2010年8月14日土曜日

第05回 「お金で買えるもの 買えないもの」

Lecture 1

自然権と政府のおさらい

 ■政府と個人

  自身の自然権を社会と共有することで
  価値基準・行動基準は政府にあることに同意した

  イコール

  政府の定めるルールにおいて、過半数の同意するものに
  従うことに同意した、

  社会のメンバーらはそれに従い、過半数の同意によって成立した

  ・課税
  ・弱者の救済
  ・徴兵制
  ・シートベルト着用

  などなどを受け入れた。

  ここで重要なのは

  政治的権威あるいは軍事的権威が
  恣意的に権力を行使しないこと

  だとロックさんは言う。
  つまり、

  多数派の合意なしでは、なにかしら権力の行使者は
  それについて何の権力を持たない

  ということになる。
  
  よって軍規にのっとり、上官が命がけの突撃命令を出しても
  それに従わなくてはならないし、それに反すると裁かれる。

  (余談ここから)
  自衛隊は「軍隊」でないからか、自衛隊法(?)に反した
  人間を「現行犯逮捕」する形で拘束することはあっても、
  その場で「処罰」されることはないんじゃないかしら。
  (余談ここまで)
  
  その一方で、上官がお前の財布の中身よこせと言ったところで
  それは根拠がないものだから1円たりともせしめることはできない。

  過半数の同意に基づく「やってもいいことリスト」にないものは、
  一切できないからだ。

  よって、仕事の指揮権がある上司だからといって
  女子社員のおしりをさわっていいわけではないし、
  教授だからといってセクハラやパワハラをしていいという
  ことはまったくない。
  

南北戦争にみる基本的人権

 ■徴兵制と市場方式のハイブリッド

   南北戦争当時、北軍は兵士調達の手段としてに徴兵制を導入していた。
   だが、これは自分の代わりに雇うなりした他者を差し出しても
   かまわないというものだった。

   これは正義か?

  まず徴兵制ってなんだってーと、これは
  (過半数の同意を得て導入される)ランダムで人を選び、
  その人を強制的に戦場へつれてゆくシステム。

  よって、公平な「くじびき」の導入を決定した時点で
  これに参加し、また同時に呼び出しに応じる義務を負う。
  
  ここでいったん徴兵制から離れて、
  罰ゲームつきの「くじびき」のケースを考える。

  仮に「くじびき」で負けたとする。
  そのとき罰ゲームを受ける必要があるも、このときほかの
  参加者を買収してかわりに罰ゲームを受けてもらうことにしたら、
  ゲームに負けた人は罰を受けずに済む。

  普通は「身がわり」という「空気読めなさ杉」なんてこと
  許されないけど。
  王様ゲームでマジ嫌がりしてドン引きみたいな。

  さて。
  この場合、この「くじびき」に負けた人はそもそも、
  このくじびきに参加した意味はあっただろうか。

  この「くじびき」で100回負けたとして、この参加者が
  100回とも罰ゲームを受けなかったとしたら、なんのための
  罰ゲームなのか。

  言い換えれば、結果から言って

   その人はお金を払ったことで
   最初からゲームに参加していなかったも同然

  ということがいえる。
  罰ゲームの抜け道がルールに組み込まれていたなら

   お金を支払えば、罰ゲームなしでそのゲームに参加できる
   
  ともいえる。ただの傍観者。
  場合によっちゃ利益だけ享受する存在。
  これを徴兵制にあてはめると

   お金を払ったことで最初から徴兵制に参加していなかった

  といえる。
  このままでは日本語がおかしいので言い換えると

   お金を払える人だけ徴兵制を免れることができるシステム

  とあらわすことができる。
  言い換えると、

   貧しい人間らだけを対象とした新たな義務を発生させる

  ことになり、ともすると

   金持ち連中は戦場へ行かなくてもよい。
   貧乏人だけが戦場へゆくのだから、たとえ金持ち連中の都合で
   戦争をおっぱじめても痛くも痒くもない。

  という理不尽な世の中が出来上がる。
  これを自然権の原則に照らし合わせると

   金のあるものが一方的に、
   金のない者の自由と、そして時に生命を奪う

  ことになる。
  これはたとえ「過半数の同意」があったとしても無効だ。
  なぜなら

   他者の自然権を奪うことも、自分の自然権を
   自ら手放すこともできない

  からだ。

  よってこれは正義ではない。


***


Lecture 2

人の生命は売買の対象になるか

 ■"Baby M"訴訟

   生物学上の母から子を譲り受けること

   ・100万ドルの報酬と経費をすべて負担する形で
    卵子提供を含む代理母をお願いした
   ・しかしその代理母、出産後赤子に情がわいて引渡しを拒否
   ・決着は法廷へ。
    最高裁の判断は精子を提供した父に養育権を、代理母に
    面会権をそれぞれ与えるものだった。

   このときの正義は?

  これを自然権に照らし合わせてみる。

  自然権は

   他者の生命・財産・自由についての権利を奪うこと
   自分の生命・財産・自由についての権利を放棄すること

  をみとめない。
  社会における自然権は

   "自分"を所有するのは自分である
   
  と同時に

   "自分"を所有するのは社会である

  という位置づけ。
  よって、自分という人間を金品と引き換えに売り出す行為は

   社会が許可した範囲で(1)
  
  かつ、

   自分の意思によって(2)

  行われる必要がある。
  たとえば

   (1) 労基法を満たすお仕事における
   (2) 職業選択の自由アハハン

  言い換えると、

   社会、それ以前に自然権が奴隷を認めていない

  以上、自分を金に換える方法は、

   自身の自由を労働という形で切り売りすること

  以外に認められたものは少ない。
  ("肖像権"という財産を金という財産に換えるとか)

  また、もう一度自分を所有するのは自分であるというところに
  立ち返ると

   自分の自由や財産を切り売りした受益者は自分である

  必要がある。
  おかげで奴隷を禁じる根拠がダブルになる。

  だから

   奴隷や子といった他者であれ、はたまた自分自身であれ、
   "売って"利益を得るのは正義ではない

  といえる。一方で

   社会は養子縁組を認めている。

  これは子そのものにかかる金銭の授受がないことや
  子の自由を制限するものではないとしているから
  社会として制限するものではないというスタンス。

  ただしそれが正しく行われているかを判断するために
  手続きに社会システムの関与を強制していて、それが
  家庭裁判所の許可の有無になる。
  
  話戻って。
  このケースで司法は、代理母と精子提供者である依頼人との間に
  この子がいわば「あたりまえ」に生まれたものとした。
  同時に、悪い言い方をするところの「人身売買契約」は
  無効であるとした。

  じゃあどうやってこの件を処理するかねとなると、離婚訴訟に
  あるよな通常の親権者決めプロセスですすめた。

  結果、親権は裁判所の判断で父親側のものとなった。
  このあたりの理由は経済的な状況などいろいろな環境・要因に
  よる「あたりまえ」の判断。
  "両親"は対等だから特別男親・女親に加味するところはないはず。

  つまり、この依頼者[夫]はもともと"父親"たる資格があったが
  親権でもめてた、結婚しないうちから子供ができてたみたいな。

  「未婚の父」「未婚の母」間で親権を争うという、ちょっと
  レアだけど世の中になくもないものとして処理しましたという
  エンディング。
  処理する上で子そのものにかかる金銭はないものとして
  この争いをおさめましたよというお話。


 ■卵子・精子ビジネスと代理母ビジネスの違い

  卵はヒトではない。人権が存在しない。
  精子はヒトではない。人権が存在しない。

  どちらもカツラのために売りに出された髪の毛程度のもの。

  しかし子はヒトだ。人権が存在する。
  これは売買の対象となってはいけない。

  ところで胎児が人として扱われるなら、
  受精卵も同様という考え方はできなくもない。

  ならば、体外で受精した時点で人間という生命が誕生し、
  同時に卵と精子から両親が確定する。
  この時点で代理母の存在はまったく関係ない。
  親権に絡む余地が無い。

  そして受精卵を代理母に「預ける」ことは、そこで金が動いても
  「売る」わけではない。
  現在の科学で子宮とまったく同じ機能を過不足無く提供するものが
  ない以上たのむほかないし、それに対する労力に対して支払うもの。

  ここで紛争があったとしても、極端なたとえをすれば保育所に
  預けたら保母さんが子供を返してくれないようなものになるので
  子どもそのものに関する金銭取引はない。

  つまり、卵子提供を含む代理母契約における問題点は
  "母親"たる資格の余地がある卵子提供というものにあって
  直接的には産むという行為とは親権について関連性を持たない。
  保母さんが別れた女房でこの子の母親、みたいな話なら
  話はこじれて当然。

  また一方で卵子・精子の提供においてはハナから「子を望む側」に
  子どもがおかれているし、提供する側も情がわくかと言われれば
  なかなか難しいところであるので一見問題はなさそう。

  しかしベビーM訴訟に同じく、精子あるいは卵子の提供を行っている
  以上、親権の主張ができる余地がまったくないわけではないあたりが
  リスクといえばリスク。
  ただ、ここには「子の引き渡し」条項がないからやはり、
  子ども(人間)の売買とは無縁。

  よって

  ・卵子提供を含む代理母ビジネス

  と

  ・卵子提供を含まない代理母ビジネス
  ・精子・卵子ビジネス

  は違う。
  
  前者においては、なにかしらの方法による契約で
  卵子提供と代理母の役割を明確に分けるとか、
  あるいは卵子提供と代理母の役割をそれぞれ別の人間に
  求めるなどして後者の形にしないと問題は解決しない。


 ■それでも残る違和感の正体

  出生の過程では"父親"が確かに存在するのに、家庭の構図に
  父親がいない、父としての役割を為す者がいないという中途半端さ。
  あるいはその逆で"実の"女親のいない半端な状態。
  
  つまり、世間があたりまえに考える「家庭」というものが
  生まれた時点から"成立してない、どっか欠けている"ところが
  妙ちきりんであるところが正体のひとつ。

  しかし世の中が進化(聞こえのいい言葉で成熟)した結果、
  悪く言えば無縁社会となったこの世の中ですから
  核家族はおろかシングルマザーや独居老人は当たり前になり
  いろんな形の生き方、いろんな形の家庭ができあがった。
  
  ならば、ハナから父親母親のいない家庭があったって
  いいじゃないかという意見もありそう。
  もっと言えばゲイ・レズビアンカップルが"家庭を持つ権利"とか。

  しかし、父親と母親がいてはじめて子供がうまれる、
  言い換えれば父親と母親の「愛情の証」としての「子」が
  「愛情なくして」存在する、誕生することはこれまた
  従来の価値観ではミョーちきりん。

  そこんとこはどうなのさってーと、ロックの自然権は

  ・自由
  ・財産
  ・生命

  さえ侵してなければよい、言い換えればそれしか言及していない以上
  ここではこれ以上のことは処理できない。

  片親だろうが両親だろうがいなくてもそれ自体が自由財産生命を
  なんら奪うものではないからだ。

  あとは国ごとに制度が違うよう、それぞれの社会における
  過半数がどういう価値観を持っているかによる。
  
  お国違えばなんとやらで、たとえばインドでは代理母が肯定的に
  とられてさえいて、おかげでビジネスがなりたっている。

  インドで急拡大する医療市場 注目は代理母出産ビジネス
  http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20061117/113920/

  ここで背景にあるのは宗教上の道徳的価値観だもんで
  出産そのものが「徳を積む」ことであるとされている。
  だから自分の子だろうが他所の子だろうが産むことには比較的
  抵抗がないとな。

  なんにせよ、生命自由財産を定義するのは政府であり、
  それは過半数の同意によるものだから、単純にいい悪いで
  片付けられそうにない。