているかどうかが論点となる。

  
 ■たとえば宗教の存在

  同性婚についてはなんにつけ宗教がからむことが多い。

  さきにあったとおり、結婚というものが完全であるために
  社会が神仏に対して誓いを立てる必要があるなら、
  その宗教で同性愛をみとめていないと同性婚はなしえない。

  また、同性婚どころか異性婚でさえ宗教において指導する立場にある
  人間はできないとする宗教だってある。
  かくも結婚というのはややこしい。

  一方でタイなどの南伝仏教では

   「身体はこの世で生きるための借り物」

  程度のものでしかなく、

   その性別なんかたいした意味なんてねえや
  
  という宗教的価値観がございますから、ニューハーフやゲイってのに
  寛容であるし、むしろ

   心底異性・同性わけへだてなく同じように接するのが慈愛だろうよ

  という究極の愛をとくものですから、異性と性行為を行うんだったら
  同性とだって当然あってもいいだろうさというオーカマー

  
 ■このあたり

  リベラルである種ドライな個人主義では

   勝手にやってればー?

  で済みそうだけど、コミュニティの道徳観に配慮する形をとる
  コミュニタリアニズムではその道徳を形成するものに重きを置く。

  しかし宗教はそれでもって善のカタログみたいなもんですから、
  それぞれ他の宗教と相容れない部分が多い。

  ビジネスの世界でうんたらかんたらのくだりのように、

   政治と宗教の論争に終わりはない

  以上、ある意味やるだけ無駄といえる。


 ■じゃあどうするか

  論争をあきらめるのはよくない。
  なぜなら論争あってはじめてテロスを見極めることができるから。

  それぞれの価値観にたった論争はやってなんぼ。
  どこまでも論点・対立点とその根源にあるものを
  明確にすることそのものが大事。

  その上でそこにどうしても妥協点が存在しない部分がでてきたとき、
  人間ですから別の方策を考えることだってできるはず。

  たとえば。
  さきに出てきた人前式の考え。
  どうも宗教がらみで解決の糸口がみつからないぞというとき、

   神仏に拠らないパートナーシップという概念・制度って
   あっていいんじゃないの

  という考え方がブレイクスルーになりうる。
  特定の宗教における善の考え方を一切合切排除した上で

   ただただ永遠の愛を誓う

  という、シンプルなテロスをもった新たな婚姻制度を社会がつくる。
  これは神仏が絡む

   (ここで言う狭義の)結婚

  ではなく、呼称いろいろあれど授業に出てきた言葉で言うなら

   シビルユニオン[civil union]

  という、社会が市民に対して付与することで完結する、
  結婚と同等の権利が保障されたパートナーシップの形態を成立させるもの。
  これなら宗教うんぬんはまず排除できまいかというこころみ。

  もっとも、世の道徳は宗教のみならずいろんなものがある以上
  これで解決するわけでもない。
  しかし、厳密な意味で

   社会の承認で完結する

  制度である以上、その社会における過半数の同意をもって
  法に定めれば必要じゅうぶんな裏づけが発生する。

  しかしこれはひとすじ縄で一朝一夕にできないから
  レインボーカラーな運動がずっと続く。

  
 ■もうひとつの出口

  授業にあった、マサチューセッツ州のように
  最高裁判例でもって

   結婚のテロス、要件

  が同性を含むものと認めれば、それでもって社会のお墨付きがある
  状態になる。

  しかしこの行為は判例に付きまとう勝手な判断だの、司法の暴走だの
  といったコントロバーシャルな部分を大いに含む。

  日本のように多くが無信教な国ならそれでいいかもしれないけど、
  米国のようにキリスト教が多い国、ことにカトリックが政治的にも
  一大勢力をもっているような社会では冒険だったんじゃないかな
  なんて個人的に思う。

  まあ、リベラルな判例を打ち出せるほどにマサチューセッツ州が
  そもそも比較的宗教的にガツガツしてない社会であるのかも
  しれないけど。
  

***

Lecture 2

善と正義と哲学

 ■節度ある無関心

  善という多種多様な価値観は統一のしようがない。
  しかしそれぞれの善を尊重し、それら善の対立を調整する
  正義というものは得られる。

  その正義を見つけにゆくとき、必要なのは

   自分の善を相手におしつけないこと

  かつ一方で

   相手の持つ、自分と相容れない善にめをつぶる

  ことが大事で、武田鉄矢のラジオ番組で聞いた言葉で言い換えると

   節度ある無関心

  という態度で臨まなければその作業は

   善の対立を超える正義を見つけに行く作業から、
   ただただ善が対立することを確認するだけの作業

  になってしまう。
  しかしそれは同時に、

   相手の価値観を理解しにゆくことを放棄する

  ことでもある。
 
 
 ■どっこい。

  生きてきた中で、対立する側の価値観にもすぐれたところが
  あることをみとめ、結果それを自分にとりこんで成長してきた
  というところもなくはない。
  しかしそれには

   一度本気でぶつかりあう

  ということが必要。
  これは紛れもなく人間関係が一時的に、あるいは永久に悪化する。
  
  しかしそうやって宗教は長い歴史の中で分化や統合、決裂と和解を
  くしかえし果たし、ブラッシュアップしてきたところもある。
  一方でまったく交わりも変わりもしない原理主義というのもある。

  つまり何がいいたいかというと

   どんな相手であれ、相手から学ぶ余地がある

  と考えることが大事で、松下幸之助式に言えば

   自分以外みんな師

  とするこころがけは大事で、納得するしないは別にして
  聞く耳持っていいよねといえる。

  要は

   人の話を聞け

  つー話であって、さんざぶつかりあってまじわってはじめて

   正義

  ってもんが得られるんよというサンデルさんのことば。


 ■アリストテレスの言う、政治のテロス

  正義を探し、ゆえに対話を欲し、その上で

   言いたいことだけ押し付けたあとは
   相手の言うことも聞かずに見下す

  といった姿勢でいるのは、自分の善の押し付けにすぎず

   自ら望んだはずの正義から遠ざかる

  ことと言える。これはともすると

   対話の相手だけ新たな知見を得る一方で
   自分だけ何も得ないまま終わる

  ことになりかねない。
  おかげで

   政治的な生活といえない人生を送り続ける

  ことになってしまう。


 ■なにからはじめるべきか

   とにかく、世の中のいろんなことに関心を持とうね

  ということ。
  その点で言えば、新聞を読むことが大事というのは
  とても理に適ったことだとうなずける。

  そして、いざ善と善がぶつかったとき、善の目的を見極めて
  正義を選択するようにする。
  だから、信条による善やただの独善をぶつけてみたところで
  目的を見失っているようではそれは正義を得るプロセスでない。

第11回 「愛国心と正義 どちらが大切?」

Lecture 1・2ぶちぬき

新たな義務

■ちょっと待ったのカント

カントさんはアリストテレスはアホやと一蹴した。
その理由は

社会が善のお手本、特定の価値観をリードすることは
(選択・信条などの)自由と反するから

というもの。


■何が違い、問題になるのか

カントさんとアリストテレスさんとの間で
「人間が自由である状態」の解釈が異なっていることが問題となる。

アリストテレスは

潜在能力を発揮する力がある限り自由だ

とした。さきの例で言えばこれは

最高のフルートが、それを得るにふさわしくない者によって
"邪魔・横取り"されずに最高の奏者のもとへ渡る

さまをあらわしている。
いうなれば、

興南の島袋くんは、甲子園でチームを勝利へ導いたこと
のみならず、光る才能が本物であることを証明した以上、
それにふさわしい場、プロの舞台で活躍する権利・自由が
あることは誰しも認めるところ

であるから、今すぐにとはいわないけど

いずれその道に進めるパスがちゃんと存在し、それがかなう

ことこそが彼の「自由」であるといえる。
同じ視点で言えば

イチローは日本のプロ野球という枠でなく、全世界に
活躍が伝えられるメジャーの場で活躍できて然るべき

であり、

日本のプロ野球の思惑で海外へ出させない

といったことがあるならば、それは自由ではない。
裏返せば、

メジャー級の実力のないプレーヤーがメジャーに行けない

というのは自由が制限されているものでもなんでもなく、

そもそもそんな「自由」なんざ持ち合わせていない

といえる。
つまるところ適合性の有無がそれにかかる自由と結びついている。


■カントさんの唱える自由

一方カントさんは

自律的な生き方こそが自由である

とした。これもさきにあるとおり。
これをかみくだいて一言で言うと

選択の自由アハハン

に集約される。これは本当の意味でフリーダムなもんですから

・盆や正月にも、親の顔を見なくてもよい
・結婚式に親を呼ばない
・卒業証書さえもらえれば卒業式欠席
・中元や歳暮はもらう一方でお返しなんかするものか
・ご先祖様の位牌を燃えるゴミの日に出す
・なにも恩恵を受けないから町内会費を払わない
・異動になって1週間、これといって会話もないから、たまたま
入れ違いになった人の送別会に出ないし餞別代も出さない

ということもみいーんな肯定される。


■なんでしょねこの違和感

上記のことがらはすべて何の罪にもならない(はず)。
誰かの金銭を奪ったり、誰かを誹謗中傷しているわけでもない。
しかしなんかヘンだ。

ここで選択が自由に可能であることが、どこかしら問題となる。
それは

伝統やしきたり、社会通念に反している

ことであるからだ。
このことから、どうやら我々には

伝統やしきたりなど、「ローカルな善」を守らなくてはならないという
なにかしらの圧力が存在する

ことがわかる。
これは同時に

自分の家族や地域社会、国家・民族などのバックグラウンドを
無視した上で善悪を判断することはできない

といえることがわかる。
盆に顔も見せない家長なんて一族総スカン以外の何者でもない。

たとえばつまり、家長においては

家督・仏壇を受け継ぐこと、しきたりを守って盆などの
セレモニーを実施することなど

が期待される。
もっと言えば、これは義務として存在する。
こういったものの上にある自分を

負荷ありき自己

と呼ぶ。そしてこれは

コミュニタリアニズム[共同体主義]

というものの考え。
これは個人主義の考えからしたら自由を制限するものになる。

つまり

個人主義 :放蕩息子
共同体主義:親戚社会

という構図がここにある。
この義務は尊厳・相互性といったものや自発的な義務(自律)とは異なる。

余談を言えば、ここは保守・右思想とリベラル・左思想の区分けと交差するとこでもある。

天皇を敬う、道徳観を大事にするという観点を大事にする保守は本来
道徳風紀の乱れとも言える破廉恥なコミックを弾圧する立場であるべきだったりする。
石原慎太郎はそれをやりましたよと。
この点、社説で条例反対運動に待ったをかけた産経新聞もまあ、保守らしい言動と言える。
よーするにネトウヨのみなさんは

とらのあなでお買い求めになったその薄い本を陛下の前で上奏してみせろ、まず

というわけでございますよ。
そうでないと彼らは保守のフリしたリベラルであり、それこそ「保守を撹乱しようとする
共産スパイ(棒)」みたいな存在になっちまう。実際そうなのかもしれんが。

また、お役所が検閲してロリっ子がナニするコミックを有害図書に指定するのは
リベラルが真っ向から立ち向かっていかないといけない。
もっとも、こっちはほっといてもワイワイやってるので既定路線である。

この界隈はまあ一旦ほっとくとして。
ちゃんと理解してるのかどうなのか、どっかの保守ブログでサンデルはサヨみたいな
こと書いてたけど、ここ以降の流れからするとむしろ保守寄りであることがわかる。

まそういうわけで、ここからはサンデルさんの立ち位置も汲んで読むといいかもしれない。


■マッキンタイアさんの主張

親の過ちを子が償うという概念がある。
これを広げると

親の世代がおこなった過ちの責を引き受けるという概念、
生まれが自分の生き方について制限を与えることは否定のしようがない

といえる。
個人主義においてこれを正当なものにするには

「自分の気が向いたから責を負う」

という、自由な判断による"引き受け"によってなされる。
しかしこんな考え方はアホやでとコミュニタリアニズムの立場にある
マッキンタイアさんは言う。


■はい!?

罪を犯した者の子はそれを負い目に生きろとも言っているような
このくだり。
そこんとこ親は親、子は子ではいけないのか。
いけないのはなぜか。
親のおこないから目をそむけることがなぜ正義でないか。

たとえば。

親が殺した人間の子と、その人殺しの子は何も枷がない状態で
友達関係が結べないとでも言うのか。

・・・まあ、ふつう結べないわな。無理だ。

たとえありがちな友達同士の冗談でも

「親の顔がみてみてえわw」

みたいなことは言えない。お前が言うなみたいなところはある。
というか、親密になること自体かなり難しい。

ここで「親が人殺しだろうが関係ねえ、俺は俺だ」なんて言ったら

別に罪もねーし悪かねーけどなんかあいつ腹立つ

という世間様の評価に甘んじることになる。

自身に非はない。
しかし明らかに相手を気遣わなくてはならない立場にある。


■義務についておさらい

~しなくてはいけない、というのは広い意味で

義務

だ。ならば今一度義務について整理。

1.特定の個人に対する義務
⇒「尊厳」のある他者という考え。
そしてこれに基づく、お互いが貸し借りなしで
あるべきとする「相互性」

2.自発的な義務、自己が自己に課す義務
⇒ex.)"約束は守るものだ"という信条

これらの考え方はカントさんやロールズさんのものに沿っている。
負荷ありき自己を、ここでの2番目、自発的に選択した考え方であると
とらえることもできる。
しかし、さきに書いたとおりマッキンタイアさんは先回りして
そんなんちゃうでと言っている。

また同様に、負荷ありき自己というのは家族や地域社会、
国家などなどの中において何かしらの恩恵を受けたことに対する
「相互性」の問題であるとも考えられるけど、やはり
コミュニタリアニズムでは別物として取り合わない。


■そこでマッキンタイアさんほかコミュニタリアンは

3つめの義務の存在を提唱。
それは

連帯、忠誠心、集団の中の個という意識からくる義務

というもの。
家族愛にはじまり、親戚や地域社会の助け合い意識や仏壇うんぬん、
果ては愛国心までもろもろこれにあたる。
個人主義につっぱしるとこれらみんな見失ってしまう。

ちなみにこれは同意によって発生するものでなく、

その集団に生まれた・入った、属している

といった理由で発生するもの。
普遍的なものでいえば家族・故郷により負うこととなる
義務があげられる。

ex.)
・溺れる2人
川で自分の親とどっかのおっさんが溺れかけている。
場所はどちらも岸から同じ程度。
さあどっちを先に助けようとする?

・手をさしのべる先
全国的な豪雨で被害があちらこちらで発生。

地元の町
となりの町
地元の都道府県
姉妹都市    
それ以外の町

救援募金をおこなう優先順位は?

仮に彼らが自分にゆかりのある人間らを優遇したことで
それが許される、ともすれば褒められさえするならば
それは何によるものか。


■つーかこれって

孔子・儒教の道徳観そのものじゃね?

>葉公が孔子に話した、
>「私どもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が
>羊を誤魔化したときに、息子がそれを知らせました。」
>孔子は言われた、
>「私どもの村の正直者はそれとは違います。父は子の為に隠し、
>子は父の為に隠します。正直さはそこに自然に備わるものですよ」
http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/7_1.html#anchor395755

解説
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039582855

たしかに世の中はただしい/ただしくないというものは存在する。
しかしそれだけではおさまらないものってあるんちゃいますのという
考えで、別の例を出すと

1.人間の尊厳としての生命を奪った
2.人を殺めてはいけないという法を犯した

しかし

3.兄弟の願いを聞き入れてやるという義務を遂行した

という3番目のポイントがあるから高瀬舟は人の心を打つ。
おなじことは杜子春の馬の両親のくだりでも言えるし、
マザーテレサか誰かなら

「遠くで困ってる人々を助けようとするよりもまず、
手の届く身の回りの不幸な人間を助けようぜ。
慈悲の心はそこからはじまるんよ」

とったような言葉を残しているあたり、人間の善というのはこのあたりにも
なにか存在する。


■これは偏愛なのか?

博愛を地でいくマザーテレサが言う(ソースみっけた)のだから、
完全なる偏愛であると言い切れないことはまずまちがいない。

ではどのあたりがが偏愛でない理由となるのか。
あるいは、偏愛じみたものでさえ、なにかもってすると偏愛でなくなると
いえるのか。

羊泥棒のくだりでは他者の利益を害したが、家族の義務は果たした。
高瀬舟のくだりでは社会のきまりを破ったが、兄弟の義務は果たした。

いずれも、複数の「正義」が衝突している。
しかしここではいずれもより自分に近しい正義を選択している。

これはともすれば自分や自分の近しい人物、イコール広い意味で
「自分」の利益を追い求めるものであり、もはや正義ですらない、
傾向性・利己主義ではないのかという見方もできる。

さてどう説明つける。


■善の根源とアイデンティティ

善というのはアイデンティティと非常に強く関連している。

そもそもアイデンティティを構成するのは

1.他者と独立した自分というバディアンソウル
2.自分の行為は自分で決定しうる(自己同一性としてのid)

そして

3.自分の帰属先への愛着・忠誠(帰属意識としてのid)

の計3つ。ほかにもあるかもしれないけどとりあえずこんだけ。
これまででてきた善の概念は

1.尊厳のある、互いに独立した存在としての自分そして他者
2.人間は自律的であるとする考え

で語られてきた。これらはそれぞれとリンクしている。
ならば、

3.自分を形作った家族・社会などの組織に対する帰属意識

というものも善・正義に関連していて然るべきものといえる。
これがここで語られている部分。

アイデンティティの形成において影響の大きい帰属先というのは
たいていの場合家族がこの世で一番。
その次に生まれ育った故郷の社会、自治体、国家・・・といった順になる。
(もちろん人によりけりだし時と場合によって変わるかもしれない)


■西洋人の説明するこのややこしいもの、なにかに言い換えられないか?

というわけで細かいとこすっとばして考えた結果がこれ。

1.義 互いの尊厳をおかさないもの、相互性

2.正 人間が自律的であるさま、正しい行いをするさま

つまり、カントやロールズの言う正義はこの2つに集約される。
しかし儒教ではこれだけではない。

3.仁 思いやり、同情、共感、慮ること

この3番目は連帯や帰属意識につながっているもの。
連帯していないもの、目の前にないもの、状況を分かち合って
いないものには共感や同情はおきにくい。
しかしそれらを同にしていると否が応にも伝わってくるもの。
それを無視することはただしいことではないとする考え。

羊泥棒のくだりなら、盗人にも理があるさまを理解できる立場にあるし、
高瀬舟なら弟の思いを兄は痛いほど受け取った。

杜子春は両親の痛み、そしてその中でも自分を思ってくれるさまを
まざまざと感じ取った結果仙人になることはできなかった。
しかし仁のない人間は仙人になれっこないし、それどころか
生きている資格さえないと謎の老人Xは言う。


■仁と利己主義のちがい

いくら慮ってみても、どこまでも私利にまみれた悪人のこころには
共感することができない。
おかげで実の親について「経営している学校を食い物にしている」と
メディアに告発する息子も世の中にいる。

逆に、人殺しギャングの親玉について、「殺ってなきゃ殺られてた」
という事情がわかっておればかくまう気持ちも起き、それを行動で
しめす人間もいる。

一方、企業内犯罪についてほかの誰も慮ることなく、ただ己の保身の
ためだけに告発しないのだとしたらそれは、ただの傾向性・利己主義
でしかない。

つまり、

相手を慮る気持ちの有無で傾向性の産物かそうでないかの振り分けが
おこなうことができ

そして次に

相手を慮る気持ちはあっても、そこに善(正義)がなければ
擁護するにふさわしい筋の通った理由付けはおこなえない

と結論づけることができる。


何がいいたいかと言うとつまり、

義理[正義]と人情[仁]はワンセットであり、別物でもある

という考えなんだよということ。
最終的に大事なのは

善に拠ること

だというおはなし。


■商売に私情がどうたらこうたら

とは言うけれど、それは義理だけで商売しているのであって、
どこか人間味がない。
おかげでコンプライアンスが心持ちの問題でなく規則で縛るという
発想しかできなさそうな。

べつに商人に限ったことではないけれど

~以前に人間であれ

というのは、仁をもてということなんじゃないかしらね。
~の部分にいろんな職業名がつくと思うけど、それだけその道に
就いている多くの人間らのコンプライアンスが危ういという状況で
あるあらわれであるかもしれない。

ことわざにゃ「医は仁術」という言葉があるけれど、意味合いは
「人間であれ」に同じ。しかしそれ以上に

・言葉の発せない重症患者
・言葉にできない乳幼児や老人
・とにかくこころががおだやかでいられなくて言葉にできない人

などなど、容態を知ることさえものすんごいエネルギーが必要になる
人たちに全力で立ち向かっていく姿勢をあらわしたものに思える。


■ルールだけで世の中はまわせるのか

リベラリズムを肯定する人間はイエスと言うし、
コミュニタリズム派はノーと言う。

しかしコンプライアンスが崩壊してしまった背景には

ルールさえ守れば何やってもよい

というリベラリズムが横行したことがあり、サブプライム
うんたらで経済は破綻、そしてゴールドマンひとり勝ち。  
日本人はバブルで浮かれてシメはソロモン・ブラザースが大もうけ。
世界では武器や地雷を売ってもうける国あれば手足のない人間が
大勢いる国もある。

何度も何度もくりかえし、そのたびそのたび辛酸をなめる。
自分がババ引くまでやめられないロシアンルーレット。

まわっているのは世間か、終焉へのリボルバーか。


近江商人のことば

「売り手よし、買い手よし、世間よし」

この「世間」というものが、コミュニタリズムでは「共同体」をさすはず。
世間よし、忘れられてませんかね?

第10回 「アリストテレスは死んでいない」

Lecture 1

アリストテレスの政治論

 ■まず政治のテロスを見定める

  アリストテレスさんは政治の目的を

   ・善い人格を形成すること
   ・市民たちの美徳を高めること
   
  とし、つまり

   「善き生をもたらすもの、実現するもの」

  であるとした。

 
 ■おいおいちょっと待て

  これまでの講義で習った内容では、カントやロールズは

   「善や価値、目的を選択する自由(=自律)を尊重すること」

  であると言っていた。彼らは

   人格をよくする

  なんて一言も言ってないし、国民をやさぐれさせる一方の
  現在の政治のもとで生活している我々にとっても違和感バリバリ。


 ■そんなのおかまいなしに

  アリストテレスさんは追い討ちをかける。

   「ポリス(POLIS)で生活し、政治に参加することでのみ
    人間としての本質を十分に発揮できる」

  これはどういうことかってーと

   人間は本来、ポリスで生きるもの

  という考えがある。その根拠というのは

   政治的生活おくることでのみ、人間しか持たない言語能力を
   活用することになるから。
   言語能力がないと、論理的に物事を考えることができない。

  というもの。
  なぜこういう考えに至ったかというと

   「人は言葉を持ち、話せる。そしてそれは人にしかできない」
    ↓
   「人が言葉を持っているのは理由があるはずだ」
    ↓
   「人のみが力以外で対立を解決できる。そのために言葉はある」
    ↓
   「言語を得た人という生き物は、他者とかかわって生きるものだ」
    ↓
   「つまり、人は社会の中で生きるものだ」
    ↓
   「また、社会同士の軋轢さえ言葉は乗り越えられる」
    ↓
   「つきつめるとその社会はどんな地域社会をも飲み込む、
    それら集合体である都市国家であるべきだ」
  
  人間は互いの利害関係を力でなく論理で整理し解決することができる。
  これは個人間のものから家庭間、地域社会間へと規模を拡大しても
  解決することができる。
  人間にしかない高度な言語はその重要なツールとして使われる存在。

  つまり、人間というのは

   どんな状況にも対応しうる

  存在であると言える。これを言い換えると

   どんな状況でも、物事を常識的に解決できる

  ことであり、

   常識で解決することを諦めて"力"で解決する

  ことは人間らしくない。これはボスザル決めのやり方だ。
  だから、個人間のトラブルは

   和を以ってよし

  とすることが人間らしいけど、それでもこじれたら

   司法

  のお世話になるしかない。しかしそうせずに

   私刑

  という形で勝手な正義をふるったり、

   ヤーサン(ほかアウトローな組織)

  に「処理」を依頼して解決を図ることは

   政治的な生活ではない。


 ■市民たちの美徳とは

  上記のように、力でなくどこまでも常識で解決する政治的生活を
  送ること、言い換えれば政治のうちに暮らす市民でありつづける
  ことが美徳。

  この理念を広げると、

   ・互いに相手を尊重した上で利害関係を調整しあう

  ことが市民たちの美徳だと言える。

  もっと言うと、多くの自治体が美術館や芸術公演用のシアターを
  持っているように、広い意味で

   何が美しいか

  ということのコンセンサスを与える。
  いうなれば、商店街などにあるスプレーの落書きや、最近の事例では
  広告看板

   ・はたして美しいものか
   ・ただ景観を害するものか

  を判断する、社会としての規範を示す。


 ■どっこい

  カントやロールズは

   政治は、個人が何が美しいかとする価値観の自由を保障するもの

  といっている。
  これはつまり、さきの商店街の例で言えば、人様のものを
  勝手にいじることの是非はいったんおいとくとして

   これは芸術だ!グラフィティだ!

  という言い分を認めることになる。しかしこれは同時に

  はたしてこれはいつもいつでもそうであるかと言えるだろうか

  という疑念もふつふつと湧き上がる。
  意地悪な言い方をすれば、う○こマークやおま○こマークを
  芸術と呼ぶにはあまりに説得力がない。

  話を戻すと

   芸術だの表現の自由だのの名の下に、古くはテレクラ、今日では
   出会い系の超巨大な「美少女」看板が駅前にあることは許されるか

  という問題をカントやロールズは解決するだろうか、とサンデルさんは
  考える。だからこそアリストテレスの考える政治のあり方をもとめる。


 ■ここでおさらい

  政治のテロスは、

   ・善い人格を形成すること
   ・市民たちの美徳を高めること

  であるわけだから、

   ・誰が市民であるか
   ・誰が市民たちを統べるべきか

  という問いにはそれぞれ

   ・美徳を尊ぶ人
   ・美徳を尊い、さらに皆の手本になれる人

  があてまはるといえる。

  また、

   ・本来人間は言語を駆使して利害関係を調整しあうもの

  であることから、

   ・世捨て人
   ・社会がよくなろうが悪くなろうが関心のない人
    ⇒自分の利益だけ確保されておればよく、社会の中で一方的に
     不利益を被っている側の利益を慮らない人
 
  というのは政治的な生活のうちにいないものですから

   ・政治について一方的に口出しするなんてもってのほか

  といえる。逆に、

   ・卓越した利害調整能力 = それだけ言葉を駆使できるちから

  のある人はその才能・能力を存分に活かせるポストである
  社会、政治のトップたりうる人だと言える。

  
 ■なぜ実践が必要であるか

  まず、わかっているだけでしていないことの無意味さは書くまでもない。
  しかしもういっちょ。

   実践していないと、そのこころが身につかない

  という側面がある。さきにも書いたように

   いろんな場面で物事を常識で解決できること

  が人間であり、その能力がどこまでも通用する必要がある。
  しかし、小っちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれ
  ナイフみたいに尖っては力で物事を解決する方法しか
  身につけられなかった人間は

   常識で解決するノウハウが存在しない。

  世の中にそうでない解決の仕方があることはわかっている。
  しかし知っているだけでは何にもならないし、

   やっとひとつ場数踏んだからって
   そのやり方がどこでも通用するなんて思いなさんなよ

  というもんですから、ひたすら世間の中で常識を突き通して
  ゆくほかない。

  このあたり「実践の宗教」である仏教も同じ考えだし、
  聖書では「よいサマリヤ人」のくだりで有名。
  祭司もレビ人も日ごろ善いおこないに欠けていたからサマリヤ人のように
  「え?当たり前のことしたまでですよ?」ができないさま。

  別に宗教の書物どうこうじゃなくても、

   日ごろ道に落ちてるゴミひとつ拾えない人に
   ・美徳がなんたるか
   ・何がきれいで何が汚いとかいう話はまったく無意味
   といったことがわかるか

  という話であるからして、

   そもそもゴミを拾うこと自体が美しいのであって、
   ゴミを汚いものともきれいなものとも感じる意味がない。

   ゴミがどんなものだろうが撤去されたあとの様子・結果には
   まったく関係はなく、ただその結果を待ちわびている、

   拾われるためにあるもの、拾われることが目的のもの

   がそこに鎮座してるだけという事実。

  ということに気づかないし、わからないからできない。


 ■じゃあわからないまま終わるのか

  そもそも。
  その「ゴミが拾えない人」、果ては「平気でポイ捨てする人」には

   何が欠けているか

  と言われれば

   (美的センスとしての)美意識

  が欠けているとも言えるし

   (道徳的センスとして)美徳

  が欠けているとも言える。
  では美意識・美徳はどこからくるのか。

  内なるものか?ふつふつと湧き上がるか?

  いやいや。
  だとしたら彼らはポイ捨てしない。
  なぜなら

  「『ポイ捨て』という美しくない行為」という概念そのものが
  存在しないからだ。

  もっと言えば、

   盗んだバイクで走り出す(カッコイイ)十五の夜

  という概念の持ち主は

   自らの命も顧みないどころか、突飛かつ没個性的という
   相容れないものを高次元で融合した80年代の奇抜なファッションで
   この21世紀の夜を音楽センスのかけらもない音を発生させて
   駆け抜ける、思春期のありあまる自己顕示欲のかたまり

  という概念を持ち合わせていない。
  しかしこれら2つの概念は共通点がある。

   ともに、外から植えつけられた美意識・美徳

  であること。
  オザキとか特攻の拓ど真ん中世代のやんちゃな子たちは
  
   ブッコミって美しい

  という了見でいる一方、そうでない人間からしたら

   今日びまだいたんだ珍走団

  くらいの認識でしかない。


 ■そういうわけで

  誰かが美徳のお手本を示さなきゃいけない。
  それが

   政治

  の役割であり、わかりやすい例をあげれば

  ・法律によって「美しくないものリスト」をつくる
  ・裁判によって「美しくないおこない」を罰する
  ・天然記念物を制定したり、国民栄誉賞を付与するなどして
   「美しいもの」「美しいおこない」をしめす

  といった活動にその考えが見て取れる。


 ■まとめ

  善い市民(善い習慣づけが身についている人間)でいるためには

  ・徳を実践する
  ・何が善いことか、美しいこと・ものであるかについて
   力でなく言葉で折り合いをつけること

  が必要。


***

Lecture 1~2

アリストテレスの「適合性」

 ■足の悪いプレーヤーに対する措置

   ゴルフをプレイすることはできるが、足が悪いため
   移動をカートで行わなくてはならないプレーヤーがいる。
   
   彼はツアーに参加する上でカートの使用許可を主催団体に
   申し出たが、主催者側はこれを却下。決着は法廷に。

   主催者側の判断は正義か?


  ここでの論点は2つ。

   ・歩くことはゴルフの目的に含まれるか
   ・そもそもゴルフは、強靭な体力を要する部類のものであるか


  まずひとつめについて。

   いろんな意見
   ・カートを使用している大会もある
   ・いやいや、基本的にコースを歩くのもゴルフのうち。
    それがいやならカートの使用を認める大会なり、
    「障がい者スポーツ」としてのゴルフ大会に出ればよい

  これについて司法は、歩くことはゴルフの本質に含まれないと
  判断したためプレーヤーの側の意見が通った形になった。


  つぎにふたつめ。これは司法うんぬんはなかった。

  たとえば。
  マラソン大会に、足が不自由という理由で特殊な機械を装着した靴を
  履いて出るのはおかしい。
  これは、走ることが目的に含まれるということもあるけど、
  それ以前の問題として

   マラソンは、純粋に足の速い人を讃える競技

  であるわけだから、

   足が不自由であるならば、その時点で(一般の)マラソン競技に
   参加する資格はないというかあっても特別扱いなし

  ということになる。
  この観点から言えば、仮に

   ゴルフが、一部の人間がカートに乗ることさえも許されないほど
   みなが筋肉を酷使する体力勝負のスポーツ

  であり、

   ゴルフが、そのすさまじい筋力体力を讃える競技

  であるならば

   カートは特殊機械靴に同じく使用は許されない。

  どっこい。
  我々の共通認識ではゴルフというのは

   メンタルなスポーツ

  であるからして、ある程度の集合知としての文献としてあえて
  wikipediaを引用するなら

  >精神力が重要とされ、精神力7割技術力3割とも言われている。

  てな具合。つまり、ここでのくだりに沿うなら

   体力でなく、技術と精神力が讃えられるスポーツ

  と表現できる。


 ■適合するもの

  以上のことから、我々は

   ・マラソンの勝者には、足の速さを讃える
   ・ゴルフの勝者には、技術と精神力の高さを讃える

  その一方で、

   ・マラソンの勝者には、腕力の強さを讃えない
   ・ゴルフの勝者には、体力の強靭さを讃えない

  これはどういうことかというと、

   勝者に与えられるものは、それにふさわしい賞賛・名誉

  であり、アリストテレスさんの言う正義にはこのふさわしさ、、
  すなはち

   「適合性」

  が含まれる。
  適合性の問題をスポーツでなくほかのものにあてはめると

   ・字がきれいでないと競泳競技に出られない
   ・手がきれいでないとコールセンターで働けない
   ・話し方がきれいでないと代筆バイトで働けない

  などなどといったことは正義でなくなる。


 ■ここまでのまとめ

  アリストテレスさんの言う正義とは

   ・目的に合致するか
   ・適合するか
   
  ということ。

   ・絵の上手い人が絵を描いて物を食える
   ・話の上手な人が話術で物を食える
   ・手先の器用な人が技術で物を食える

  ことがかなうのがよい社会となる。  


 ■ちょっと待ったのロールズ

   目的から正義を論じた場合
   平等な基本的人権が脅かされる

  というのはロールズさんの談。
  これはさきにあった

   政治は、個人が何が美しいかとする価値観の自由を保障するもの

  というものに立脚している。
  なにが政治の目的か、なにが美徳たるやなどなどが、
  目的が決まっているものとして語ってしまうと、それに沿わない

   ・「まちこわし」看板の"表現の自由"を侵害してはいけない
   ・う○こマークやおま○こマークの落書きは芸術たりうる

  という価値観・自由をないがしろにしてしまうから。
  そしてこの価値観の違いから

   なにが目的というものについて価値観の統合・同意が
   なし得ない以上目的論で正義を論じ得ない

  と断じた。
  そういうわけでここで、

   ・スクール水着をAV女優に着せる美徳・美意識、権利・自由が
    あったっていいじゃないか
   ・目的が異なるからAV女優+すく水は善でないという自由の制限、
    適性・才能があるからこの職業に就くべき、という自由の制限

  という考えの問題、

   1.「権利が善に優先するかしないか」という問題
   2.「自由な道徳的主体とはどのようなものか」

  が生まれる。
  これを言い換えると

   自由とは、役割や目標・目的を選べることか否か

  という問いになる。

  この問題は次回へ続く。

2010年8月29日日曜日

第09回 「入学資格を議論する」

Lecture 1

アファーマティブアクション

 ■アファーマティブアクションとは

  社会の時間で習うところの「ポジティブ・アクション」。
  差別されているなどの社会的不利益を受けている、
  マイノリティの側を優遇することでプラマイゼロとする、
  いわゆる逆差別の一例。

  電車でおしりやおっぱい、おまんまんを触られる女性が
  少なくないことから「女性専用車両」が設けられたのも
  広い意味でこれのひとつ。


 ■テキサス大ロースクールの入学にかかる訴訟

   カリフォルニア州立大を優秀な成績で卒業し、
   テキサス大のロースクールに入学するべく受験したある女性。
   結果は不合格。
   納得いかない彼女は大学を相手に訴訟を起こした。

   その理由は
   「大学が実施している人種差別に対する是正措置によって、
    わたしより成績の低い人間がわたしを押しのけて入学したから」
   というもの。

  これは有色人種を優遇するというもので、彼女の言い分は

   「白人であるわたしがもしマイノリティだったら入学できていた」

  というもので、実際、入学した有色人種の生徒では彼女と同じ程度の
  成績でも合格している人もいた。


 ■そもそも、彼女の言い分は何に基づいているのか

   ・入学資格は、テストの点数で決まる
   そして
   ・点数という結果・実績の前では人は平等である

   これを反故にすると

   ・人種で選んでるだけでそもそも試験を行う意味がなくなる

  ということが彼女の言い分にある。


 ■では大学側はどう考えたか

  大学側は

   マジョリティの生まれ = マイノリティの生まれ + 是正措置

  と考えた。これは、

   より優秀な能力を持った学生を入学させ、伸ばす

  という高等教育機関の使命を果たすためのもの。
  つまり、格差是正措置というのは

   マジョリティの生まれならば、入学選別試験の時点で
   本来もう少し才能を発揮していただろう、
   テストの実績はいまいちだったけど、本来の才能はもっとあるだろう

  という、「たまたまよい環境にいなかった」人々を救済するという
  考えがある。

  本来ならばすべての学校や家庭で同じだけの教育がなされるべき
  であったが、

   マイノリティはその十分な機会が得られない存在

  であることは明白な事実であるのでこれを是正しようとした。


 ■めんどくさいことすっとばして簡単に言うと

   テキサス州人口の4割が有色人種なんだから、
   大学に入学する有色人種の数も受験者の4割あるのが
   本来自然だろーが。
   そうじゃねえからやってんだってーの。


  という理屈。つまり、

   ハナから人種における人口比に沿う形で、ただしそれを
   厳密にすることなく、基本的に点数ベースで足切りすることで
   特定の人種に対して特別有利にならないようにしていた

  ことになる。これを言い換えると

   人種ごとに枠を設けてやってもいいけれど、手間とか
   管理考えたらしちめんどーなんで、みんなに同じ試験
   受けさせて後で枠決めして割り振ればいいよね

  という考えであって、さらに言い換えると

   すべての人種の人間らで同じ競争をさせるのではなく、
   それぞれの人種内でのトップシードを選別する

  ことを大学は考えていたといえる。イコール、

   それぞれの人種からすぐれた人材が集まる大学を目指した

  のであって、これは

   大学の意向

  である。これはつまり

   とにかくすぐれた人材が集まる大学を目指す

  ことと一線を画す。なぜならほっといたら

   べらぼーに白人が多くなる

  から。
  これは文化交流機関でもある大学としては意に沿わないことから
  これを避けようと考えた結果こうなった。
  また、集めてそのままでなく

   それぞれの人種から高度な専門性を持った人材を輩出する

  ことも理念においていた。
  それが社会をよくするという理念があるからだ。

  大学を出て郡だのや州だの、果ては連邦議会だのの中に
  有色人種も白色人種も金持ちも貧乏人もどんどん集まって
  それぞれの立場からとことん議論することはプラスになる。

  また、マジョリティや大企業のカタを持つ弁護士だけでなく
  弱者のためになる弁護士やいろんな価値観があることを知っている
  司法従事者を輩出することもプラスだ。

  これらのことから言えることは

   彼女は有色人種に負けたのではなく、
   同じ白色人種に負け、不合格となった

  という事実。


 ■極論すると

  47都道府県から一部例外を除いて1校ずつ出場する甲子園。
  「あの県からだったら俺たちも甲子園出られたのになぁ~」
  というくらい無意味。

  各都道府県のトップ同士で戦うのが甲子園なのであって、
  4千何百校すべての上位49校を選んで対戦しているわけではない。

  そしてこれは、何の差別でもない。
  都道府県間の教育的交流事業が高野連の意向・大会の目的だからだ。

  だから、186校ものトップである神奈川県代表を惜しくも逃したからといって
  24校しかない鳥取だったら(鳥取代表と戦ったら勝てることが明白だとして)
  自分たちも代表になれたはずだからそっちに入れろなんていう
  暴論は許されないし、そんな奴ァいねえ。

  そもそも神奈川の彼らが鳥取から出る資格はないし、
  そのことはなんら正義に反していないから。


 ■前回の話とあわせると

   「才能・能力」に付与される利益・権利・資格は
   時と場所、ひらたく言えば需給関係に左右される

  つまり、テキサス大学においては

   ・白色人種は比較的買い手市場
   ・有色人種は比較的売り手市場

  であって、その本質的理由は差別でも逆差別でもなんでもなく

   ・多様性を重んじるという価値観が大学にあったから

  というもの。どうして需給関係に違いがあったかというと

   ・白人枠に対する白色人種の数がべらぼーに多かった
   ・有色人種枠に対する有色人種の数がべらぼーでなかった

  という

   単なる需給関係の事実

  があったのみ。


***

最高のフルートは誰の手に

 ■前回のおさらい

  Q.大学や高野連の社会的使命やそれにかかる選抜方式は
   好きに決めていいのか

  A.よい。選ばれる人も選ばれない人も正しく尊重される限り。


 ■ということはだよ?

  大学の社会的使命に適う/適わないと「判断」されるというのは
  成績とはいまいち関係なしに品定めされてやいまいか。

  言い換えれば、大学が

   時代が求める人材を育成し、社会に提供する機関

  である以上、大学に入学する資格というのは

   時代が求める資質・才能

  であるわけだ。これをさきに出た言葉で言い換えると

   「正当な期待に対する資格」

  だ。
  つまり、その大学に合格できたのはその人の成績ではなく

   ある種たまたま身につけていた資質・才能

  を大学側がみとめたからということになる。
  いうなれば芸術学部(イコール芸術枠)に芸のない人は
  入れないことにおなじ。

  同時に、合格した人も落っこちた人もその人の道徳的対価、
  すなわち

   人生における実績・テストの成績・過去の結果etc

  というのは重要視されていないことになる。
  いうなれば、

   i.求める才能・資質の集団から特定の人材を選抜する方法として
   ii.成績が優良であるという「決め手」で選ぶ

  という、才能・能力・資質イコール「正当な期待に対する資格」先行の
  考え方がそこにある。


 ■これは正義か?

   実績、すなわち道徳的対価を考慮しないで選抜することの正義

  について考える。
  
  そこでオーディションというものを考える。
  これは日本語横文字で言うところの

   タレント[star: 芸能人]

  を発掘するのであって、これは応募者の

   タレント[talent: 才能・技能]

  を見出だす作業だ。
  しかしやり方はちと違う。

   その場で実演して実績(=道徳的対価)をつくってもらう。
   歌うたったり演技をしたり。

  そういうわけで一見、道徳的対価がモノを言う世界に思える。

  しかし。
  演歌が好きでうまく歌える日本人よりも、
  
   同じくらい演歌が好きで同じくらいうまく歌える黒人

  のほうがはるかに注目を浴びる資格があると我々の社会は考える。
  そこにある大きな違いはただひとつ

   人種だ。

  ぶっちゃけ、その黒人のほうが現時点で歌唱力があともう一歩
  だとしてもそのオーディションでは一抜けになることは間違いない。

  するってーと、同じくらい歌えるその敗れた日本人はなんだったんだ
  という話になる。
  同じくらいの実績があったにもかかわらず、だ。
  同様に

   人柄

  というのも重視されたりする。
  globeの山田さんはそつなく歌うどころかステージから落ちるという
  芸当をやってのけたあたりが"評価"されてあとの活躍は書くまでもなく。

  また、歌が恐ろしく上手いブ、もとい、おてもやんさん顔の人よりは
  そこそこの歌でもえらいかわいい子がオーディションに合格するはず。

  これが究極の形になれば

   えらい特異なキャラクターのぶちゃいくなおばちゃんだけど
   どえらい歌唱力を持っている

  となると一夜にして世界的大スターになってしまう。
  この場合、

   歌をうまく歌えたという実績

  よりも

   ぶちゃいくでヘンテコリンなキャラのおばちゃんというギャップ

  という「才能」が注目に値する「決め手」となっていることは確か。
  つまりそれらはみな

   時代が求めた人材・タレント

  であって

   必ずしも"実績"がべらぼーに優れているというわけではない。


 ■でだ、そこで何が問題になる?

  人を選抜する上で、その基準に

   自分の力ではどうしようもないもの

  がでてくることが問題となり、そしてそれは時に

   どうあがいても選ばれない

  ことを意味する。
  女子はラサールに入学できないし、甲子園でプレイすることもできない。

   成績・実績が評価されず、能力や身体的特徴などなどが評価の対象となる

  ことは正義であるか。


 ■多くの思想家はこう示した

   正義は、利得や道徳的対価に報いたり
   それを讃えたりするものと理解されるべきではない

  とのこと。この考えは

   道徳的対価と正義を結びつけることは、
   自由な存在としての個人への尊重から離れる行為である

  という点でも各々の考えは一致している。


 ■アリストテレスは正義というものをどう考えたか

   与えられるべきところに与えられること
  
  とした。たとえば

   ・バールは大工さんに与えられるほうが正義にふさわしく、
    銀行強盗に与えられるべきでない。

   ・スクール水着はスイマーに与えられるほうが正義にふさわしく、
    AV女優さんに与えられるべきでない。

   ・麻酔薬は患者に投与されるほうが正義にふさわしく、
    健康な人間に与えられるべきでない。

  まーこんな感じ。
  これはどういう理屈かというと、

  世の中には

   ・人々に与えられる物
   ・物を与えられる人々

  が存在し、

   ・平等である「物を与えられる人々」たち

  には

   ・それぞれ平等な「人々に与えられる物」

  が割り与えられるべきであるとした。


 ■ここで本題

   この世で最高のフルートは誰に与えられるべきか

  こたえは言わずもがな

   この世で一番上手にフルートを吹ける人

  である。
  じゃあフルートが吹けないというだけでフルートを得る正義は
  ないかというと

   そのとおり

  と言え、このことから

   すべての正義は、差別を内包する

  という答えが導かれる。
  ここでは、

   その人はフルートを所有するにふさわしいかどうか

  という点が焦点となる。


 ■いやいやしかし

   スクール水着はAV女優に与えられたっていいじゃないか

  という意見もあるはず。
  これについてアリストテレスは

   ・そのすくみずに一番高い額を出した人間に与える
   ・くじびきで与える
   ・最も似合う女性(時に男の娘)に与える

  などなどといった、ほかの根拠によって所有されることは
  すべて正しくないとした。

  しかしこうも言っている。

   もしかすると、スイマーがその水着を所有するよりも
   似合う女性に着せたほうが世の中のためになるかもしれん
   という考え方はあってもいいかもしれない。
  
  だけど

   たとえそうであったとしても、
   スクール水着はスイマーに与えられることが正義である
   ことは変わらない。

  なぜなら、スクール水着は、

   ・学校の体育の授業においてプールで着用されることが目的

  なのであって
  
   ・大人の保健体育の授業においてベッドで着用されることが目的
  
  というわけではないからだ。


 ■これはどういうアプローチか

   ギリシア語で言うテロス(目的・意義・目標)から正義を見出す
 
  アプローチを

   目的論的論法

  と呼ぶ。
  目的からさかのぼってなにをすべきか、なにが正しいかを
  考えること。

  この考えは社会システムだけでなく、自然に起こることすべてを考え、
  自然の中での人間の立ち位置を把握する上でも用いられていた。

  よってこれは

   「すべてのものに意義がある、すべてのものは偶然でない」

  といった聞こえのいい流行歌の歌詞にありそうな、でもなんのこっちゃ
  いまいちよー説明がない考え方に通ずる。

  これは禅の思想と似ていて、物(モノだけでなくモノも物事・現象一切を含む)と
  自我の関係性を把握するアプローチが同じ。
  
   ex.)
   軍医は担ぎこまれた兵を治療しても、兵は治るとたちまち
   再び戦場へ赴きまた怪我をして帰ってきたり命を落としたりする。

   治すことがもはや「無意味」「意義がない」と感じた軍医は
   どうして患者を診られようか。   

   こたえ。

   「医者だから、目の前にきた者を治す役割がある」

   という自律のこころが彼を支える。
   これはすなわち、自分という人間の目的・意義・役割を
   きちんと把握してはじめて得られるところ。

   これまでは目的や目標が違っていたかもしれない。
   まるで看護学校のパンフレットにあるように

    「患者さんが元気になってほしいからです」
    「ありがとうと言われるとやっててよかったと思います」
    などなど
   
   のような動機。もしかしたら

    「儲かるから」

   とかいうのもあるかもしれない。

   しかし、真に意義を見出し、それを自分に律しないと
   軸がブレてしまう。

   この場合、医者は患者を診るのが仕事であるという目的を見据え、
   患者はどこへくるのか、そりゃあ医者である自分の元へくるがな、
   治ったらどうなるがな、

    そりゃあまた戦地に行くに決まってる。兵士だから。

   といったように、物事が単純明快に「わかる」ことができる。

  しかし、人間は経験や偏見、自負心などなど、自分というフィルタを
  かましてしか世界を見られないものでして、なかなかそいつらを
  全部とっぱらって物事を見るというのは難しい。

  でもそれを目指すのが禅や老荘といった思想哲学、宗教哲学、そして
  この授業のような学問としての哲学ってやつなんじゃないかしら。


  ■そういうわけで

   点数がよいという理由で、白人が有色人種枠へ入るのは

    泥棒にバール、AV女優にスク水

   であるのと同じことと言え、

    正義ではない

   と言える。


***

おまけ
  
  ■聖書に見る正義

   「豚に真珠」という言葉は聖書のもの。
   価値のわかるものに相応のものが渡ることが正義であり、
   そうでないものは不義であるとキリストさんもおっしゃってる。

   言ってることはまったくおなじ。
   これがなかなかできないから、他人の目の中にあるちりが
   気になる一方で自分の目の中にある丸太に気づかないという
   たとえもあったり。

2010年8月27日金曜日

第08回 「能力主義に正義はない?」

Lecture 1

ロールズによる「分配の正義」

■前回のおさらい

・正義の原理は、仮説的契約によりもたらされる
・仮説的契約は、無知のベールが互いの間にある状態下で成立する


■無知のベールと功利主義

無知のベール下にある人々は、

「最大多数の最大幸福」

を優先させる功利主義を選ぶか。
答えはノー。

なぜなら、フタあけた結果少数派に属していた場合
意思や財産を奪われてしまうから。
常に多数派でいる確率は高くない。

では何を選ぶか。そこで

人は「平等な基本的自由」を選ぶ

とした。
思想・言論・身体の自由など、いわゆる基本的人権が保障された
社会に入ることを望むはず。

これより、ロールズは功利主義は拒否されるはずとした。
この根底にあるのは

・自らの基本的権利と自由をいかなる経済的利益とも交換しない

という考え方。


■無知のベールと平等主義

今後自分が金持ちになるか、はたまた貧乏になるかはわからない。
じゃあ保険をかけておく意味で金持ちも貧乏もない社会を
望んでおこう

という考えがあっていいかもしれない。
しかしこれでは貧乏になることはなくても金持ちにもなれない。
言い換えると

努力が報われない

社会となる。
悪くはないんだけど良くもない。
無知のベール下で、人々は完全な平等を望むとも思えない。

投資で言うならスクエアな両建て。
もうけも損も無い状態。


■そこで登場、格差原理という概念

途方もない金持ちにもなれる一方で、最下層に位置しても
生活レベルを保障する社会って悪くないよね※

という考えに基づき、ムチベーな人々はこれを選択するはずと
ロールズさんは考えた。これは

条件つきの平等原理

であって、完全な平等ではないも完全に搾取されることもない
ことが望まれる社会。
言い換えると、

ある程度の格差を容認する社会

といえる。
この場合、

恵まれない人々に益となる経済的不平等のみが許される

と、ロールズさんは言う。

※この考え方に近いのは投資で言うならオプション取引。
もうけは享受して、損な状況はオプションを行使せずに
最低限の損失で済む。
宝くじを買うのにも似ている。


***

ちょっと待ったの能力主義

■完全な能力主義を選ばない理由は?

平等な基本的自由なんていい、
成果主義の社会でヨーイドンじゃダメなのか?

(成果主義を含む)能力主義というのは能力や結果がすべて。
つまり、

足の速い人も足のない人も同じゴールを目指す

ことになる。これは

ゴールラインを平等にしたことで、スタートが平等でなくなる

ことであり、言い換えると

成果の評価尺度となるものすら各々にとって"平等"でない

と言える。
そこでたとえ両者同じだけ努力したとしても、足のない人はとうてい
敵いっこない。

つまり、

努力が評価される機会とその見返り

はあっても

能力(足)や結果(タイム)が欠けていると、努力は評価されない

ことになる。
言い換えると

その社会の中で永遠にインセンティブを受け取れない人々

が生まれることになる。
これは

生まれながらにして努力が報われるかそうでないかが
決定されうる社会

だ。こんな社会をムチベーな人々が望むだろうか。
これを選ぶとしたら、もはやギャンブルだ。


■ギャンブルとインベストメント

理性的な投資家は、手持ちの一切合財の資産を
すべて賭けるだろうか。
こたえはノーだ。

余裕資金の中で、そしてその中でも分散投資する。
受け入れられるリスクの中で戦っている。

なにが言いたいかというと

・投資しない   平等主義
・先物全力買い  完全能力主義
・先物オプション 格差原理

みたいな感じにたとえられそうな気がするみたいな。

この世の中で、全力で先物買うことは当然のことだろうか。
無知のベールが互いを隔てている市場の中で、たやすく
オールオアナッシングの賭けに出るだろうか。

皮肉なことに、リバタリアニズムの権化というかそのものというか
マーケットでおまんま食ってる人たちでさえ

人として最低限の生活

を死守した上で生きているというスタンスを認めざるを得ない。
身を滅ぼしうるギャンブルと投資は違うもの。

つまり、能力にだけ報いるシステムというのは

"誰にとっても最善である"とは決して言い切れない。


■格差原理を検証する2つの議論

・ギャンブルだっていいじゃないか(前述)
・所得や富、機会の分配は公平なものでなくてはならない
⇒生まれ持ったものにおけるアドバンテージや
ディスアドバンテージに対してなんらかの形で
是正しなくてはならない

次に後者について検証するため、封建的貴族社会について
ロールズさんは考えた。


■社会の進歩をみてみる

【封建的貴族社会】
・生まれながらに一生の身分・職業が決定されている

西洋のお城を中心とした社会みたいな。
インドのカースト制度もおなじ。
これは機会分配がハナから存在しない。農家は一生農家。

そこで次の社会へ進化した。

【形式的に機会均等である社会】
・職業選択の自由アハハン

たとえばの例。

司法試験てのがある。
しかし弁護士などなどになるにはべらぼーな額のお金が必要。
金持ちのボンボンにはそれは苦ではない。
しかし貧乏人にはそれが大きな障害となる。

スタートラインが違う以上、同じ努力は同じ結果にならない。
同じ報いを得られない。

これが公正な競争であるといえるのか。

金持ちが努力した、弁護士になった。
貧乏人が死ぬほど努力してはじめて、弁護士になれた。

この違いは

べらぼーな金でしか解決できないハードル

が確かに存在することであり、封建的貴族社会と比較した上で
言い換えると

決して得られなかった職業機会が
べらぼーな金で得られるようになっただけの話

であり、本質的には

限られた人以外にとって、依然として機会は
生まれながらにしてあってないようなもの

といえる。

そしてこれからさらにもう一歩進む。

【公正な機会均等である社会】
・機会そのものへのハードルがない、またはないに等しい

ここではじめて自分たち社会の考える「能力主義」になる。

たとえば普通選挙における被選挙権。
一定年齢以上に付与される被選挙権によって誰でも立候補できる。
議論はあれど供託金もそんな途方もない金額でもないとする。

しかし

・機会を用意しても
さらに
・その機会にちゃんと参加できるようにしても

それでも差がつくポイントがある。なにかってーと

二世議員は地盤かばんカンバンそろってるだけに
生まれながらにして圧倒的に有利

という現実がまだ残っている。


■ではどうするか

ロールズさんはだからこそ「格差原理」へ進む必要があると説く。
世の中には

・天才的な遺伝子を持った人間
・優秀な芸術家の子として生まれ、指導を受けられる人間
・"地元の名士"の子として生まれた人間

などなど、「生まれ」のよい人間がいる。
恵まれた彼らとそうでない人々の間にはどうにもこうにも
埋めがたい差がある。

ならば彼らにハンディを課して競争することが理に適うかというと
それは完全な平等主義になってしまい

・持って生まれた才能や環境が台無し

になってしまう。
才能はうんと花開いてもらったほうが社会にとっても
益になるはず。
しかしそれだけでは恵まれた人たちだけが得をする
世の中になる。

ではどうするか。
そこでロールズさんはさきに述べたとおり

恵まれない人々に益となるよう、恵まれた人々から
経済的利益を移転するという不平等な扱いが
特例として許される

社会がよいとした。
持って生まれた才能を利用するのはかまわないし、むしろ存分に
やってもらいましょうとした。

そして生まれた時点で存在する各々の経済的なアドバンテージ差を
埋めるべく、

生まれ持つ「恵まれた才能・生まれ・育ち」に起因する
経済的利益を「恵まれない人々の側」へ移転する

ことで差はなくなるとした。

これはその人自身の生み出した功績を取り上げるものではなく、
その人の生まれ持った「恵み」を、ほかの恵まれない側へ
分配しようねという考え。

ちなみに。
これはたとえ同じ環境で生まれ・同じ環境で育った双子でさえも
両者に差があると考える。
極端な言い方をすれば

何分だか何時間だか先に生まれたという理由だけで

「あんたお兄ちゃんなんだからしっかりしなさいよ」

と口すっぱく言われ、そのとおりに育てられた結果

・勤勉な長男
・奔放な次男

という違いが生まれたりもする。
兄貴京大だけど弟ふつー大みたいな。

といった具合なので、

双子の兄弟でさえ生まれ・育ちに差がないとは言えない

といえる。
これを言い換えると

努力する才能さえも、生まれ・育ちに左右される

ということになる。
そして

長男として生まれたのは自分の力ではない、恵み

でわけであるから

生まれはともかく努力は紛れもない本人の功績であるから
それを取り上げるのはおかしい

とする考え方さえ成り立たなくなってしまう。

話戻って

恵まれない人々に益となる経済的不平等のみが許される

という考え方を言い換えると

恵まれない人々に益となる経済的不平等が課せられることを
受け入れてはじめて自分の益を手に入れることができる

とできる。
つまり、富の分配と富の分配はまず再分配ありき、
吉本芸人風に言えば

再分配"先行"

の考え方であることがわかる。


***

Lecture 2

格差原理への反論

■1.インセンティブはどうなるか

「累進課税率が9割とかめちゃくちゃなもんだったら
せっかく才能あってもやる気なくすがな」

税を取りすぎて才能ある人のモチベーションを下げることは
あってはならないとロールズさんもおっしゃっているので
反論にはならない。


■2.努力はどうなるか

「一生懸命がんばったのだから、相応の金は彼らのものだ」

・さきにあったとおり、生まれ持った才能や、身体的な
すぐれた能力または障がいは自分の功績でも自分の非による
ものでもない。

・そもそも、対価は努力でなく結果に支払われている。

これらのことはつまり

(自分のものでない)才能 + 努力 = 成果  

この成果に支払われているものである。
言い換えると

大きな才能 + 少しの努力 = 成果
小さな才能 + 大きな努力 = 成果

これら同じ成果量にかかるそれぞれの努力量は違うものだが、
対価は同じだけ支払われる。
このことから

どれだけ努力したかなんていうのは成果に支払われる
対価となんら関係ない


という答えになり、悪く言えば的外れな反論になる。


■3.才能の自己所有はどうなるか

「才能や資質を社会全体のものと考え、それから得られた
果実を取り上げるのは納得いかない。
わたしの才能はわたしのものだ。
なぜならわたしはわたしを所有しているからだ」

この部分、サンデルさんの説明はどうも少ない気がする。
ハテナな人もけっこう多いのでは。なにがハテナかってーと

なにをもってロールズさんは、
自分自身を所有しているわけではない
としたか

という点。

そもそも自己所有についてロールズさん本人が言及していない以上
それに対する説明がなくても致し方ない。

考え方としては、

自分の力で掴み取ったものだけが真に自分のものであり、
それに対する対価を受け取る資格がある

という考え方が根底にあり、

自分で掴み取ってもいない、生まれついた才能や親の七光りは
お前さん自身に対する対価ではなかろうに

という理屈がころがっている。
さらにもう一歩進めると

この時代に、この親で、この五体満足で、この才能で
生まれてきたこと自体、
一切手前の功績でもなんでもなかろうよ

という話になる。
つまり生まれ持ったこのバディアンソウは

自分でアクション起こして得たものでない以上、

ロールズさん的には

どーしてそれを自分のものとできるよ

という考え方になる。 
これをさらに展開すると

・たまたま戦争もない世の中で安心してのーのーと
働ける時代に生まれたこと
・たまたまバブルにのっかって売り手市場の中で
就職できたこと
・たまたま時代のニーズと持ってる能力が合致して
給料もらえること

などなど、これらすべて

テメーの力でもぎ取ったもんじゃねえだろ

という話になり、時代背景の部分について擬人化するとこうなる。



勝ち組世代でいるのは自力ではないし、
好きでニート街道突っ走っているわけでもないし
好きでゆとり教育に浸かってたわけでもない。

その、ありあまる外的要因によってつくられた才能・キャリアは
どうして自力で勝ち得たものだと胸張って言い切れるんかいな

という見方があってもしょうがない。
これを全部が全部いいのも悪いのも当人らのものとしたら、

氷河期世代に何かしらのアクション差し伸べる理由がなくなる。

氷河期世代が一方的に置き去りにされてしまう「才能の自己所有」は
正義か?公平か?

余談を言えば、戦争で学校にも行けないまま社会の波に飲まれ
子育てしながら働いて家族を養い、とうに還暦過ぎてもいまだに
自分の名前以外字も書けない人たちがこの世の中にいる。
そういった人たちに体系立てて教育してくれる公的機関はこれまでも、
そして今現在も存在しない地域が存在する。

そういう人たちに、

「いいや、努力が足りない。能力がないのは自力で得ていないせいだ」

というほうがどっか無理がある。


***

「道徳的な対価」と「正当な期待に対する資格」

■対価と資格

バブル兄さんが一定の仕事をしました。対価を受け取りました。
氷河期派遣弟が一定の仕事をしました。対価を受け取りました。

このとき、両者が同じ時間に同じクオリティの仕事をしたら
道徳的な対価は同じといえる。

しかし、兄のほうがより大きな賃金を受け取る資格がある。

そこに何の違いがあるかというと

・正社員は高い賃金を期待できる資格がある
・派遣にはそれがない

・キャリアには高い賃金を期待できる資格がある
・派遣を転々としてる人間にはそれがない

つまり、バブル兄の受け取る額に対する資格を、
派遣弟は持っていない。

ここでは、学歴やキャリアが重視されるから。

もうひとつ例。

23歳大卒の駆け出し職人が仕事をしました。対価を受け取りました。
23歳高卒のベテラン職人が仕事をしました。対価を受け取りました。

このとき、両者が同じ時間に同じクオリティの仕事をしたら
道徳的な対価は同じといえる。

しかし、高卒のほうがより大きな賃金を受け取る資格がある。

ここでは、学歴ではなくキャリアが重視されるから。

さらにもうひとつ例。

23歳大卒の日雇いバイトが仕事をしました。対価を受け取りました。
23歳高卒の日雇いバイトが仕事をしました。対価を受け取りました。

両者の賃金はおなじ。

ここでは、学歴もキャリアも無意味だから。

つまり、職種や職域というそれぞれの「小さな社会」において
各々の能力というのは重んじられるかそうでないか、
つまり

価値があるかどうかを見なす姿勢が変わる

ものであるといえる。
極端な言い方をすれば

ジョークを交えたトークができる才能なんて、葬儀屋には無意味

だといえるものだから、もし明石家さんまが葬儀屋に転職したら
たちまち長者番付から外れることになる。

つまり、技能給という目に見えるものばかりでなく、極論を言えば
免許保有者の「名義貸し」のように、能力があればそれでいい、
つまり

その人のおこないではなく、「自力で得たものでない才能・能力」
というものに支払われる部分は確実に存在する

といえる。


■つまりどゆこっちゃ

たとえばウデのいい土建屋さんがいるとする。
景気のいいときはえらい稼ぐ。
しかし景気が悪くなった途端、建設中のビルさえもそのままに
仕事がなくなってしまうこともままある。

ではここで、

仕事がない = その人に価値がない

といえるだろうか。
技術に対する知識や経験、人をまとめる力などなどは
そのまま持っているはずだ。
しかし彼らに支払われる経済的利益がないのはどういう理屈かってーと

そのとき社会が彼らを重んじる価値観を持ち合わせていない

と言える。
これはさきの職域うんぬんの話にも同じく言えることで

葬儀屋は明石家さんまを重んじる価値観を持ち合わせていない

という理由によって、積極的にコメディアンに支払う用意が
ないということになる。

このように、時代や職種・職域などなどが変われば重宝される
能力というのは変わるという現実がある。

つまり、

「才能・能力」に支払われる経済的利益は
時と場所、ひらたく言えば需給関係に左右されるもの

ということになる。

つまり、社会がその時々に持ち合わせる価値観というものを
経済的利益の移転というかたち是正することで、それら
需給関係で価値観からあぶれた存在の食いっぱぐれを防ごう

という理念に基づいていることがわかる。


■さーて、次回のサンデルさんは

マイケルです。

状況の産物であって自力で掴んだものでない「才能・能力」の
是正のために経済的利益を移転することの正義を見ました。

するとアナゴ君が言うんです。

「経済的利益の移転、つまり是正に正義があるなら
機会や名誉の配分に関する是正はどうだろう」

って。
僕もう困っちゃいました。

さて次回のサンデルさんは

・アファーマティブアクション
・最高のフルートは誰の手に

の2本です。

第07回 「嘘をつかない練習」

Lecture 1

「嘘」と「誤解を招く表現」のちがい

 ■ストレートに嘘つけばいいのに

  「嘘」も「誤解を招く表現」も、ともに目指すところは
  相手に誤った認識を与える、ひらたく言えば「騙す」こと。

  目指す結果は同じだ。

  ならば、ハナから大ほら吹けばよろしがな。
  なぜそうしない。結果は同じなのに。
  それは

   たとえそれらがともに同じ目的のものであったとしても、
   「嘘」と「嘘でない表現」には決定的な違いがある

  から。
  なにが違うかというと、

   わざわざ嘘でない表現をする動機

  が違う。


 ■クリントンの不適切な表現

   モニカ・ルインスキーさんと"不適切な関係"を持った
   ヒラリーさんとこのダンナ。
   彼は会見でこのように話していた。

    「私は皆に言いたい。
     俺ぁモニカとパッコンしてない。だから不倫疑惑は誤りだ。
     これは嘘じゃない」

   そして公聴会でのやりとり。

    議員「ビルはヤってないって嘘ついてたじゃないか!」

    弁護士「だからヤってないってば。ヤってはいないの。
        わかる?ねえ。ま、まさかお前・・・」

    議員「ど、ど、ど、ど、童貞ちゃうわ!
       ポルシェしか思いつかなかっただけじゃ!」

  フェラーリしてもらったことはビルもモニカも認めるところで、
  また、モニカの給油口に昭和ビル石油の、太くて液体の
  出てくるノズルは入ったことはなかったと、これまた両者は
  同様の表明をしている。

  何をもって「性的関係」かどうか、また、
  どこから「不倫」であるかの線引きを利用して

   ・私の定義では、給油口以外の穴にノズルを挿すのは「性的関係」ではない
   ・給油口でないところには挿れたけどね;-)

   よって

   ・給油口にインしなかった以上、「性的関係」は
    なかったと言えるから、これは不倫ではない

  という論法で言葉を組み立てて、国民に対して「疑惑は誤り」
  であるとビルは語った。

  まーどっこいフタあけてみりゃスキャンダルたるに
  十分いやらしい話であったものなわけでして。


 ■ここで2つの仮説でアプローチ

  ひとつめ
  ・ビルは心から、嘘だけはつきたくなかったとする

  ふたつめ
  ・真っ赤な嘘をつくよりはのちのちエクスキューズの
   余地があると考えたとする
  
  前者は、つい嘘をついてごまかしてしまうという「傾向性」に
  どこか抗っている姿勢がある。
  また、後者も時と場合によっては「勘違いしたほうも悪い」
  みたいな感じになるときがある。

  このようにひとつめ・ふたつめどちらのケースでも、
  「嘘」と「誤解を招く表現」のあいだには
  小さいけど確実な違いがある。

  ではその違いとはなにかってーと、そこに

   ・嘘をついてはいけない

  という道徳義務を尊重する考えが存在している。
  これをひとつめにあてはめると

  「嘘をついてはいけないから、嘘をつかない」

  という定言命法に沿ったことを為すことになる。
  これは道徳的に価値のあることだ。

  そしてふたつめ。
  エクスキューズの根拠となるのはこれも

   ・嘘をついてはいけない

  という道徳義務を尊重する考えを持っていたからであって
  仮にその考え自体を持っていなかったならば

   わざわざ「嘘でないように言う」必要がない。

  つまり、「嘘をつかない」ことに対して意義を
  理解しているからこそ、そうしたといえる。

  どういうことかというと、

  「保身のため、欺こうとする」
  ↓
  「欺くため、嘘ないし誤解を与える表現をする」
  ↓
  「嘘をついてはいけないというのは普遍的に道徳的である。
   よってギリ嘘をつかないほうがバレたとき逃げ道があるので
   後者を選択する」

  このように、普遍的な道徳的価値があると踏んでいる。わかっている。


 ■ここで整理

  ともあれビルは

   ・人を欺いてはならない

  という道徳義務をないがしろにした一方

   ・嘘をついてはいけない

  という道徳義務を遵守した。

  保身という動機からはじまった仮言命法ですらない
  「善くないこと」は、その途中で定言命法を経るかたちで
  「嘘つかない」行為に結びついた。


 ■カントは何がナシで何がアリとしたのか

  サンデルさんにおけるカントの解釈では

   ・あることあること

  を並べるのはアリとした。しかし

   ・あることないこと

  言うのはダメだとした。

  イメージするならドラマや映画の裁判シーンに出てくる
  悪徳弁護士・悪徳検事のようなもので、自分たちに不利な
  証言や証拠品を隠蔽した上で進めるような感じ。

   嘘は言ってない。証拠も本物。

  ちなみに真実がそこにないかどうかは、判決という

   「結果」

  でしか得られない。
  結果は結果であって、mixiのチェーン日記騒動同様、
  結果先行の動機というのはありえない。

  犯人でも被害者でもない以上、検察も弁護士も誰が本当の犯人かを
  100%わかっているならこの世に冤罪はないし、その逆もない。

  いろんなピースをつきあわせて最後にできた画を裁判官が
  判断するのであって、その作業自体に嘘さえなければそれでいい。
  
  冤罪のケース(CASE)をつくりうるから裁判が悪としたら
  極端な話なにをもって社会が裁けるかということになる。

  こんな感じで最初から結果を見越してしまうと、定言命法に
  いちいち制限をつけなくてはならなくなってしまい、
  「善意たる正しい動機」がこの世に存在しなくなる。

   ex.)
   「飢えている子供たちを助けたい。だから募金する」
    →だけど世の中には善意のお金で私腹を肥やすやつもいる

    じゃあ

   「飢えている子供たちを助けたい。だから募金する。
    でも何も考えずにやるのはダメだから調べる」
    →"マスゴミ"は嘘をつく

    じゃあ

   「(略)自分の目で調べる」
    →騙されるかもしれない

    (以下無限ループ)

   
  要は、はじめから結果を予測できても、
  それがいつもいつでもそうなると断言できない。
  よって結果から動機がよいもの・そうでないもので
  あったかどうかというのはなにもいえない。

  つらつら書いたけどつまり、

   善いことしたいと思ったこと自体が、ゆるぎない
   じゅうぶん善い動機だってことをカントさんが保証している

  ということ。


***


今ここにある自分、今ここにいない自分。

 ■カントの思想

  ・経験の対象としての自分
   →感性界におり、感覚から物事を知覚・理解する

  ・経験の主体としての自分
   →叡智界におり、知性から物事を知覚・理解する
    ここに自律と理性、そして自由がある

  いうなれば、前者は本能的・傾向的な部分。

   「腹が減った」という感覚 →「食べものを探す」
   「痛い」という感覚 →「苦痛を減らそうとする」
   「いい女だ」という感覚 →「うっひょう」

  広い意味で条件反射的になにかしらの反応するので
  そこに自由はない。
  
  仏教で言えば
 
   ・[欲界] 経験の対象としての自分
   ・[色界] 経験の主体としての自分

  と、そっくりあてはめることもできるし、
  禅や老荘思想なら

   ・[ここにいる自分] 経験の対象としての自分
   ・[ここにいない自分] 経験の主体としての自分

  にあてはめられる。
  禅かなにかのたとえ話に確かこんなのが。

   ・クマに追いかけられ、がけから落ちてしまった
   ・落ちる途中枝一本にひっかかり助かった
   ・そんな折、野いちごが生えているのを見つけた

  その人は

   ・枝が折れたら死ぬ
   ・奇跡的に這い上がっても食われて死ぬ

  という「悲惨な状況」でもいちごの味を楽しむことができた。

  この場合、「状況を知覚する自分」は同時に少なくとも2つあり

   ・死にそうなくらい危険な状況に直面
   ・死にそうなくらいうまいイチゴに直面

  を「感覚」として得ている。
  人間というのは感覚をすべて受け取るだけでなく、取捨選択して
  感じたり、それとまったく切り離された意識を持つことも
  可能であるとした。
  意識次第でそこにそのものがないかのように、またはあるかのように
  とらえることができる。

  また、山岡鉄舟がえらい坊さんを尋ねて

  「一切のものは空であることを知りました」

  と、悟ったことを披露したところ、坊さんに頭をゴチンと
  やられたもんだから鉄舟は怒り出した。
  すると坊さん、

  「一切が空なら、なぜ怒る」

  と、一蹴した。

  存在も感覚もすべて意識次第ならば、ここにいる鉄舟も
  いるけどいないこととできるし、殴られた感覚もあるけど
  ないこととすることもできる。
  
  人間は心持ち(感覚チャネルの選択はそのひとつ)次第で
  自由になれる。

  いつでもどこでも鳥になって空を飛ぶイメージさえすれば
  それは「自由」だ。どこへでもゆける。
  また、「心頭滅却すれば火もまた涼し」もこれに同じ。
  
  もういっちょ。

  同様に、冷蔵庫に冷えたコーラがあると知っているから
  のどが渇いたら「そのコーラ」を飲みたくなる。
  でも、確かにコーラはあるのにあることを知らなかったら、
  あるいは忘れていたら、

   「冷蔵庫の中のコーラを飲む」

  という選択肢は存在しないし、コーラ自体、その人の中では
  冷蔵庫の中に存在しない。その欲求が起こらない。

  その逆で、コーラなんてないのにあるものと思い込んでしまって
  冷蔵庫をあけるたびにガッカリすることもありうる。
  それは、「確かにあったもの」が一瞬にして「なくなる」。
  もともとなかったものを「喪失」する、人間のふしぎ。

  それはまるで、幸せそうな他人を見て

  「自分にも幸せがあるはずだ、ないはずがない」

  と、勝手に自分にありもしない幸せを期待するような。
  他者と比べたりするからないものがあるように思えたり
  あるものがないように思ったりして迷う。
  
  つまり、カントであれおしゃかさんであれキリストさんであれ
  老子荘子であれ

   人間というのは欲求のもとにある以上他律的であるが
   認識ひとつで自律的(自由)になれるし、そのスイッチは
   傾向性よりも優先度的に上のレイヤーにある
   
  ということ。

  また同時にふたつのレイヤーにまたがっているから
  人間は

  「していること」(流されている自分)
   と
  「なすべきこと」(流されないことを目指す自分)

  の間に隔たりがある。

  そういうわけで鉄舟だって人間だもんで、
  どうしても感覚は切り離すことはできない。
  痛みを感じるということは人間である以上避けられない。

  しかし、

   痛みを知覚した、だからそれに広い意味で反射的に反応する

  というのは他律的であって自由でない。

   痛みを知覚した。しかしここで自律的に考え行動することが
   真に自由である

  と考えることが大事であって、

   傾向性を俯瞰しているからこそ、感覚の世界にあるものすべてを
   「空である」とする見方ができる。

  この視点を真に得られていたら、反応することはなかったはず。
  これを広い意味でとらえると

   「やられたらやりかえせ」
   「目には目を、歯には歯を」

  というのは他律的だ。一方で

   「右の頬をぶたれたら、左の頬を向けなさい」

  とするのは自律的だと知ることができる。


 ■歌詞の属する世界

  「あれもしたいこれもしたいもっとしたいもっともっとしたい」
  「何かを探しに行こう」
  「ロマンスの神様願いをかなえて金持ちのイケメンがほしいの」

  というのは感性、言い換えれば「欲」に訴えかけている。
  もっとほしがろう!得よう!とするもの。

  一方で

  「君が変われば、世界も変わる。葉っぱ1枚あればいい」

  というのは叡智界、色界、理性、超自我etc
  いろいろ呼び名はあれどそういうのに呼びかけている。




 ■科学と道徳

  道徳がいわゆる「この世界」、言い換えるなら

   ・感性界

  にあるものを論理立てて説明できるものだから、それしかし得ない
  ものだから、それより上のレイヤーにある人の心の中の世界にある
  自由さと道徳の世界を解き明かすことはできない。


***

Lecture 2

カントの政治理論

 ■権利と契約

  土地の「権利書」ってのがある。
  土地を譲渡することなどに同意して「契約」を結び、
  それにより定まった「権利」関係を明記したもの。

  つまり、「権利」というのは「契約」でもって確定する。


 ■正義を生み出す法とそうでない法

  カントさん言うに、法(広い意味でルール)は、
  人が集まって決めるものと自然発生的に生まれるものの
  2種類あるとした。

  老人医療や司法修習生の給与廃止など、人によっちゃ
  「悪法」呼ばわりするようなルールがあったりする。

  国の財政が厳しいから切れそうなとこ切ったら人の生命が
  ないがしろにされてしまったり、司法制度が金持ち連中に
  牛耳られる恐れがでてきたとメディアは伝える。

  いろんな利害関係のある国民の代表が集まり協議した結果が
  これだもんで、つまるところ

   人が決めたルールは、力関係・利害関係によって
   結果どちらかに傾いたものになることが往々にしてある

  といえなくもない。
  その一方で。

  たとえば日本国憲法では、第3章「国民の権利及び義務」において
  国民の権利が定められている。
  これは基本的人権という名の人間の尊厳、ロックの言うところの
  自然権をより具体的に解釈し明文化したもの。

  これは法の下の平等を謳ったものであり、正義だ。
  このような正義に適う法をカントさんは

   理性の理念

  と呼んだ。
  これは、いろんな事情を持った人がワイワイ集まって導き出された
  "何かしら思惑の絡んだ"ルールなどではなく、人が人を尊重しあって
  得られた合意によって生まれた権利に関するルール。

  つまり、正義に適う法は、人が寄り集まって決められる
  性質のものではない。

  でもっておさらい。
  「権利」というのは「契約」でもって確定するわけだから、
  そこにはなにかしらの契約があったと考えられる。


 ■誰が誰と契約したよ。書面は?証拠は?

  なもんあらへんがな。

  というわけで、"実際に結ばれていない契約"、すなはち

   憲法の条文に載せる前からすでに存在していた契約

  である

   「仮説的契約」

  の道徳的効力とはなにかをロールズを通して考える。


***

ジョン・ロールズの仮説的合意

 ■ロールズの「正義論」

  ロールズは

   人間は不可侵であり、社会全体の福祉でさえこれを侵せない。
   これは、多数決などによって覆せるものでもないし、
   たとえ社会にとって利益を阻むものであってもかわらない。

  とし、また

   正義の原理は「仮説的な社会契約」より導かれ得る

  とした。


 ■「仮説的な社会契約」を「無知のベール」で説明

  たとえば。

  「新規プロジェクトにつき募集」で集まった新入社員ら。
  彼らは互いに素性を知らない。

  この状態は「無知のベール」が互いの間に存在する。
  互いに相手のことを知らない。

  この状態では相手の年齢や経歴、財産などのバックグラウンドが
  一切不明である以上

  ・下手にタメ口聞けない
  
  という接し方になる。

  相手を知っていくとまず、年齢が上なのか下なのかはっきりしてくる。
  これでタメ口聞いてもよさそうかどうかのラインを引くことになる。

  また一方で、その人に意見するだけ恥かくような「その道のベテラン」が
  いることが判明したり、ともすればお偉いさんの息子が紛れ込んでいる
  ことが判明することだってあるかもしれない。
  そいつに気を使うかどうかは別として。

  とにかくそれらを知る前。
  できあがったばかりの人の集まりイコール職場という名の「社会」

  において「掃除当番」だの「シフト決め」だのを行った場合、
  それぞれの意見を尊重して物事が決められる。

  一方で相手のことをわかっている状態になれば

  ・年齢
  ・知識や経験といった能力の差
  ・実はリーダー候補として入社した社員がいるという事実

  などなどが判明している以上、多かれ少なかれ、優位にある人に
  重きを置いた結果になる。

  このように、「無知のベール」は

   相手を尊重する

  という効能により、結果

   平等を保障する

  ものとなる。
  よって、「無知のベール」下で決められた物事・契約は
  そうでない状況下で決められたものと違って

   正義に根ざしたもの

  であると言える。
  これが「仮説的な契約」。
  
  反対に、契約の経緯において互いの力関係の影響が存在しうるもの、
  同様に実際の法制定プロセスにあるものを「現実的な契約」と呼んだ。

  ここでは、前者をより上の社会にまでもっと広げた概念で
  各々の義務と権利のありかたを考える。
  すると門戸や職業、年齢性別人種障がいの有無などなどもろとも
  すっとばして

   人が人同士尊重しあう、平等である状態

  が生まれてくることがわかる。
  この状態において合意されたことがら(仮説的な社会契約)のみが

   正義の原理

  であるたりえるとロールズさんは言う。


 ■現実の契約について

  「仮説的な契約」を掘り下げる前に。

  まず、そもそも契約の持つ道徳的な意味・効用を確認する。
  そのため、"実際に締結する契約"である「現実的な契約」を
  見ることにする。

  着目点は2つ。

   1.いかに拘束したり義務を負わせるか
   2.契約が生み出す条件をいかに正当化するか


 ■早速ながら

   2.契約が生み出す条件をいかに正当化するか

  について、
 
   契約それ自体は、条件を正当化しない

  と、カントさんもロールズさんも言う。
  悪徳商法や投資詐欺にひっかかって「契約」した老人らの契約内容は
  散々なもの。
  つまり、正義でないものは正当化のしようがない以上、契約自体に
  条件を正当化する力はないと言える。

  どんなに「契約は契約だ」と言っても、その契約条件について
  司法は悪徳業者の側に有利な判断を下さないはず。

  実際、「グレーゾーン金利」については過払い金請求が山のように
  行われ、"契約"内容のうち法定金利を超える部分は無効、つまり

   正義でない

  ものとなるから、それが過払い金を返す理由になっている。

  またこれは個人・法人間の契約のみならず、法にも言えることで
  奴隷制をみとめた法(=社会の契約)も正当なものとは決して言えない。

  以上のことから、

   同意の事実は、義務があることの十分条件ではない

  といえる。


 ■ではひとつめについてはどんなだ
  
   1.いかに拘束したり義務を負わせるか

  これについては着眼点が2つ。
  まずひとつめ。

   a.同意した契約は守らなくてはならないという自律
  
  契約というのは他者のために自らに義務を課す行為、
  つまり自律的な行為である側面がある。
  これを反故にするのは道徳的でない。
  だから義務を負う。

  まとめると、

   ・義務を義務たらしめているのは自分の理性

  といえることがわかる。
  そしてふたつめ。

   b.他者により便益を得る(た)のだから、相応のモノ・カネや
     労働を差し出さなくてはならない

  相手がボランティアであると了解していない限り、成果に対価を
  差し出さないのは搾取であり、一方的な主従関係になってしまう。
  これは正義ではない。人が他者の労働を所有している。

  よって、相互に平等であるためには「貸し借りなし」の状態に
  しておかなくてはならない。

  つまり契約というのは事前に

   ・なにをもって相互に「貸し借りなし」で取引を終えたといえるか

  という点を明らかにしておくための

   手段

  であるといえるし、極端な言い方をすれば

   契約は、手段でしかない

  といえる。
  以上のことから

   同意の有無とは関係なく、「貸し借りなし」にしなくてはならない
   という観点から相応の義務(いわゆる見返り)が発生することは確かだ
 

  といえる。
  さらにこれを言い換えると

   "実際に結ばれていない契約"であっても、義務は発生する

  ということになり、さっきの言葉に沿う文にすると

   同意の事実は、義務があることの十分条件でさえない

  となる。


 ■何で同意もなしに義務が発生するよ

  たとえば交通事故で電柱にぶつかり心肺停止の状態になる。

  その現場に居合わせた人が通報してくれて救急車で病院に
  搬送され、大掛かりな手術の後意識不明のまま引き続きICUで
  手当てを受けた。

  そして奇跡的に回復して退院する時には大きな額の手術費用と入院費用。

  しかし事故の当事者は手当ても入院も同意していなかった

  それでも多額の人件費・薬代・食事代にベッドいろいろに関する
  支払い義務はないと言えるだろうか。

  もちろん、望んでもいないのに、事故の当事者が大金持ちであることを
  見越して

   ・これといった必要もないのに保険適用外の処置を乱発

  していたなら、その部分については支払う義務はないけど。


 ■何をもって同意なしの義務が発生するか

  平等な人々の間の仮説的契約、つまり、

   ・当然それがなされるべきである
    死にかけの状態では、放っておくのではなく
    救命措置をおこなうことが誰の目から見ても当然である

    ⇒前出の[自律]に即したもの。

   ・誰も一方的に不利益を被らない条件の契約
    救命措置にかかる対価について、誰でも納得できる
    程度のものが請求されること

    ⇒前述の「貸し借りなし」、イコール[相互性]に
     即したもの。

  でのみ契約の同意がなくともそれに伴う義務が発生する。
  だから、上記の例で言えば義務は存在するといえる。

2010年8月14日土曜日

第06回 「動機と結果 どちらが大切?」

Lecture 1

イマヌエル・カントの道徳

 ■個人の尊厳

  カントは、すべての個人には尊厳があるとした。
  その根拠はつぎの二つ。

  ・「理性的に物事を解決することもできる」存在である
   いつもいつでも理性的に処理するわけではない、しかし
   まったくできないわけでもない。

  ・自律した(autonomous)存在である
   後述。

  
 ■人間を支配するもの

  功利主義のベンサムは、苦痛と快楽が人の最高の支配者だとした。
  しかし、カントはこれを否定。
  人間のもつ理性が人を人たらしめるものであって、苦痛を避け
  快楽を求めるだけの「理性のない」けものとは一線を画す
  存在であるとした。


 ■自由とは

  人は普通、「自由」であることを次のように考える

  行為であれば
  ・望むことができる

  モノであれば
  ・いつでも入手可能である、障害がない

  しかしカントが次のように考える。

  ・自分自身で与える法則にしたがって行動すること。
   イコール、「自律的」であること。


 ■どゆこっちゃ

  人が快楽を求めたり苦痛を避けるとき、
  本当に「自由」に行動しているとはいえないとする考え。

  なぜなら、我々は欲望や衝動の奴隷として行動しているから。

  お昼時にはエッチなことでなくゴハンがほしくなるし
  寝不足のときにはエッチすることでなく眠ることを欲す。

  我々は欲求を選べないし、一方で欲求は"その必要あって"
  都度注文をつけてくる。
  しかもそれはなまじ人を動かす力がある。

  これは「自由」ではない。

  そしてこの時点で
  「自由」と「必要」は相容れないものになる。

  ex.)
   たとえば苦痛を避けるとき。

   すごくひどい頭痛・歯痛・生理痛に苛まれている!
   一秒でも早くとめたい!
   どうする!?

   さらに。
   たとえばその対処法として「必要な」薬を買って飲むとき

   ・速く効く!ダブルブロック処方のナロンエース(大正製薬)
   ・タブンキクカモーネ頭痛薬(本間貝名ファーマ)
   ・新三共胃腸薬(第一三共)

   どれを買って飲むだろう。

  このように、人間は欲求という、意識の「外」から命令を受けて
  行動が制限され、さらに、「外」から刷り込まれたイメージで
  モノ選択することが多い。

  そういうわけで一見「自由に」行為やモノを選んでいるようで、
  案外そうでもない。

  このような、自分自身で選んだわけでない欲望、広い意味で
  外からの刺激に従って行動しているものについて
  カントはこれを「他律(heteronomy)」とした。

  
 ■他律とは

  落ちてゆくボールは、自分の意思で落ちてない。
  これは「他律」であり、"自分でない"、ここでは重力という
  自然の規"律"に従ってボールは動作している。

  これは自由ではない。
  

 ■真に自由であることとは

  人が本能、ないし本能によって生み出された欲求・衝動に
  従って行動するとき、外から与えられた目的を実現する

   手段(means)

  として

   行動(act)

  する。

  欲求に従っておこなう我々のひとつひとつの行動はすべて、
  欲求から命令を受けたものによるところのもの。

  欲求はなんとかしろと「命令」しても、具体的にどうしろとは
  「指示」しない。

  このとき人は、命令に従って行動を考えて動く。
  考えて動いてる分、自分で目標立てて動いてる気になってるけど
  それは欲求にとって目的達成のための手段でしかない。
  言い換えると、人間は往々にして

   目的の設定者ではない。

  また、"手段"として

   利用される存在である。

  そこに自身の意思はなく、"自分でない"、欲求の律に従っている。

  いうなれば、人間という生き物は欲求という坂道の上に立っており
  気を抜くと"自然法則"によって坂下へ転がってゆく。
  カントはこのさまを「傾向性」と呼んだ。


 ■人とボールの違いは

  ボールは坂道があれば転がるだけで、自身でストップしたり
  向きを変えるとかすることはできない。
  自分で行動の根拠となる目的そのものを設定できない。
  でも人間はちがう。

  人間とボール、また、人間とけもののあいだには
  自分自身で与える法則(自分を律すること)にしたがって
  行動する能力の有無が横たわっている。

  これが、けものやモノなどと違って、人が人を尊重すべき
  根拠となっている。

  だから欲求や他者の言いなりにならず、自分自身が
  自分自身に目的を持たせ、行動の号令を出すことこそが
  本当の自由であるといえる。

  功利主義は「最大多数の最大効用」の名の下に他者を
  「利用」するから間違っているとカントは言う。

  また、功利主義者のジョン・スチュアート・ミルが言った

   「正義を守り、人の尊厳を尊重すれば
    人間の幸福を最大化できる」

  というフレーズについては

   「間違った理由で人の尊厳を尊重している」

  と、切り捨てた。
  その理由は

   「人を尊重するために尊重するのではなく、
    幸福を最大化するという目的の手段として
    人を尊重することが間違っている」

  というもの。
  目的と手段が一致していないことが気に入らないとのこと。


 ■なにが自律的な、道徳的に価値ある目的・行動であるか

  ひとことで言えば、

   「動機」

  が肝心。
  欲求に由来しない、ややこしい言い方をすると

   「正しい目的のために正しい行いをする」

  こと。ひらたくいってたとえば

   「正しいことをしなくちゃいけない」

  というこころが目的となり、その「しなくてはならない」という
  "義務"が道徳的価値を与える唯一の動機となる。
  
  
 ■道徳性の有無

  「正しいことをしなくてはならない」だから正しいことをする
  「人の助けにならなくてはいけない」だから人を助ける
  「悪いことをしてはいけない」だから悪いことをしない

  などなど、"義務"である目的を達成するための行動は
  目的に道徳性の根源があるけど

  「ほめられたい」だから正しいことをする
  「自分も助けられたい」だから人を助ける
  「捕まりたくない」だから悪いことをしない

  といった"欲求"、つまり行動とイコールでない動機は
  道徳性の根源とはならない。

   ex.)つり銭をごまかさない理由

    買い物に不慣れな客がいて、つり銭をごまかしても
    その場では絶対バレないと店主は踏んだ。
    しかし店主、ここで思いとどまる。

    「あの店はつり銭をごまかすといううわさが立ったら
     店の評判に傷がつく。やっぱやめとこ」

    これは道徳的な思考プロセスかってーと、そうでない。

    結果として

     つり銭をごまかさない、善いおこない

    になっただけで、ハナから

     善いおこないをおこなうから、客にも誠実である

    という姿勢で臨んだわけではない。

     善いおこないをするという目的のために
     よいおこないを実行する
    
    という目的・行動のセットではないから
    道徳的に価値あるものではない。
 

 ■もうそろそろいいだろ

  ここでカントが言いたいことはわかるが、
  はっきり言ってまわりくどくてめんどくさい。

  これは仏教の考えで解くと一発だ。

  欲求というのは「自分の欲する求め」であって、
  人は他人の欲求のためにごく自然に動くことはない。

  つまり、欲求というのは自利を求めるこころであって、
  すなわち我愛だ。
  メリットの帰着先は自分。

  また、傾向性というのは渇愛であり、キリスト教なら原罪だ。

  一方で義務というのはここでは欲求でないものすべてを指す。
  イコール、メリットの帰着先が自分でないもの。
  これは我愛に対する他者愛、つまり慈悲だ。

  ここでさっきのフレーズをもってきてくっつけてみる。

  「慈悲のほどこしを行うため、他人を利用する」

  これはおかしい。
  慈悲は完全な自己犠牲であるのに、その提供元に他者がいるのは
  その行為が成り立たない。

  また、善い行為をおこなうにはインセンティブが必要であると
  カントさんは言う。
  このあたり、キリスト教では天国行きチケットを用意してたり
  仏教では「徳」という概念を用意している。
  他人のメリットが自分のメリットになるよというもの。

  ただしその、"自分のメリット"というのは今この世で生きてる
  自分そのものが目に見えるモノなどで受益するわけでない
  というあたり、厳密には自身が享受するメリットではない。

  その本当にあるかどうかわからないあの世思想や徳といった
  概念をみとめるには、その道徳観念(時に神仏)に対する
  「信仰・敬意」が必要になる。

  このあたり、神仏という具体的な宗教くさいものでなくとも、
  日本人なら「お天道様に恥じない生き方」という概念がある。
  この概念を理解し、善いおこないをすることの意義を
  自分のものにできればずっと道徳に近づく。


 ■話戻って善意の動機

  「動機はただそれだけで善いものであって、
   その結果は関係ない。
   また、結果が善いものだからといって
   動機が善いものになるわけでもない」

  とカントさんは言う。

  もう4年も前になるけど、mixiで大規模なチェーン日記が発生した
  このとき、このチェーン日記にちょっと待ったをかけたコミュが
  立ち上げられたのだけど、コミュニティの紹介文に

  「善意が善意であり続けることができなくなった」

  というくだりがあった。

  それを読んだ自分はこの記述に違和感を覚え、それを日記に書いた。
  ごていねいにコミュの管理人さんからレスもあった。

  余談ながらそのときの考えを書くと、自分はまず法律用語の
  「悪意」をイメージした。善意の反意語として。

  ざっくり言えば、「悪意」は「こんな結果になると知っててする」
  くらいの意味。

  しかしチェーン日記の書き手は「よかれと思って」やってるのだから
  そこに「悪意」はない。(よほどひねくれた人でない限り)
 
  つまり、善意はどこまでも善意なのであって、善意でなくなるという
  ことはないはずで、善意そのものに結果は関係ない。
  善意が善意でなくなることはないけど、善意で迷惑なことが
  起きることは往々にしてあるよね、という表現をしてほしかった
  というお話。

  善意が善意でなくなったのはグッドウィルグループくらいなもんだ。


 ■人の数だけ正しさがある?

  教えられてきたものや信じるものは人それぞれ。
  ならば傾向性を断ち切る道徳のトリガーも人の数だけ
  ちがうかたちをしているか?

  これに対する問いに、カントさんは次の言葉で
  そのこたえは「1つ」とした。

   「自律的な存在として自分に法則を与えるとき
    そこへ導く理性はひとつである」

  法則いろいろあれど、道徳へと導くトリガーはただひとつ、
  それは
  
   理性

  であり、理性はすべての人間でおなじかたちをしているとした。
  これは知識や経験にとらわれない、なによりも先立つもの。
  これを

   「純粋実践理性」

  とカントさんは名づけた。


***


Lecture 2

イマヌエル・カントの道徳 Part2

 ■著作「人倫の形而上学の基礎づけ」であらわしたもの

  ・道徳性の最高原理はなにか
  ・どうすれば自由が可能になるのか

 
 ■カントの3つの対比

  [i 道徳性:動機]
  
  【義務と傾向性】  

   Spelling Bee(スペリングコンテスト)の決勝戦で
   審判がミスを見逃してしまったために勝利を手に入れた少年がいた。
   そのとき少年は自ら審判のミスを申告し、勝ちを返上した。

   彼はその動機について
   「自分をいやなやつだと思いたくなかったから」
   と言った。

   これは道徳的な動機か?

  自分のことを「いやなやつ」と思うということは、
  その自分が不誠実であることを知っている。

  言い換えれば、「正しいおこないをしなかった」ことを
  みとめるには「本来なすべきであったこと」もまた
  知っていなくてはならない。

  つまり、この行為の源泉は

  「本来なすべきこと」をすることが「当たり前」であって
  それを行わないことは「不義」である

  という認識にもとづいていて、

   「仮に善いこと(義務の遂行)をした自分」と
   「仮に不義(傾向性に従うこと)を行った自分」を

  見つめた結果のもの。
  どういうことかというと

   傾向性に対するメタな視点がそこに確かにある

  ということ。

  傾向性の中にいる人は傾向性の中にいることがわからない。
  自律的でないから、動かされていることさえ気づかないから。

   答えやすべきことが傾向性によるひとつのものしかないから。

  答えはひとつだとか、信じる道を行けとか言うロックンロールは
  もしかすると自分で決めているようで実は他律かもしれない。

  しかし自律はそうでない。
  いろんな答えをみつめることができる。と同時に

   どれが正しいことであるかを知っている

  という、価値基準を超越した、価値基準の優劣さえも
  判断して決めることができる選択能力が備わっている。


  [ii 自由:意思の決定]

  【自律と他律】

  自由というのは自律的であるときのみだとカントは言った。
  これはさきにあったとおり。

  では、他者からのおしつけ、果ては自分自身の欲求から
  指図を受けずに自分が自分自身に目的を持たせ、そのルールに
  のっとって行動する源泉はどこにあるか。

  やっぱりそれは

   理性

  だ。

  理性は人の意思をつくるものであり、前述の言葉で言うなら

   状況から判断するのではなく、そもそもなにが正しい、
   なにが従うべき義務であるかを知っている、
   価値基準を超越した、価値基準の優劣さえも
   決めることができる選択能力

  のことを指す。


  [iii 理性:命法]

  【定言命法と仮言命法】

  理性は2種類の命令を出すとカントさんは言う。
  命法とは、その理性が命じる、従わなくてはならない命令のことで

  「目的Xを達成するため、行為Yをしろ」

  という命令において存在するのは次の2種類。

  ・定言命法

   目的Xが善いことで、行為Yがそれに沿った善いことであれば
   その命法は定言的といえる。

    ex.)
    「行方不明の人を一刻も早く救いたい。
     だから日記で知人にも知らせる」
    「救える命を救いたい、だから募金する」
    「世界が平和になってほしい、だから祈る」

  ・仮言命法

   ここで行為Yが善いことで、目的Xが善いことでなければ
   その命法は仮言的といえる。
   つまり、仮言命法はXとYが一致しないもの。
   いわゆる「偽善」を内包するもの。

   ex.)
    「情報を錯綜させて混乱させたい。
     だから日記で知人にも知らせる」
    「誰かに褒められたい、だから募金する」
    「祈ってる姿を見てほしい、だから祈る。
     広場でラッパ吹きながら」

  ちなみに、

  「なんか広めてって書いてあるから、とりあえず自分の日記に書く」

  という動機と行為は、理性というよりは自律/他律の問題。
  このあたりのネットリテラシー(時に情報リテラシーを含む)は
  鵜呑みにするとか無条件に従うなどといったあたりが自律的で
  ないことが問題になる。


 ■定言命法について掘り下げる3つの定式(ここでは2つ)

  定言命法は次のようにあるべきで、そうでないものは
  定言命法とは呼べず、仮言的であるといえる。


  [i 普遍的法則の定式]

  カントさん曰く。

  「同時に普遍的法則となることを
   意思しうるような格率に従ってのみ行為せよ」

  まずこれなんのこっちゃだもんで平易な言葉に書き換える。

  「お前さんのルールや常識が"俺ルール"や
   "俺常識"でないか注意しろ」

  ひらたくいえば

   ジャイアニズムの否定だ。
  
  ジャイアンの言う

   「(永遠に)借りてるだけだ」

  は、普遍的な概念で言えば

   「借りパク」

  であり、より普遍的な概念で言えば

   「接収・取り上げ・完全なる所有・盗み」

  だ。

  このように、ジャイアンの格率(俺ルール・俺常識・俺原理)は
  普遍的法則(一般的なルール・常識・原理)に照らし合わせると
  合致しない。

  みんなは「返してもらう」前提で「貸す」のであって、
  期日あるいは要請によっても返却が行われない行為を「借りる」と
  呼ぶことは決してない。それには別の言葉がちゃんと存在する。

  つまり、普遍化してみてそれが合致するかどうかで
  その格率が「正しい」かどうかがわかる。

  普遍化という作業は、その格率が普遍的法則に比べてなにかしらの
  特例・特権などなどの優位性をもってやしないかあぶり出すためのもの。
  そこに差異がある場合、それは欲求による「貪り」の部分であって
  欲求は

   傾向性

  の産物であるから自律的でないと言える。
  つまり、

   「客を馬鹿にしているのか!店長出て来い!説教してやる」

  というクレーマーについて、それがもし

   「俺を馬鹿にしているのか!店長出て来い!俺に誠意見せろ!」

  という意味だとしたらそれは

   「他の客が迷惑するのを防ぐ」

  ことではなく

   「気分を害した俺がすっきりしたい、あわよくばゴネて
    なんか貰いたい。得したい」

  という、他者のことなんかどうでもいい、自分の欲求を
  満たそうとする傾向性が前面に出たものでしかなく、

   「俺が得するため、正義の鉄槌を下す」

  というif~thenがつながってない仮言的命法が姿をあらわす。


  [ii 目的としての人間性の定式]

  カントさん曰く。

  「君の人格にも、ほかのすべての人の人格にもある人間性を
   単に手段としてのみならず、常に同時に目的として
   扱うように行為せよ」

  これもなんのこっちゃなのでかみくだく。

  「それは誰のためにやってるのかよくよく注意しろ」

  さきのクレーマーの例でいえば、説教ぶーたれるのは

   ・他の客も迷惑しない(利益を損ねない)ようにするため
   ・店が怒られないようにする、根本的な改善という
    観点で言えば、店の質をあげることで店の利益に寄与する

  ことが本来のスタンスのはずなんだけど、そもそもの動機が

   ・迷惑被ったということをタテにして、いじめてすっきりしたい
   ・なんかくれ

  だったらそこにあるメリットの帰着先は自分でしかなく、
  そのとき店・店員はただの「利益を得るという欲求の達成」という
  目的のための

   手段

  でしかなく、店の利益となるよう、店の質を高めることに
  寄与するという、行為の目的にその他者があるようにすることを
  忘れている。これもまた

   傾向性

  の産物でしかない。なので目的を明らかにした結果ここでも

   「俺が得するため、正義の鉄槌を下す」

  というif~thenがつながってない仮言的命法が姿をあらわす。

  そういうわけで、表現の自由という公共の福祉のためじゃなくて
  自分の趣味のために児童ポルノ規制に反対するとか、敵の敵は味方
  という理屈で自分のナショナリズムを満足させたいから
  フリーチベットとか叫ぶのは仮言的であるため他律的で自由がない。


***


 ■ここでひとつの疑問

   ・コンビニで買い物をするとき、
    「商品を得るため」に「店員」という他者を手段として
     利用している。

   ・レポートを書くとき、
    「単位を取るため」に「自分」さえ手段として利用している。

   これは他律的でないか?


  こたえ。

   かさねがさね、動機が肝心。

  言葉遊びのようだけど、目的と「利用」の意味がちと違う。

  レジで店員にチェックしてもらう行為は

   盗んではいけない、誠実であるべき

  という義務を遂行するためのもの。手段と目的が合致している。
  これは定言命法に沿っている。

  これと対比するものは、

   他の仲間が盗むのを手伝うため、店員の目をひくために
   レジで精算してもらう
  
  といった行為であり、これは定言命法に沿っておらず
  店員を「利用」している。
  同様に、単位を取得するためにリポートを書く行為は

   勤勉であるべき、期日を守るべき、師を敬うべき

  などなどの義務の履行が直接の動機にある。
  これが代筆のように金が目当てだったりした場合は
  リポートを書く動機が義務の履行という善いことでなく、
  金がほしいという欲求になる。

  どちらのケースにせよ、他者の尊厳を尊重すること、
  そしてそれによる義務を履行する気持ちの有無で定言命法に
  沿うものになるか、あるいは「利用」に成り下がるかどうかが
  決まる。


このテーマは次回につづくらしい。

第05回 「お金で買えるもの 買えないもの」

Lecture 1

自然権と政府のおさらい

 ■政府と個人

  自身の自然権を社会と共有することで
  価値基準・行動基準は政府にあることに同意した

  イコール

  政府の定めるルールにおいて、過半数の同意するものに
  従うことに同意した、

  社会のメンバーらはそれに従い、過半数の同意によって成立した

  ・課税
  ・弱者の救済
  ・徴兵制
  ・シートベルト着用

  などなどを受け入れた。

  ここで重要なのは

  政治的権威あるいは軍事的権威が
  恣意的に権力を行使しないこと

  だとロックさんは言う。
  つまり、

  多数派の合意なしでは、なにかしら権力の行使者は
  それについて何の権力を持たない

  ということになる。
  
  よって軍規にのっとり、上官が命がけの突撃命令を出しても
  それに従わなくてはならないし、それに反すると裁かれる。

  (余談ここから)
  自衛隊は「軍隊」でないからか、自衛隊法(?)に反した
  人間を「現行犯逮捕」する形で拘束することはあっても、
  その場で「処罰」されることはないんじゃないかしら。
  (余談ここまで)
  
  その一方で、上官がお前の財布の中身よこせと言ったところで
  それは根拠がないものだから1円たりともせしめることはできない。

  過半数の同意に基づく「やってもいいことリスト」にないものは、
  一切できないからだ。

  よって、仕事の指揮権がある上司だからといって
  女子社員のおしりをさわっていいわけではないし、
  教授だからといってセクハラやパワハラをしていいという
  ことはまったくない。
  

南北戦争にみる基本的人権

 ■徴兵制と市場方式のハイブリッド

   南北戦争当時、北軍は兵士調達の手段としてに徴兵制を導入していた。
   だが、これは自分の代わりに雇うなりした他者を差し出しても
   かまわないというものだった。

   これは正義か?

  まず徴兵制ってなんだってーと、これは
  (過半数の同意を得て導入される)ランダムで人を選び、
  その人を強制的に戦場へつれてゆくシステム。

  よって、公平な「くじびき」の導入を決定した時点で
  これに参加し、また同時に呼び出しに応じる義務を負う。
  
  ここでいったん徴兵制から離れて、
  罰ゲームつきの「くじびき」のケースを考える。

  仮に「くじびき」で負けたとする。
  そのとき罰ゲームを受ける必要があるも、このときほかの
  参加者を買収してかわりに罰ゲームを受けてもらうことにしたら、
  ゲームに負けた人は罰を受けずに済む。

  普通は「身がわり」という「空気読めなさ杉」なんてこと
  許されないけど。
  王様ゲームでマジ嫌がりしてドン引きみたいな。

  さて。
  この場合、この「くじびき」に負けた人はそもそも、
  このくじびきに参加した意味はあっただろうか。

  この「くじびき」で100回負けたとして、この参加者が
  100回とも罰ゲームを受けなかったとしたら、なんのための
  罰ゲームなのか。

  言い換えれば、結果から言って

   その人はお金を払ったことで
   最初からゲームに参加していなかったも同然

  ということがいえる。
  罰ゲームの抜け道がルールに組み込まれていたなら

   お金を支払えば、罰ゲームなしでそのゲームに参加できる
   
  ともいえる。ただの傍観者。
  場合によっちゃ利益だけ享受する存在。
  これを徴兵制にあてはめると

   お金を払ったことで最初から徴兵制に参加していなかった

  といえる。
  このままでは日本語がおかしいので言い換えると

   お金を払える人だけ徴兵制を免れることができるシステム

  とあらわすことができる。
  言い換えると、

   貧しい人間らだけを対象とした新たな義務を発生させる

  ことになり、ともすると

   金持ち連中は戦場へ行かなくてもよい。
   貧乏人だけが戦場へゆくのだから、たとえ金持ち連中の都合で
   戦争をおっぱじめても痛くも痒くもない。

  という理不尽な世の中が出来上がる。
  これを自然権の原則に照らし合わせると

   金のあるものが一方的に、
   金のない者の自由と、そして時に生命を奪う

  ことになる。
  これはたとえ「過半数の同意」があったとしても無効だ。
  なぜなら

   他者の自然権を奪うことも、自分の自然権を
   自ら手放すこともできない

  からだ。

  よってこれは正義ではない。


***


Lecture 2

人の生命は売買の対象になるか

 ■"Baby M"訴訟

   生物学上の母から子を譲り受けること

   ・100万ドルの報酬と経費をすべて負担する形で
    卵子提供を含む代理母をお願いした
   ・しかしその代理母、出産後赤子に情がわいて引渡しを拒否
   ・決着は法廷へ。
    最高裁の判断は精子を提供した父に養育権を、代理母に
    面会権をそれぞれ与えるものだった。

   このときの正義は?

  これを自然権に照らし合わせてみる。

  自然権は

   他者の生命・財産・自由についての権利を奪うこと
   自分の生命・財産・自由についての権利を放棄すること

  をみとめない。
  社会における自然権は

   "自分"を所有するのは自分である
   
  と同時に

   "自分"を所有するのは社会である

  という位置づけ。
  よって、自分という人間を金品と引き換えに売り出す行為は

   社会が許可した範囲で(1)
  
  かつ、

   自分の意思によって(2)

  行われる必要がある。
  たとえば

   (1) 労基法を満たすお仕事における
   (2) 職業選択の自由アハハン

  言い換えると、

   社会、それ以前に自然権が奴隷を認めていない

  以上、自分を金に換える方法は、

   自身の自由を労働という形で切り売りすること

  以外に認められたものは少ない。
  ("肖像権"という財産を金という財産に換えるとか)

  また、もう一度自分を所有するのは自分であるというところに
  立ち返ると

   自分の自由や財産を切り売りした受益者は自分である

  必要がある。
  おかげで奴隷を禁じる根拠がダブルになる。

  だから

   奴隷や子といった他者であれ、はたまた自分自身であれ、
   "売って"利益を得るのは正義ではない

  といえる。一方で

   社会は養子縁組を認めている。

  これは子そのものにかかる金銭の授受がないことや
  子の自由を制限するものではないとしているから
  社会として制限するものではないというスタンス。

  ただしそれが正しく行われているかを判断するために
  手続きに社会システムの関与を強制していて、それが
  家庭裁判所の許可の有無になる。
  
  話戻って。
  このケースで司法は、代理母と精子提供者である依頼人との間に
  この子がいわば「あたりまえ」に生まれたものとした。
  同時に、悪い言い方をするところの「人身売買契約」は
  無効であるとした。

  じゃあどうやってこの件を処理するかねとなると、離婚訴訟に
  あるよな通常の親権者決めプロセスですすめた。

  結果、親権は裁判所の判断で父親側のものとなった。
  このあたりの理由は経済的な状況などいろいろな環境・要因に
  よる「あたりまえ」の判断。
  "両親"は対等だから特別男親・女親に加味するところはないはず。

  つまり、この依頼者[夫]はもともと"父親"たる資格があったが
  親権でもめてた、結婚しないうちから子供ができてたみたいな。

  「未婚の父」「未婚の母」間で親権を争うという、ちょっと
  レアだけど世の中になくもないものとして処理しましたという
  エンディング。
  処理する上で子そのものにかかる金銭はないものとして
  この争いをおさめましたよというお話。


 ■卵子・精子ビジネスと代理母ビジネスの違い

  卵はヒトではない。人権が存在しない。
  精子はヒトではない。人権が存在しない。

  どちらもカツラのために売りに出された髪の毛程度のもの。

  しかし子はヒトだ。人権が存在する。
  これは売買の対象となってはいけない。

  ところで胎児が人として扱われるなら、
  受精卵も同様という考え方はできなくもない。

  ならば、体外で受精した時点で人間という生命が誕生し、
  同時に卵と精子から両親が確定する。
  この時点で代理母の存在はまったく関係ない。
  親権に絡む余地が無い。

  そして受精卵を代理母に「預ける」ことは、そこで金が動いても
  「売る」わけではない。
  現在の科学で子宮とまったく同じ機能を過不足無く提供するものが
  ない以上たのむほかないし、それに対する労力に対して支払うもの。

  ここで紛争があったとしても、極端なたとえをすれば保育所に
  預けたら保母さんが子供を返してくれないようなものになるので
  子どもそのものに関する金銭取引はない。

  つまり、卵子提供を含む代理母契約における問題点は
  "母親"たる資格の余地がある卵子提供というものにあって
  直接的には産むという行為とは親権について関連性を持たない。
  保母さんが別れた女房でこの子の母親、みたいな話なら
  話はこじれて当然。

  また一方で卵子・精子の提供においてはハナから「子を望む側」に
  子どもがおかれているし、提供する側も情がわくかと言われれば
  なかなか難しいところであるので一見問題はなさそう。

  しかしベビーM訴訟に同じく、精子あるいは卵子の提供を行っている
  以上、親権の主張ができる余地がまったくないわけではないあたりが
  リスクといえばリスク。
  ただ、ここには「子の引き渡し」条項がないからやはり、
  子ども(人間)の売買とは無縁。

  よって

  ・卵子提供を含む代理母ビジネス

  と

  ・卵子提供を含まない代理母ビジネス
  ・精子・卵子ビジネス

  は違う。
  
  前者においては、なにかしらの方法による契約で
  卵子提供と代理母の役割を明確に分けるとか、
  あるいは卵子提供と代理母の役割をそれぞれ別の人間に
  求めるなどして後者の形にしないと問題は解決しない。


 ■それでも残る違和感の正体

  出生の過程では"父親"が確かに存在するのに、家庭の構図に
  父親がいない、父としての役割を為す者がいないという中途半端さ。
  あるいはその逆で"実の"女親のいない半端な状態。
  
  つまり、世間があたりまえに考える「家庭」というものが
  生まれた時点から"成立してない、どっか欠けている"ところが
  妙ちきりんであるところが正体のひとつ。

  しかし世の中が進化(聞こえのいい言葉で成熟)した結果、
  悪く言えば無縁社会となったこの世の中ですから
  核家族はおろかシングルマザーや独居老人は当たり前になり
  いろんな形の生き方、いろんな形の家庭ができあがった。
  
  ならば、ハナから父親母親のいない家庭があったって
  いいじゃないかという意見もありそう。
  もっと言えばゲイ・レズビアンカップルが"家庭を持つ権利"とか。

  しかし、父親と母親がいてはじめて子供がうまれる、
  言い換えれば父親と母親の「愛情の証」としての「子」が
  「愛情なくして」存在する、誕生することはこれまた
  従来の価値観ではミョーちきりん。

  そこんとこはどうなのさってーと、ロックの自然権は

  ・自由
  ・財産
  ・生命

  さえ侵してなければよい、言い換えればそれしか言及していない以上
  ここではこれ以上のことは処理できない。

  片親だろうが両親だろうがいなくてもそれ自体が自由財産生命を
  なんら奪うものではないからだ。

  あとは国ごとに制度が違うよう、それぞれの社会における
  過半数がどういう価値観を持っているかによる。
  
  お国違えばなんとやらで、たとえばインドでは代理母が肯定的に
  とられてさえいて、おかげでビジネスがなりたっている。

  インドで急拡大する医療市場 注目は代理母出産ビジネス
  http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20061117/113920/

  ここで背景にあるのは宗教上の道徳的価値観だもんで
  出産そのものが「徳を積む」ことであるとされている。
  だから自分の子だろうが他所の子だろうが産むことには比較的
  抵抗がないとな。

  なんにせよ、生命自由財産を定義するのは政府であり、
  それは過半数の同意によるものだから、単純にいい悪いで
  片付けられそうにない。

2010年8月5日木曜日

第04回 「この土地は誰のもの?」

Lecture 1

ジョン・ロックの「自然権」

 ■自然権とは

  生命・財産・自由について自己所有を認める権利が存在し、
  それはたとえ民主的な政府でさえも不可侵とするもの。
 
  それら権利は政府や法によって付与されるものでなく
  「自然状態」でも存在するから「自然権」。


 ■自然状態とは

  何者もほかの何者を一切支配しない状態。
  みなが文字通り「自由」である状態。
  よって身分の違いもない。

  ジョン・ロックは、その状態でさえ「好き勝手に行動できない」
  制約が存在するとした。

  その制約となるものが、この「自然状態」でも存在する「自然法」。

 
 ■自然法とは

  自然法は、次をみとめない。

  ・自分の自然権を自ら手放すこと
  ・他者の自然権をとりあげること
 
  よって、自然状態においては生命・財産・自由を手放すことも
  できないし、他人から奪うこともできない。

 
 ■自然法はどこから

  自由はあるけど、自由を手放す自由はないという、
  なんかややこしい理屈はなぜ存在するかというと、

  自分は自分の所有物でない

  とする考えがあるからだ。


 ■自然法はどこから Take2

  人間は、文字通り理性が支配している。

  だから、理性に従うかぎり、自分の自由を手放したりもしないし
  自分で自分の生命を手放したりもしない。

  また、手持ちの財産をなんらかのメリットと交換なしに手放す
  こともなければ、他者の財産を奪うこともない。理性がある限り。
  「捨てる」というのは財産でないとみなすものだから関係ない。

  自分の理性が自分の意思・行動を制限している。
  いうなれば、自分に不利な選択をせず、自分の利益となる
  ものについて選択・行動する。

  このことから、理性という名の自然法のもとで
  自分は自分に不利な選択をする「自由」はないと言える。

  もちろん、一時的に不利になる選択はすることもある。
  しかしそれは長期的な利を求めるものだ。
  宗教なら金品とひきかえに「徳」を積む行為さえする。

  よって、自分は自分自身を所有しているわけではない。
  あえていうなら、自分を所有しているのは「理性」だ。

  同様に、理性は他者の理性を重んじる。
  さもないとこちらの理性も重んじられないから。
 

 ■自然権は譲渡不可能である

  理性を「自ら捨てる」ということはそうそう不可能だ。
  考え・意思・意識がある以上、理性は付随しているから。
  理性を捨てること自体を理性は拒む。

  同じように、他者の理性は完全に取り上げっこないし、
  他者の理性を奪うこともまた理性は拒む。

  くりかえすけど、本当の意味で人間をコントロール(所有)し、
  人間を人間たらしめているのは「理性」だ。
  一方で、人間は自身の理性をなにかしらの形で
  コントロールすることはできない。

  また、「その人の理性」の命令によって「その人」が
  取得したものは厳密には「その人」のものではなく、
  「その人の理性」のものといえる。


 ■結局誰のものよ

  「わたし」は「理性」に暗に操られているも、外からは
   理性などというものは目に見えるわけでもないので
  「理性」の所有しているものは「わたし」のものである、
  とみなせる。

  しかし、「わたし」の自由に処分することはできない。

  つまり、

  ・所有権は「わたし」にあると見做すことができる
  ・処分権は「わたし」にはなく、「わたしの理性」にある 

  ということ。


 ■ここまでのまとめ

  人間にはレイヤーが3つある。
  それぞれ上のものが下のもの所有・コントロールしている。

  A「理性」
   ↓
  B「意識・思考・いわゆる自分」
   ↓
  C「身体」


 ■財産について
  
  自分の身体(C)を所有しているのは自分(B)である。
  また、自分(B)以外に自分の身体(C)について権利を
  持たない。
  よって、身体(C)の行為による利益は自分(B)のもの。
  
  図であらわすとここでレイヤーがひとつふえる。

  A「理性」
   ↓
  B「意識・思考・いわゆる自分」
   ↓
  C「身体」
   ↓
  D「財産」「労働」

  労働は「財産の一種」であって、誰のものでもないものに
  労働という「つばつけ」を行うと自分のもの(=財産)になる。

  また、耕し、収穫するのに用いている土地はその人のものとなる。
  耕作をやめ、土地が荒れたらそれの所有権は消滅し、自然に帰る。
  その人の労働が所有権の根拠(つばつけ)となる。


 ■これには但し書きがある

  「他者のために 同じようによいものが
   十分に残されているかぎり」

   たとえば。
   砂漠でラクダに逃げられた一行がオアシスにたどり着いた時、
   一番最初に見つけたメンバーは所有権を主張できない。
   それをみとめると、ともするとほかのメンバーみんな死ぬ。

   つまり、ロックは独占・寡占状態下での私有化を
   みとめていない。

***


「自然にないもの」を、1番乗りで所有するということ

 ■エイズ新薬特許論争

   ・米国企業はエイズ新薬について特許を保有している
   ・しかしそれはバカ高い
   ・南アフリカでエイズ大発生、でも南ア政府は買えない
   ・そこで特許おかまいなしで安いインド製を買うことに

   知的財産権の分野において、それにかかる紛争を解決する
   国際間での一律のルールが今のところ存在しない。

   しかし、ロックは自然状態でさえ所有権は存在すると言った。
   これはいったいどういうことか。

  ロックの例にあったのはいわば天然資源。
  ドングリ・石油から木工品・自動車まで、[モノ]に労働[ヒト]を
  加えて完成するもの。

  しかし知的財産というのはほぼ労働そのもの。
  天然資源に比べて労働[ヒト]やコスト[カネ]をかける割合が
  非常に高い。
  じゃあ同列に扱えないのではないかという問題がでてくる。

  まず、ロックはあくまで例として天然資源を挙げたに過ぎず、
  知的財産にも適用されると考える。

  すると、ここで対立する2つの考え方が存在する。

  ・「他者のために 同じようによいものが
    十分に残されている」とする考え方

   ひとつの特許はひとつに限られる。
   だから、ひとつの新薬についての特許を取得したから
   といってその類の薬すべてを独占しているわけでない。
   
   薬がほしければ自分たちでもつくればよい。
   その点は何も制限していない。
   だから、ロックの理念に反しない。


  ・「他者のために 同じようによいものが
    十分に残されていない」とする考え方

   新薬をつくる余地はあるかもしれない。
   しかし、ほかに同じくらいよい薬がその特許なしで
   つくれるかどうかわからない以上、独占すべきでない。

   また、この世にその特許によってできた薬以外に
   同じようによいものが存在していない以上、それは
   「十分に残されている」とは言えない。モノ自体がない。

   いずれにせよ財産権を主張するならば、その前に
   「十分に残されている」ことを証明すべきだ。
   これを行っていないから、ロックの理念に反している。


  次に、そもそも知的財産が自然の中に用意されている
  ものでないからロックの考え方では所有権を規定できない
  ものとして考える。

  ・何を所有する権利か
 
   自然より採取できる果実や、耕作によって利益を得られる
   作物そしてその土地といった、「自然が備えておいた状態から
   取り出すもの」を所有することについて正当なプロセスとは
   なにかをロックは規定した。
   ここでは、自然のものを利用していないし、自然のものを
   所有しようとしているわけでもない。
   ここにあるのは、

   「その労働者の疑いの余地のない財産である労働」

   のみだ。
   モノでないため、自然にあるもののようにカギをかけて囲うことが
   できないために特許法の存在が必要になる。


  ここまで所有権について書いてきたけどどうも決定的ななにかに欠ける。
  そこで本質的なところに立ち返る。

  ・自然権は、生命・財産・自由について自己所有を認める権利
  ・他者の自然権を奪う自由はない

  つまり、

   ・あるものを財産として所有する

    それにより

   ・他者の生命を奪う

    結果になってしまうとしたら

   ・他者の自然権を奪う自由はない

    というものに反するため、

   ・それを自己所有することは認められない

  というつじつまが合うことになる。

  人の生命に直結する新薬が提供されない、ないし
  提供されてもそれが現実的でない条件だとしたら
  それは自然権の侵害だ、とする考え方。

  そういうわけかどうかはわからないけども、
  実際のところ結局製薬会社の側が折れた。


 ■ネイティブアメリカンを駆逐した入植者たち

  ネイティブアメリカンは土地を占有していた。
  土地を囲っていなかっただけで、果実を採取したり
  獲物をとっていた。
  土地に対する所有権があった。  

  しかしその権利を主張することがなかった、あるいは
  その機会がなかったがために入植者らに土地を奪われた。

  また、ほかのひとのために土地が残されている状態でない限り
  自分の土地を得ることはできないとしている。

  それなのに入植者らはネイティブアメリカンを追い出し、
  彼らの土地を取り上げた。

  ロックは「自然状態」でも法は存在すると言ったが
  入植者らネイティブアメリカンらの財産権を侵害した。

  その上にジョン・ロックを下敷きにした独立宣言なんぞを
  唱えやがったという皮肉。
  

***


Lecture 2

同意のはたらきとは

 ■政府を制限する権利

  自然権は、政府が存在する以前から成立していた権利とした。
  また、政府も個人の自然権を侵害することはできない。

  よって、政府は個人に干渉することはできないとする
  リバタリアニズムに有利な考え方であるように見える。


 ■ジョン・ロックと同意
  
  ロックは「正当な政府は、同意に基づいて設立されたもの」とした。
  我々は自然状態から離れ、社会に入ることに「同意」した。
  政府があるのはその証拠のようなもの。


 ■自然状態のデメリット

  自然状態にはいくつかの不都合がある。
  自然法のもとでは誰もが

  ・自然法を犯したかどうかを判断する司法
  ・その司法判断に基づく刑の執行者である行政

  である。しかしこれは

  ・他者を裁いたり、処刑したりするときは機能するが
   自分自身には正常に機能しない
   (個人でなくとも、三権分立でない中央集権ではこうなる)

  ・処罰を行う際、感情に任せて行き過ぎることがある

  という大きな不都合がある。
  おかげで他人が他人同士、自身の

  生命・財産・自由

  を守るために必要以上に処罰しあうことで
  それぞれの

  生命・財産・自由

  が脅かされてしまう、平安のない状態になってしまう。あーらら。


 ■ジョン・ロックの「無敵の人」論

   戦いを挑んでくる人は、ライオンやオオカミのように
   暴力でしか物事を解決しようとしない。
   だから、その人をライオンやオオカミを殺してもいいように
   殺したって構わない。
   もはや人でなく獣でしかないから。

  と、ロックさんは言う。
  理性が支配する自然状態というのは、皆が皆理性を保っている間
  きちんと機能する。
  しかし、理性を失う者もいるのがこの世でございますんで
  なかなかどうして自然状態というのは不安定でしかない。



 ■そういうわけで、自然状態から離れた

  自然状態を離れ、社会を築き、自分もその一員となるには
  どうするかってーと、「同意」する必要がある。

  ・己が司法となりません。放棄します。社会にまかせます
  ・己が処罰の執行人となりません。放棄します。社会にまかせます

  という同意とともに、社会に入りますよという契約を結ぶ。
  ここで誰に対して同意・契約を結ぶかというと社会のメンバー
  全員に対しておこなう。

  言い換えれば、

   ・自分の自然権を社会に預ける、
    社会(みんな)で互いに共有する

  ということになる。

   ・社会システムに"おまかせ"することに"同意する"

  ことであるから

   ・自分の自然権を自ら手放すこと

  に反しない。放棄していない(できっこない)から。
  これを言い換えると

   ・社会は、同意した個々の理性の集合体である

  という言葉にあらわされる。
  さきのレイヤー分けを書き換えると、こう。

   A「社会」
   ↓
   B「意識・思考・いわゆる自分」
   ↓
   C「身体」
   ↓
   D「財産」「労働」

  であるからして

   ・自然権は確実に本人(を含む、集合体)にある。
    よって、生命・財産・自由は引き続き守られている

  ことになる。
  そういうわけで、

   ・政府は、個人の自然権を尊重する

  存在だ。

  よって、昼は「良識ある市民」の顔していながら夜は
  勝手に正義の鉄槌をかますバットマンやジグソウ、そして
  時に三面記事の花となる「"正義の力"ふるって逮捕」記事の
  主人公らは社会正義に反している。


 ■多数決という名の民主主義、そして政府の制限

  物事を決める上で多数派の意見が尊重される。
  すると同時に少数派の意見は埋もれてしまう。

  でも少数派にだって一定の権利はある。

  じゃあ、多数派・政府というのはどこまで権利が及ぶのか。

  
 ■最高権力の限界

  「最高権力は本人の同意なく人の財産を一部たりとも
   奪うことはできない」

  「なぜなら財産権を守ることが政府の目的であり
   そのために人は社会に入るから」

  と、ロックさんは言う。
  ここで言う財産権は自然権全般を指す。

  また、

  「人は社会において所有権を持っており
   物に対する権利は
   コミュニティの法律により
   彼らのものとなる」

  とも言っている。
  
  これはどういうことかというと、たとえば相続。

  自然権そのもので言えば、「その人」が所有していた財産は
  「その人」が死亡した時点で所有権が消滅するはず。
  自然状態なら自然に帰るし、社会なら上のレイヤーにある
  社会のものになる。

  持ち主が死んでるから。帰属先がないから。

  でも、我々は「相続する」権利を当たり前のものと
  考えている。
  死亡したあとから、あたかも所有者が生きているかのように
  扱い、所有権を移転することを認めるというもの。
  いわば贈与の後出しジャンケン。

  これはなにかというと、相続の権利は

  コミュニティの法律によって

  保証されたもので、これがあるからこそ、故人の親族または
  故人の指定した個人・法人に付与されることができる。

  言い換えれば、我々は死後、財産権が社会によって
  好き勝手に使われることに同意していない。

  つまりここでは、

  身体・意識を失った後さえも、その人の理性を尊重する

  という考え方がある。
  手に入れた財産は残された家族に、そうでなくとも
  意思の通りに残したいと思うのがいわば当然。
  だから、それを社会による制度化をした。

  財産の持ち主が死亡した時点で、いったんその財産権は
  帰属先である社会が取り上げる。
  そしてたとえ遺言を残していなくとも、それを社会が
  「配偶者はんぶんこ&子で均等」ルールに基づいて権利を
  分配すると規定した。(日本では)

  また、故人の意思があればそれのとおりに社会は分配する。
  そのとき社会は、取り上げた財産を故人の意思のとおりに
  ただしく分配する責務を負う。財産権を守る存在として。
 
  だから、遺言は裁判所で手続きを踏む。
  その遺言が本人のものであるとか、他者の強要によるもので
  ないかなど、正当な手順を踏んでいるものかを検認する
  必要がある。
  
  もうひとつ例を出すと脳死や臓器提供。

  生前あるいは脳死状態になる前に臓器提供の意思を
  提示していない限り、その人の身体から勝手に
  臓器を取り出すことはできない。

  微妙な問題である脳死について
  「わたしにおける脳死は人の死である」
  という同意をしておくことによってクリアし、
  「死んだ人間」から「生きた臓器」を摘出するという
  一見矛盾する行為もまたクリアする。

  これもまた遺言のひとつの形。

(追記ここから)
 改正臓器移植法では、生前に故人が拒んでいない、かつ、遺族が拒んでいない
 場合に限って、脳死した者の臓器を移植できることになった。
 つまり、本人より上のレイヤーにある社会が、各個人になりかわって、
 各個人の死というものを規定した。

 コントロバーシャルな話題である以上、議論された点やボリュームの多寡について
 ついてまわる問題は山ほどあるも、形としては社会が決定したことにかわりない。
(追記ここまで)


 ■このことからみえてくるもの

  相続に関する財産権や、何をもって死とするかとする生命について
  定義するのは

  政府(社会)である

  といえる。
  財産の分配に関するデフォのルールは法で定めているし、
  検認する上でも正当なものかどうかという基準は裁判所が持っている。

  また、「脳死は人の死として認めうるもの」というスタンスを
  政府が明確に示していなければ、臓器提供カードは意味をなさず
  移植医は逮捕されてしまう。

  つまり政府は

  ・個人の権利に踏み込む力はない
  ・個人の権利を定義する力はある

  という2つのルールがもとになっている。

 
 ■個人の権利範囲を定義できる=無限の力?

  個人の権利を侵害できない一方で
  個人の権利を定義できる力があるならば

  個人の権利をどこまでも小さくしてしまえば政府最強

  となる。
  しかしここでは大事な原則がある。
  それが民主主義の根底にあるもので

  個人らの過半数による同意

  が必要。


 ■まとめ

  自然状態から抜け出し、政府に従うことに同意した

  イコール

  価値基準・行動基準は政府にあることに同意した

  イコール

  政府の定めるルールにおいて、過半数の同意するものに
  従うことに同意した

  イコール

  過半数をもって決められたルール
  (=コミュニティの法律)を守ることに同意している。

  それは同意の上のものであるから、
  過半数の同意によって成立した

  ・課税
  ・弱者の救済
  ・徴兵制
  ・シートベルト着用

  これらはみんな、政府の権利の範囲そして
  個人の権利の範囲を決めたに過ぎない。


  言い換えれば

  個人の権利の範囲を狭めるものであっても
  個人の権利を侵害するものではない。

  なぜなら

  過半数の同意があるから。

  法律から外れない限り、政府は個人の権利を
  侵害したことにはならない。

  もし政府が法律を外れたら行政裁判になり、
  「法を犯したこと」について裁かれる。

  また、

  代表者等の議会が暴走して自然法に反した法律を成立させたら
  それは「違憲立法」として物言いがつく。別物。

  だから、税金を払うことやシートベルトなどについて、

  「ルールがおかしい。それを成立させた社会がおかしい」

  と主張するならば、

  俺ルールをその場でつくり行動するというひとり自然状態

  になって、この社会に戦いを挑むライオン(時にただのテロリストに
  なりさがる)となるか、あるいは
  
  社会の中で自然権を持つ人間の一人としてルールの改正を訴え、
  過半数の味方をつける努力をする

  の、二択のうちひとつを選択することになる。
  どちらも苦難の道を選ぶことになるので、そんな度胸がなければ

  「世の中に不満があるなら自分を変えろ。
   それが嫌なら耳と目を閉じ孤独に暮らせ」

  という有名なフレーズのお世話になるほかない。