Lecture 1
ジョン・ロックの「自然権」
■自然権とは
生命・財産・自由について自己所有を認める権利が存在し、
それはたとえ民主的な政府でさえも不可侵とするもの。
それら権利は政府や法によって付与されるものでなく
「自然状態」でも存在するから「自然権」。
■自然状態とは
何者もほかの何者を一切支配しない状態。
みなが文字通り「自由」である状態。
よって身分の違いもない。
ジョン・ロックは、その状態でさえ「好き勝手に行動できない」
制約が存在するとした。
その制約となるものが、この「自然状態」でも存在する「自然法」。
■自然法とは
自然法は、次をみとめない。
・自分の自然権を自ら手放すこと
・他者の自然権をとりあげること
よって、自然状態においては生命・財産・自由を手放すことも
できないし、他人から奪うこともできない。
■自然法はどこから
自由はあるけど、自由を手放す自由はないという、
なんかややこしい理屈はなぜ存在するかというと、
自分は自分の所有物でない
とする考えがあるからだ。
■自然法はどこから Take2
人間は、文字通り理性が支配している。
だから、理性に従うかぎり、自分の自由を手放したりもしないし
自分で自分の生命を手放したりもしない。
また、手持ちの財産をなんらかのメリットと交換なしに手放す
こともなければ、他者の財産を奪うこともない。理性がある限り。
「捨てる」というのは財産でないとみなすものだから関係ない。
自分の理性が自分の意思・行動を制限している。
いうなれば、自分に不利な選択をせず、自分の利益となる
ものについて選択・行動する。
このことから、理性という名の自然法のもとで
自分は自分に不利な選択をする「自由」はないと言える。
もちろん、一時的に不利になる選択はすることもある。
しかしそれは長期的な利を求めるものだ。
宗教なら金品とひきかえに「徳」を積む行為さえする。
よって、自分は自分自身を所有しているわけではない。
あえていうなら、自分を所有しているのは「理性」だ。
同様に、理性は他者の理性を重んじる。
さもないとこちらの理性も重んじられないから。
■自然権は譲渡不可能である
理性を「自ら捨てる」ということはそうそう不可能だ。
考え・意思・意識がある以上、理性は付随しているから。
理性を捨てること自体を理性は拒む。
同じように、他者の理性は完全に取り上げっこないし、
他者の理性を奪うこともまた理性は拒む。
くりかえすけど、本当の意味で人間をコントロール(所有)し、
人間を人間たらしめているのは「理性」だ。
一方で、人間は自身の理性をなにかしらの形で
コントロールすることはできない。
また、「その人の理性」の命令によって「その人」が
取得したものは厳密には「その人」のものではなく、
「その人の理性」のものといえる。
■結局誰のものよ
「わたし」は「理性」に暗に操られているも、外からは
理性などというものは目に見えるわけでもないので
「理性」の所有しているものは「わたし」のものである、
とみなせる。
しかし、「わたし」の自由に処分することはできない。
つまり、
・所有権は「わたし」にあると見做すことができる
・処分権は「わたし」にはなく、「わたしの理性」にある
ということ。
■ここまでのまとめ
人間にはレイヤーが3つある。
それぞれ上のものが下のもの所有・コントロールしている。
A「理性」
↓
B「意識・思考・いわゆる自分」
↓
C「身体」
■財産について
自分の身体(C)を所有しているのは自分(B)である。
また、自分(B)以外に自分の身体(C)について権利を
持たない。
よって、身体(C)の行為による利益は自分(B)のもの。
図であらわすとここでレイヤーがひとつふえる。
A「理性」
↓
B「意識・思考・いわゆる自分」
↓
C「身体」
↓
D「財産」「労働」
労働は「財産の一種」であって、誰のものでもないものに
労働という「つばつけ」を行うと自分のもの(=財産)になる。
また、耕し、収穫するのに用いている土地はその人のものとなる。
耕作をやめ、土地が荒れたらそれの所有権は消滅し、自然に帰る。
その人の労働が所有権の根拠(つばつけ)となる。
■これには但し書きがある
「他者のために 同じようによいものが
十分に残されているかぎり」
たとえば。
砂漠でラクダに逃げられた一行がオアシスにたどり着いた時、
一番最初に見つけたメンバーは所有権を主張できない。
それをみとめると、ともするとほかのメンバーみんな死ぬ。
つまり、ロックは独占・寡占状態下での私有化を
みとめていない。
***
「自然にないもの」を、1番乗りで所有するということ
■エイズ新薬特許論争
・米国企業はエイズ新薬について特許を保有している
・しかしそれはバカ高い
・南アフリカでエイズ大発生、でも南ア政府は買えない
・そこで特許おかまいなしで安いインド製を買うことに
知的財産権の分野において、それにかかる紛争を解決する
国際間での一律のルールが今のところ存在しない。
しかし、ロックは自然状態でさえ所有権は存在すると言った。
これはいったいどういうことか。
ロックの例にあったのはいわば天然資源。
ドングリ・石油から木工品・自動車まで、[モノ]に労働[ヒト]を
加えて完成するもの。
しかし知的財産というのはほぼ労働そのもの。
天然資源に比べて労働[ヒト]やコスト[カネ]をかける割合が
非常に高い。
じゃあ同列に扱えないのではないかという問題がでてくる。
まず、ロックはあくまで例として天然資源を挙げたに過ぎず、
知的財産にも適用されると考える。
すると、ここで対立する2つの考え方が存在する。
・「他者のために 同じようによいものが
十分に残されている」とする考え方
ひとつの特許はひとつに限られる。
だから、ひとつの新薬についての特許を取得したから
といってその類の薬すべてを独占しているわけでない。
薬がほしければ自分たちでもつくればよい。
その点は何も制限していない。
だから、ロックの理念に反しない。
・「他者のために 同じようによいものが
十分に残されていない」とする考え方
新薬をつくる余地はあるかもしれない。
しかし、ほかに同じくらいよい薬がその特許なしで
つくれるかどうかわからない以上、独占すべきでない。
また、この世にその特許によってできた薬以外に
同じようによいものが存在していない以上、それは
「十分に残されている」とは言えない。モノ自体がない。
いずれにせよ財産権を主張するならば、その前に
「十分に残されている」ことを証明すべきだ。
これを行っていないから、ロックの理念に反している。
次に、そもそも知的財産が自然の中に用意されている
ものでないからロックの考え方では所有権を規定できない
ものとして考える。
・何を所有する権利か
自然より採取できる果実や、耕作によって利益を得られる
作物そしてその土地といった、「自然が備えておいた状態から
取り出すもの」を所有することについて正当なプロセスとは
なにかをロックは規定した。
ここでは、自然のものを利用していないし、自然のものを
所有しようとしているわけでもない。
ここにあるのは、
「その労働者の疑いの余地のない財産である労働」
のみだ。
モノでないため、自然にあるもののようにカギをかけて囲うことが
できないために特許法の存在が必要になる。
ここまで所有権について書いてきたけどどうも決定的ななにかに欠ける。
そこで本質的なところに立ち返る。
・自然権は、生命・財産・自由について自己所有を認める権利
・他者の自然権を奪う自由はない
つまり、
・あるものを財産として所有する
それにより
・他者の生命を奪う
結果になってしまうとしたら
・他者の自然権を奪う自由はない
というものに反するため、
・それを自己所有することは認められない
というつじつまが合うことになる。
人の生命に直結する新薬が提供されない、ないし
提供されてもそれが現実的でない条件だとしたら
それは自然権の侵害だ、とする考え方。
そういうわけかどうかはわからないけども、
実際のところ結局製薬会社の側が折れた。
■ネイティブアメリカンを駆逐した入植者たち
ネイティブアメリカンは土地を占有していた。
土地を囲っていなかっただけで、果実を採取したり
獲物をとっていた。
土地に対する所有権があった。
しかしその権利を主張することがなかった、あるいは
その機会がなかったがために入植者らに土地を奪われた。
また、ほかのひとのために土地が残されている状態でない限り
自分の土地を得ることはできないとしている。
それなのに入植者らはネイティブアメリカンを追い出し、
彼らの土地を取り上げた。
ロックは「自然状態」でも法は存在すると言ったが
入植者らネイティブアメリカンらの財産権を侵害した。
その上にジョン・ロックを下敷きにした独立宣言なんぞを
唱えやがったという皮肉。
***
Lecture 2
同意のはたらきとは
■政府を制限する権利
自然権は、政府が存在する以前から成立していた権利とした。
また、政府も個人の自然権を侵害することはできない。
よって、政府は個人に干渉することはできないとする
リバタリアニズムに有利な考え方であるように見える。
■ジョン・ロックと同意
ロックは「正当な政府は、同意に基づいて設立されたもの」とした。
我々は自然状態から離れ、社会に入ることに「同意」した。
政府があるのはその証拠のようなもの。
■自然状態のデメリット
自然状態にはいくつかの不都合がある。
自然法のもとでは誰もが
・自然法を犯したかどうかを判断する司法
・その司法判断に基づく刑の執行者である行政
である。しかしこれは
・他者を裁いたり、処刑したりするときは機能するが
自分自身には正常に機能しない
(個人でなくとも、三権分立でない中央集権ではこうなる)
・処罰を行う際、感情に任せて行き過ぎることがある
という大きな不都合がある。
おかげで他人が他人同士、自身の
生命・財産・自由
を守るために必要以上に処罰しあうことで
それぞれの
生命・財産・自由
が脅かされてしまう、平安のない状態になってしまう。あーらら。
■ジョン・ロックの「無敵の人」論
戦いを挑んでくる人は、ライオンやオオカミのように
暴力でしか物事を解決しようとしない。
だから、その人をライオンやオオカミを殺してもいいように
殺したって構わない。
もはや人でなく獣でしかないから。
と、ロックさんは言う。
理性が支配する自然状態というのは、皆が皆理性を保っている間
きちんと機能する。
しかし、理性を失う者もいるのがこの世でございますんで
なかなかどうして自然状態というのは不安定でしかない。
■そういうわけで、自然状態から離れた
自然状態を離れ、社会を築き、自分もその一員となるには
どうするかってーと、「同意」する必要がある。
・己が司法となりません。放棄します。社会にまかせます
・己が処罰の執行人となりません。放棄します。社会にまかせます
という同意とともに、社会に入りますよという契約を結ぶ。
ここで誰に対して同意・契約を結ぶかというと社会のメンバー
全員に対しておこなう。
言い換えれば、
・自分の自然権を社会に預ける、
社会(みんな)で互いに共有する
ということになる。
・社会システムに"おまかせ"することに"同意する"
ことであるから
・自分の自然権を自ら手放すこと
に反しない。放棄していない(できっこない)から。
これを言い換えると
・社会は、同意した個々の理性の集合体である
という言葉にあらわされる。
さきのレイヤー分けを書き換えると、こう。
A「社会」
↓
B「意識・思考・いわゆる自分」
↓
C「身体」
↓
D「財産」「労働」
であるからして
・自然権は確実に本人(を含む、集合体)にある。
よって、生命・財産・自由は引き続き守られている
ことになる。
そういうわけで、
・政府は、個人の自然権を尊重する
存在だ。
よって、昼は「良識ある市民」の顔していながら夜は
勝手に正義の鉄槌をかますバットマンやジグソウ、そして
時に三面記事の花となる「"正義の力"ふるって逮捕」記事の
主人公らは社会正義に反している。
■多数決という名の民主主義、そして政府の制限
物事を決める上で多数派の意見が尊重される。
すると同時に少数派の意見は埋もれてしまう。
でも少数派にだって一定の権利はある。
じゃあ、多数派・政府というのはどこまで権利が及ぶのか。
■最高権力の限界
「最高権力は本人の同意なく人の財産を一部たりとも
奪うことはできない」
「なぜなら財産権を守ることが政府の目的であり
そのために人は社会に入るから」
と、ロックさんは言う。
ここで言う財産権は自然権全般を指す。
また、
「人は社会において所有権を持っており
物に対する権利は
コミュニティの法律により
彼らのものとなる」
とも言っている。
これはどういうことかというと、たとえば相続。
自然権そのもので言えば、「その人」が所有していた財産は
「その人」が死亡した時点で所有権が消滅するはず。
自然状態なら自然に帰るし、社会なら上のレイヤーにある
社会のものになる。
持ち主が死んでるから。帰属先がないから。
でも、我々は「相続する」権利を当たり前のものと
考えている。
死亡したあとから、あたかも所有者が生きているかのように
扱い、所有権を移転することを認めるというもの。
いわば贈与の後出しジャンケン。
これはなにかというと、相続の権利は
コミュニティの法律によって
保証されたもので、これがあるからこそ、故人の親族または
故人の指定した個人・法人に付与されることができる。
言い換えれば、我々は死後、財産権が社会によって
好き勝手に使われることに同意していない。
つまりここでは、
身体・意識を失った後さえも、その人の理性を尊重する
という考え方がある。
手に入れた財産は残された家族に、そうでなくとも
意思の通りに残したいと思うのがいわば当然。
だから、それを社会による制度化をした。
財産の持ち主が死亡した時点で、いったんその財産権は
帰属先である社会が取り上げる。
そしてたとえ遺言を残していなくとも、それを社会が
「配偶者はんぶんこ&子で均等」ルールに基づいて権利を
分配すると規定した。(日本では)
また、故人の意思があればそれのとおりに社会は分配する。
そのとき社会は、取り上げた財産を故人の意思のとおりに
ただしく分配する責務を負う。財産権を守る存在として。
だから、遺言は裁判所で手続きを踏む。
その遺言が本人のものであるとか、他者の強要によるもので
ないかなど、正当な手順を踏んでいるものかを検認する
必要がある。
もうひとつ例を出すと脳死や臓器提供。
生前あるいは脳死状態になる前に臓器提供の意思を
提示していない限り、その人の身体から勝手に
臓器を取り出すことはできない。
微妙な問題である脳死について
「わたしにおける脳死は人の死である」
という同意をしておくことによってクリアし、
「死んだ人間」から「生きた臓器」を摘出するという
一見矛盾する行為もまたクリアする。
これもまた遺言のひとつの形。
(追記ここから)
改正臓器移植法では、生前に故人が拒んでいない、かつ、遺族が拒んでいない
場合に限って、脳死した者の臓器を移植できることになった。
つまり、本人より上のレイヤーにある社会が、各個人になりかわって、
各個人の死というものを規定した。
コントロバーシャルな話題である以上、議論された点やボリュームの多寡について
ついてまわる問題は山ほどあるも、形としては社会が決定したことにかわりない。
(追記ここまで)
■このことからみえてくるもの
相続に関する財産権や、何をもって死とするかとする生命について
定義するのは
政府(社会)である
といえる。
財産の分配に関するデフォのルールは法で定めているし、
検認する上でも正当なものかどうかという基準は裁判所が持っている。
また、「脳死は人の死として認めうるもの」というスタンスを
政府が明確に示していなければ、臓器提供カードは意味をなさず
移植医は逮捕されてしまう。
つまり政府は
・個人の権利に踏み込む力はない
・個人の権利を定義する力はある
という2つのルールがもとになっている。
■個人の権利範囲を定義できる=無限の力?
個人の権利を侵害できない一方で
個人の権利を定義できる力があるならば
個人の権利をどこまでも小さくしてしまえば政府最強
となる。
しかしここでは大事な原則がある。
それが民主主義の根底にあるもので
個人らの過半数による同意
が必要。
■まとめ
自然状態から抜け出し、政府に従うことに同意した
イコール
価値基準・行動基準は政府にあることに同意した
イコール
政府の定めるルールにおいて、過半数の同意するものに
従うことに同意した
イコール
過半数をもって決められたルール
(=コミュニティの法律)を守ることに同意している。
それは同意の上のものであるから、
過半数の同意によって成立した
・課税
・弱者の救済
・徴兵制
・シートベルト着用
これらはみんな、政府の権利の範囲そして
個人の権利の範囲を決めたに過ぎない。
言い換えれば
個人の権利の範囲を狭めるものであっても
個人の権利を侵害するものではない。
なぜなら
過半数の同意があるから。
法律から外れない限り、政府は個人の権利を
侵害したことにはならない。
もし政府が法律を外れたら行政裁判になり、
「法を犯したこと」について裁かれる。
また、
代表者等の議会が暴走して自然法に反した法律を成立させたら
それは「違憲立法」として物言いがつく。別物。
だから、税金を払うことやシートベルトなどについて、
「ルールがおかしい。それを成立させた社会がおかしい」
と主張するならば、
俺ルールをその場でつくり行動するというひとり自然状態
になって、この社会に戦いを挑むライオン(時にただのテロリストに
なりさがる)となるか、あるいは
社会の中で自然権を持つ人間の一人としてルールの改正を訴え、
過半数の味方をつける努力をする
の、二択のうちひとつを選択することになる。
どちらも苦難の道を選ぶことになるので、そんな度胸がなければ
「世の中に不満があるなら自分を変えろ。
それが嫌なら耳と目を閉じ孤独に暮らせ」
という有名なフレーズのお世話になるほかない。