2017年5月25日木曜日

魔法少女まどか☆マギカのメモ

ようやくTV版通してみたのでメモ。


■契約とは何か

一般では契約は自由意志でなされるものという認識。
しかし、極端な例を出せば砂漠のど真ん中でペットボトル100万円
という状況なら人間どうしようもないから売買「契約」は成り立ってしまう。

ようするに、契約というのは一見「自由」であるが、

契約したいという気持ちにさせるファクターは往々にして
自分の外にあったりする

といえる。

ひもじくてお金がない女の人はそれゆえに風俗店と契約するし
モテないクズ男子のほうはというと、むらむらしてしようがないから
風俗店で女性を買うという契約を結ぶことになる。

ギャンブルに溺れるから、生活が苦しいからサラ金の無人契約機に
行くことになるが、本人は「ほんとは契約なんかしたくない」けど
「契約せざるを得ないから」契約する。
これだとわかりにくいのならもういっちょ。

食べるラー油ブームでもいい、おいしいラーメン店ブームでもいい、
いっそお昼時にゴハン屋さんの前を通りがかるだけでもいい。

外からの情報(口コミという情報、いい匂いという情報、ジュージューいう
しずる感満載の音情報などなど)ここで食べたいという気になったからこそ、
売買契約をむすぶことになる。

上述の風俗の例で言うなら、女はもうかると聞いたから風俗と契約するし
そんなのは社会通念上ダメだと他の誰かから教えられて育ったのなら
その道には行かないという選択肢もある。

ダメ押しで書くと、人間はだいたいの場合、外からの情報・環境に
突き動かされて行動する生き物だ。

これをキュゥべえは知っている。
しかしそれと同時に、多くの人間がそれに気づいていないこともまた、
キュゥべえは知っている。
ほむらもまた、それを知っている。だから何度も何度も警告した。
でもまどかはポンポコピーだからそれを理解できなかった。


■正義とはなにか

スーパー戦隊、仮面ライダー、ウルトラマン、過去の魔法少女などなど
人類を守るということが正義とされ、これは疑いようがなかった。

別に自然保護や平和をここで論じるつもりはないが、自然を壊し、戦争で
殺し合う人類は本当に守るに値するものなのか?
自分が命をかけて、自分を差し出してまで、人殺しをする人間から
はては道にゴミをポイ捨てする人間まで、もろもろ守ってやる義理はあるのか?

がんばればがんばるほど、矛盾が生じる。
このあたりは主人公まどかでなく、ダークサイドに堕ちたさやかが演じる。

本人が意識するもの・しないものをひっくるめた矛盾・ルサンチマンは
ソウルジェムの「穢れ」という形で蓄積され一定量を超えると葛藤を
処理しきれなくなる。
これを解決する一番の方法は戦い続けることにある。
決められた「正義」を履行し続けている間は、何も悩むことがない。

「ぼくらの」で描かれた、戦っていた相手もまた子供らだったという
事実が判明する瞬間までは主人公らにこの悩みはないのだ。
だから「穢れ」を処理するために「魔女」という「明確な敵」の存在が
必要になる。

これまでの「正義」ははっきりいってなんとかレッドに見られるような
「理屈とかじゃねえ、戦うんだ」みたいなバカ正義なので問題にしない。
さやかも当初はそういう役回りだった。が、堕ちた。

要するに考えることは「正義」を履行する上で邪魔である。
なるべく考えさせないのが軍隊・集団・愚衆のコントロール法であるが
これを逆手にとったのがソウルジェム。
「多感なお年頃」にわざわざ葛藤を催させ、よっしゃよっしゃと穢れを回収する。

その点で言えば、素材的にもともとなんとかレッド気質のさやかは
二流である。
いちいち立ち止まって悩むまどかのほうが払いがよさそうだ。

また、Ep2でさやかが言った、命をかけてまでなにかを叶えたい人って
いっぱいいるはずだという指摘もこれにあてはまる。
命をかけて何かを守るなら、迷いはないのである。
葛藤は起こらないのである。

自分の子が死にそうな局面なら、親は時として平気で他人を殺せるでしょう。
戦場で家族を、自分の信じる神を守るためならこれも同様。
葛藤が起こらないならソウルジェムは曇りづらいし、曇らないなら
戦ってグリーフシードを勝ち得る必要もない。

もっとも、そういう人らがもはやハナから魔女に近い存在とみるならば、
そもそもソウルジェム自体彼ら彼女らの中にあるのかどうかさえ怪しい。
多分持ち合わせてないからそういう人らのもとにQBは現れないのだろう。

なぜ「穢れ」≒「矛盾」や迷いがないかっていうと、そりゃ
「自分」が「自分」のために戦っているから。

「自分」が守りたい他者がいたとしても、そりゃそれを決定する、
極論すればその守りたい存在とそれ以外とを差別づけする
主語は「自分」ですから、結局自分のためでしかない。

ひらたくいえば、他者愛というのは存在自体が難しい。
つきつめるところ他者愛さえ「究極の自己愛」と見ることだって
できるわけなので、自己愛で他人のためになにかをするという
事自体が矛盾している。葛藤を避けられない。

だが、自己愛で以て自己のためにすることは一直線上で
つながるので葛藤は起きない。
しかしそれは「正義」といえるものではない。
それはいろんな意味で「勝手」ってやつだ。

「自分が魔女を倒したいから、魔女を倒す」

というのは、もはや本人が「勝手」にやってることだ。
しかしその考えを飲めなかったさやかは自己犠牲のつもりをとどこか残した
ままになったが、そこに他者の幸福を願うことや自分に関して無条件の奉仕が
ない、言い換えると自己の満足・見返りへの望みを捨てきれなかったため
結局矛盾する。正義ナットイコール正義感。

「正義」のために戦う存在がこんなんじゃ、それ自体が矛盾している。
だからその存在は「世の中の矛盾」のひとつとなり
「正義」と対をなす「魔女」という存在に変化する。

その点で言えば、「正義」というのは存在自体が、あり方が
非常に危うい存在といえる。

危ういものだからこそ、矛盾を孕んだものだからこそ
一度乗った自転車を倒れないように漕ぎ続ける覚悟が要るのに
それが足らんさやかに杏子は警告した。
が、さやかはそこんとこ理解できなかったから結局堕ちた。

人類のために自分ががんばるというのは矛盾する。
だが、「正義」のために「正義」を履行する、あるいは
「勝手」のために「勝手」を続けるという、ある種の思考停止を
続けることには一見大きな矛盾は生じないため杏子は堕ちなかった。

が、思考停止のまま生き続けるというのはそれはそれで
人間らしくないんじゃないかという提起もなされているわけで
そこは杏子との対立、そして杏子の心情変化という流れに描かれる。

※念のためわざわざ書いておくと、ここで書いてる「正義」は
皮肉も込められている。


■想いとはなにか、愛とはなにか

上記にあるように、誰か自分でない他人を大事に思うということは
極論すれば自分が勝手にそうしているだけであって、それは片思いとか
両思いとかそういう次元でなく結局自己愛の世界でしかない。
でもそんなの大人でも気づいてる人が少ない。
ましてや中学生なんてなおさら。
このあたりはさやかが辿った道筋がモデルケースとして示している。

その一方、友人のためにすべてを投げ打っているほむらはより他者愛に近い。
が、相手のためとは言え、いつしか相手の立場に立たない、寄り添わなくなって
しまったのはそれはそれで「自分の考える正しさ」の方向に変化したとも言える。

それでも長い時間をやりなおす間、なおソウルジェムをきれいなまま
保ってられたのも「まどかとの約束を果たす」という「正義」のために
生き続けたことにあるわけだけど、それによって別の大きな矛盾が
発生していたことが最終話で判明するとその拠り所が崩れ、一気に
堕ちかけることになる。

また、悲しい見方をすると、時間を繰り返す間、人生を友人よりも長く長く
過ごしている間に、彼女は「少女」でなくいつしか「大人」になりつつあったと
捉えることもできる。
だからこそ上述の「契約とはなにか」というものにも気づけたのかもしれない。

その点で言えば、本質を隠す「悪い大人」がQBとしたら、警告してくれる
「善い大人」はほむらである。
ただ警告は思いやりを持つ一方強いメッセージを伴うため、反発も生みやすい。
逆効果になる場合もある。
だから、「諭してくれる、気づかせてくれようとする大人」もまた必要となる。


■母、詢子

もっとも登場回数の多い「大人」である。
日々ありがたいと思うものに感謝し、また一方世の中の矛盾もまた
自分で飲み込んで、自分の中で処理して生きてる。
しかし不条理全部は飲み込めない。じゃあどうするか。

だから、「大人」は酒を飲む。
むしろ、酒と一緒に世の不条理を自分自身に流し込んでると言っていい。

一度飲み込んだら近くなったトイレでおしっこと一緒に出しちゃえば
いいし、飲み込んでも飲み込みきれなかった分もまた、便器に
吐き出せばいい。
結局、世の矛盾を飲み込むのが大人の役目だし、それをまた
世の中にまた吐き出すのでなく便器にもっていくまでが大人の役目。
たまに電柱脇に吐き出してしまうのはご愛嬌。

「大人」は「ソウルジェムの穢れ」を処理するのにグリーフシードは
使わないのだ。
時に酒などの「大人のたしなみ」を補助的に使いつつも、自分自身で
解消するのであって、ステレオタイプのように他者・社会にぶつけたり
(飲み込んでもそのまま吐き出すのは、そもそも飲み込んでないのと同義だ)
逆に自傷的な方向に行くことは大人としてあるべき姿ではない。

しかし「キャラクター」として描かれるこの「大人」のように
いつもいつでもそうやって生き続けるのははっきり言って実際難しい。
だから、詢子はある種「理想の大人」のひとつのタイプが投影された
ものとも言える。

まあ、その母もたまにくだ巻いてることもあるけど
家族に愚痴こぼすくらいなら全然かわいいもんでしょう。


■主人公まどか

母が飲み込んで高次元で葛藤を処理する「大人」である一方
友人さやかは全部飲み込むが処理しきれずパンクした。

じゃあ主人公まどかはどんな存在か。
これはネットで独り歩きするほど有名なセリフで表される。

「こんなの絶対おかしいよ」

ひらたく言えば、不条理を「飲み込まない」存在である。

処理できないからいつまでも飲み込まない。
飲み込まないから葛藤しない。
ソウルジェム以前の時点で進まないのである。最終話まで。

さやかはダークサイドに堕ちた。
母はバランスを取って生きてる。
じゃあまどかはこの世で毒にも薬にもならない、はっきりしない
ただのポンポコピーなのか?

まあ、そうではないから最終話につながるんでして
さやかが現実に堕ちた現実主義者とすると母は理想を持ってる
現実主義者。
でもってまどかは理想をもった理想主義者といえる。

ただしはっきり言って不条理を飲み込みもしない理想主義者なんて
青い正論しか言わないようなポンポコピーでしかない。
それは最終話までの彼女がそうであった。

しかし最終話で不条理を飲み込んで理想を成し遂げた。
現実にはありえない。

でも、目指すところはさやかでも詢子でもなく、まどかだよね
テレビの前の、吐いてばっかりだったり飲み込みもしない
大きいお友達のみんな、わかったかな?

というメッセージはきちんとストレートに描かれたんだと思う。

・・・最後の不気味なシーンを残しつつ。


(2022/05/22 追記)
遅ればせながら叛逆を視聴。
ラスト3秒。

莫大かつクリーンなエネルギーとしてさんざ利用してきた上、
変化したものに絶望的なまでの大量破壊兵器としての役割さえ与え
我々人類は実験と称してその現象を観察する。
建前上それが許されない国では使い道がないことを強調するため
ごみと称されるわけだけど。

最終的にコントロールしている側の扱いの度量を超えてしまっている
存在、はじめから手に負えない代物に変化することが運命づけられている
物質って何かと似てるね。

あれ、何の話だったっけ。