2010年9月15日水曜日

第12回 「善き生を追求する」

Lecture 1

ルールと目的

 ■人種分離主義者の思い

  人種分離主義、悪い言い方で人種差別主義を容認する中で
  生まれ育った人間たちは、それを変えることを望まなかった。
  極端な話、それがよいことか悪いことかはまったくの別問題で
  あって、その社会自体に愛着があると言ってよい。

  これは、どっかの記事で読んだ「校風が変わるのには否定的」
  という卒業生の思いであるとか、犬だのイルカだのといった
  食文化でモメているところにあるものと基本的な構造は同じ。

  もっと軽い話題でいうなら、「バカボン」や「おそ松くん」、
  「サザエさん」といったまんが・アニメでは

   「おいおそ松、ちょっとタバコ買ってきてくれんか」

  といった会話が当たり前にあった。
  今じゃ禁煙うんぬんや未成年の喫煙どうたらタスポなんたらで
  金輪際そんな表現はでてこない。

  それについて、昭和生まれかつ喫煙を毛嫌いする側でない
  人間である自分たちにとっては少し寂しい気するけど
  これが現実なんだからしょうがないと落ち着くところの話。

  別に肯定否定ではなく、そういった風景があったし、実際自分も
  近所のお店にお遣いにやられ、駄賃代わりに買うことを許された
  駄菓子をほおばった記憶、サンデルさん言うところの

   「物語的観念」

  があるものですから共感するところはあるねというだけであって
  別にあのころがよかったとか今がよくないとかいう意味はない。

  これは善悪でなく、愛着の問題だからだ。


 ■うちなータイムと石垣島の交通

  「沖縄人は時間にルーズ」

  ということは全国的に知られるところでありまして、
  「19時集合」は「19時に家を出る」と同義であると言ってよい。

  しかし最近は沖縄もヤマト化が進み、そういったこともなくなり
  やたらあくせくした世の中になってしまった。

  一方、石垣ではクラクションを鳴らすのはご法度とのことで、
  それは今でも守られているらしいあたり、うらやましくも思う。

  これら

   ・時間通りに集まらない
   ・クラクションは鳴らすほうがrude

  というものについて、正義に照らし合わせるなら

   ・時間を守らないとは正義でない
   ・公共の道路を我が物顔で占拠するのは正義でない

  という見方になる。しかしこれが必ずしも肯定的にとられないか
  というとそうでもない。
  逆の見方がそこにはあって、わかってるんだかわかってねえんだか
  よくわからんヤマトゥーの表現をするなら

   ゆっくりとした島時間

  てなもんがそこにある。


 ■つまりどういうことね

   道路交通法という、日本国の普遍的なルール

  を超越した、ラー油記事の言葉で言うところの

   島の流儀

  というのが確かに存在するということ。
  ローカルな善が、普遍的な善を超えるところはあるよねと言える実例。

  この、島の流儀を肯定し、正義たらしめているものはなにかというと
  それこそが

   「島」や「島の流儀」に対する帰属・愛着・共感

  にほかならない。


 ■いやいやちょっと待て

  じゃあ道路交通法はどうなるのよ。
  なんのためのルールやねん。

  という話になる。
  
  そうやって普遍化することだけに正義を見出すと、学園ドラマの中に
  登場する「学級委員長」「風紀委員」のような

   規則至上主義

  の鼻つまみ者になってしまう。
  これはどういう了見かというと

   そのルールが何のためにあるのか

  という根本的な部分を見失っているところにある。
  
  たとえば、時間を守るというルール。
  これは一緒になにか行動を共にする上で、誰かが待たされることで
  気分を害するとか、金銭的・機会的な損失が発生するということが
  まずいという点があることから、それを防止するためのもの。

  しかし、それらについて

   ・別に待ってても気分を害しない。お互い様
   ・飲み会程度で金銭的・機会的な損失が発生するわけでもない
   ・誰かが死ぬわけでもねーし

   もちろん店だってこの島にある以上

   ・時間通りに来る客なんざナイチャーくらいのもん

   程度にしか思わない。

  という価値観を皆が共有していたらどうだろう。
  その場合は時間を必ずしも守る必要はない。
  なぜなら、

   皆は時間を守るという必要性をみとめず、それを目的としていない

  と言えるから。
  同様に、クラクションin石垣のケースでも

   ・別に待ってても気分を害しない。お互い様
   ・数回の信号待ち程度で金銭的・機会的な損失が発生するわけでもない
   ・誰かが死ぬわけでもねーし、つか、鳴らしたら死ぬかもしれんし

  という価値観をそのコミュニティが持っていたなら、これも

   ゆずり合いができない、信号がないとまともに走れない
   心の狭い人間らを信号機で統制することで円滑で安全な
   道路交通システム確保する

  ということを目的としたルールづけはこの場面では必ずしも必要ない。
  なぜなら、皆の意識が

   じゅうぶんゆずりあいのこころを持っている

  から。
  却って、余所者がそれを否定してルールについて声を上げる場合、
  イコール

   むやみに普遍化する

  場合、

   ただぼーっとしてるだけのオジー

  を

   道路を占拠し、譲らずにいる者

  と断ずることになる。
  しかしそのオジーには譲る譲らないという気はないし、
  そのコミュニティではそれも理解しているのに

   心の狭い、自己を譲れない、口うるさい余所者がなんか言ってる

  ということになりかねない。


 ■つまりどういうことよ

   ルールというのは、目的あってナンボのもんであって、
   アリストテレス的な考え方でテロスを見てみる必要がある

  ということ。


***


同性婚はアリか

 ■まず異性婚のテロスを考える

  ボーイミーツガールを経てくっつきました、というものを

   社会化

  するこの風習。
  全世界いろんな民族・宗教あれど、婚姻・夫婦というシステムそして
  それをみなで祝う婚礼というセレモニーがまんべんなく存在する。

  これは何のためにあるのか。
  ただくっついて暮らすだけではだめなのか。
  くっついて暮らして子が生まれて育つだけではだめなのか。
  なぜだめなのか。

   なぜ社会化する必要があるのか。
   その目的はなんだ。

  まずここでいえるのは

   社会的な儀礼として祝う

  ことがらである以上、

   社会がみとめるよいもの、よろこばしいもの、美徳

  のひとつであることが確かだということ。


 ■社会化の形態

  日本人だから日本式に考えてみる。

  そもそも、平安時代にゃ戸籍台帳というのはなかったはず。
  婚姻届という紙っきれはなく、結婚は

   婚礼の儀式

  でもって成立した。
  じゃあそのセレモニーの目的ってなんやねんなってーと

   ・夫となる者、妻となる者、そして社会の3者間の同意の確認

  であると言える。
  同意があることから、これは

   契約の儀式

  であるといえる。
  夫は妻に、妻は夫に、夫婦は社会に対して契約を結ぶ。
  この時点で、

   ・1. 夫とその家族は妻とその家族の同意を確認する
   ・2. 妻とその家族は夫とその家族の同意を確認する
   ・3. 1・2をもって、社会は双方の同意を確認し、
      同時にふたりを夫婦としてみとめる

   つまり、社会が両者側の同意があったことを担保する役目となるし、
   その結婚が社会的に認められるもの、社会通念に反していないことの
   お墨付きを与えることにもなる。

  さてこれでよいですかねってーと、意外とそうでもない。
  なぜなら、社会の側が

   ・あの結婚はやっぱナシ。認めない。

  と、手のひらを返してしまったら、ふたりの婚姻関係はとたんに
  社会の担保がなくなり、皆に認められないものになってしまう。
  だから、

   ・4. 社会は、ふたりの婚姻を認めたことを神仏に誓約する

  という、絶対的なものに拠ってはじめて完璧なものとなる。

  だから、結婚式には「立会い人」という概念がある。
  ドラマや映画での結婚式でありがちな光景、

   「この二人の結婚に異議のないものは沈黙をもってうんたらかんたら」

  というのは、参列者を「承認を与える社会」として巻き込む作業。
  立会人なくして、誰が社会の代表として見届けるか、また、いかにして
  立会人が結婚をみとめたことを担保するかと考えればこーなる。
  同様に、婚姻届に証人欄があるのはこの考えに基づいているといえる。

  余談を言えば、たとえは悪いかもしれないけど任侠の手打ちも考え方は
  これに同じで、人と人、あるいは組同士の仲直りの場を任侠社会が見守り、
  さらにそれを神道の神の前でおこなうことにそれぞれ意義がある。


 ■ある意味個人主義

  新郎・新婦がそれぞれ神や仏に誓うんじゃないのという考えも
  ありそうだけど、そもそも日本における結婚と言うのは

   家と家の結びつき

  であることにちがいない。これは

   山田 家
        結婚披露宴
   田中 家

  と書いてあるところから見て取れる。
  本当に男女個人間の結びつきならば

   山田 太郎
        結婚披露宴
   田中 花子

  と記されるはず。でもそうでない、実際。

  以上のことからやはり旧来は、家と家という社会のむすびつきに
  より大きな社会が同意し、社会がそれを神仏に誓約するという
  かたちと言える。

  この点で言えば、両家がみとめる神仏という共通認識がないと
  心情的にイマイチ説得力もないもんですから、共に生活を始める
  以前に、このあたりですでに宗教の違いは溝となりうる。

  もっとも、最近じゃセレモニーでさえ※神や仏の存在を置かず、また、
  家と家との結びつきでなく個人間の結びつきという概念を持つ
  日本人も多いことですから

   人前式

  という、社会に対して夫と妻が誓約をおこなうかたちもあったり。
  よいか悪いかというのは別にして、そういう価値観があるというだけで。

  ※クリスチャンでないけど式だけは教会で、の発想


 ■なんにせよ

  婚姻というのは、社会が夫婦関係をみとめる、そのふたりの関係が
  「夫婦である」と社会がみとめる担保であるからして、そこには

   社会の承認

  が必要不可欠であるといえる。


 ■僕の髪が肩から伸びて

  我々が一般に

   「結婚しようよフフンフン」

  と言っているのは、ややこしい言葉で言うと

   「社会に認めてもらう作業をしようよフフンフン」

  ということになる。
  そもそも、結婚"後"、つまり婚姻生活そのものについて
  まず語弊を恐れずにざっくり言えば

   世の男女に思惑いろいろある以上、共通するひとつの目的はない

  と言える。
  
   ・ジジイの遺産がほしいから
   ・ゲイ偽装結婚
   ・国籍ビジネス
   ・酔った勢いで目的なし

  などなど、それってほんとに婚姻かいなというものだってある。
  しかし、そんな彼らでも

   結婚することはできる。

  つまり、「結婚」というものは

   社会がふたりを認めるということが目的のイベント・手続き

  であってつまり、

   「夫婦になること」そのものを認めるのであって
   「どんな夫婦になるか」という方向性はなにも定めていない

  といえる。なのでたとえば

   セックスしろとか子どもを生み育てろとか言う発想なんて、
   結婚そのものには微塵もない

  と言える。なぜなら

   性行為は夫婦の必要条件でないから。

  結婚し、死ぬまで寝るときはお手てつないで寝るだけ
  というふたりは、夫婦でないと言えるのか。

   セックスなんてそんな発想とんでもない!

  というかつみ&さゆりイズムな考えは、夫婦として
  「あるまじき」ことなのか。
  ふたりしわくちゃになって、こたつでなかよくみかんを食べて
  微笑みあっているだけでは夫婦でないと断言するのか。

  大事なのは性の営みでなく生の営みではないのか。

  ハーバードの授業での討論はマークにはじまりライアン、ハナまで
  そこから論じ始めてしまったがために

   結婚でなくセックスの目的についてさえ定義し始めた

  ものだから、ぐちゃぐちゃになってしまった。


 ■スティーブの視点・論点

  というのはまさにここのぐちゃぐちゃを指摘したもので、

   マスターベーションは人が許可するものではない

  というたとえから

   結婚生活におけるセックスの有無は人がとやかく言うことでない

  と、この流れをバッサリ切り捨てた。


 ■話戻って

  そういうわけで、夫婦にかかる法律と言うのは

   どんな夫婦になるか

  ということは定めておらず、法が制定された当時の社会通念としての

   夫婦ってまずどういうものか

  といったものしか定めていない。だから  

   ・夫婦は同じ苗字を名乗る
   ・夫婦は同居し、協力して生活する

  といったあたりのごくごく限られたもの、つまり

   最低要件

  にしか言及しておらず、これをもって社会は婚姻をみとめますよ
  というものでしかない。


 ■最低要件というのがミソ

  その社会の認める夫婦であるためには、その社会が要求する最低要件を
  クリアする必要があることはわかった。

  現状、

   ・3次元の相手がいないラブプラス人間
   ・一緒に住むとか協力するとかいう気がない相手を持つ人間
   ・同姓を名乗る気がないカップル
   ・同性と一緒になろうとするカップル
   ・男18歳未満、女16歳未満

  などなどはクリアできない。
  これはその法律が制定された時点の社会から価値観がさほど変わっていない
  ともいえる。

  しかし、夫婦別姓や同姓婚論争が起こっている以上、社会の持つ価値観は
  確実に変化している。
  

 ■ところかわれば

  一夫多妻の文化の国だってあるわけで、結婚の要件は世界中で
  ひとつではない。
  じゃあなにが要件を定義するかというと、それを認める

   社会

  にほかならない。言い換えると

   その社会が、その社会における結婚とはなんたるやを定義する

  わけだから、

   社会の関与なくして結婚という概念は存在しない

  ことになる。

  
 ■もし仮に

  社会が結婚について認める/認めないという立場を一切とらず、
  自由に「私たちは夫婦です」と名乗ることができたらどうなるか。

  ギガジンかなにかの記事に出てくるよう、口の聞けない小さい女の子を
  とっつかまえてきて有無を言わさずおもちゃ同然に扱っておきながら
  
  「夫婦ですがなにか。問題でも?」

  と、ダンナが宣言できるのは正義だろうか。
  いやいや、少なくともこの日本では正義でない。
  日本の法律じゃ両性の同意からまず要件に入ってるし、
  物事の分別うんぬんの年齢制限だってある。

  ということはやはり社会が結婚の要件を定義しなくてはならない。

  なぜなら

   婚姻の概念は自然状態、もっと言うとイヌサルキジなどなど
   ワイルドな意味での自然に存在するものでなく、人間社会が
   つくったもんであるから。

  よって

   社会はいかなる結婚の定義も許可もすべきでない

  とするセザンの考えはヘンだ。


 ■いろんな文化あれど

   それでも共通する結婚のテロスってなんね

  というものについては、簡単に言えば

   永遠の愛を誓う

  くらいのものでしかなく、ここが多くの動物のパートナーシップと
  一線を画す、人間だけが、人間の社会が生み出した概念。


 ■そこで新たな問題発生

  永遠の愛を誓う目的である結婚というものが   
 
   当然、異性間のみでなされるもの

  と、限定しているかどうかが論点となる。

  
 ■たとえば宗教の存在

  同性婚についてはなんにつけ宗教がからむことが多い。

  さきにあったとおり、結婚というものが完全であるために
  社会が神仏に対して誓いを立てる必要があるなら、
  その宗教で同性愛をみとめていないと同性婚はなしえない。

  また、同性婚どころか異性婚でさえ宗教において指導する立場にある
  人間はできないとする宗教だってある。
  かくも結婚というのはややこしい。

  一方でタイなどの南伝仏教では

   「身体はこの世で生きるための借り物」

  程度のものでしかなく、

   その性別なんかたいした意味なんてねえや
  
  という宗教的価値観がございますから、ニューハーフやゲイってのに
  寛容であるし、むしろ

   心底異性・同性わけへだてなく同じように接するのが慈愛だろうよ

  という究極の愛をとくものですから、異性と性行為を行うんだったら
  同性とだって当然あってもいいだろうさというオーカマー

  
 ■このあたり

  リベラルである種ドライな個人主義では

   勝手にやってればー?

  で済みそうだけど、コミュニティの道徳観に配慮する形をとる
  コミュニタリアニズムではその道徳を形成するものに重きを置く。

  しかし宗教はそれでもって善のカタログみたいなもんですから、
  それぞれ他の宗教と相容れない部分が多い。

  ビジネスの世界でうんたらかんたらのくだりのように、

   政治と宗教の論争に終わりはない

  以上、ある意味やるだけ無駄といえる。


 ■じゃあどうするか

  論争をあきらめるのはよくない。
  なぜなら論争あってはじめてテロスを見極めることができるから。

  それぞれの価値観にたった論争はやってなんぼ。
  どこまでも論点・対立点とその根源にあるものを
  明確にすることそのものが大事。

  その上でそこにどうしても妥協点が存在しない部分がでてきたとき、
  人間ですから別の方策を考えることだってできるはず。

  たとえば。
  さきに出てきた人前式の考え。
  どうも宗教がらみで解決の糸口がみつからないぞというとき、

   神仏に拠らないパートナーシップという概念・制度って
   あっていいんじゃないの

  という考え方がブレイクスルーになりうる。
  特定の宗教における善の考え方を一切合切排除した上で

   ただただ永遠の愛を誓う

  という、シンプルなテロスをもった新たな婚姻制度を社会がつくる。
  これは神仏が絡む

   (ここで言う狭義の)結婚

  ではなく、呼称いろいろあれど授業に出てきた言葉で言うなら

   シビルユニオン[civil union]

  という、社会が市民に対して付与することで完結する、
  結婚と同等の権利が保障されたパートナーシップの形態を成立させるもの。
  これなら宗教うんぬんはまず排除できまいかというこころみ。

  もっとも、世の道徳は宗教のみならずいろんなものがある以上
  これで解決するわけでもない。
  しかし、厳密な意味で

   社会の承認で完結する

  制度である以上、その社会における過半数の同意をもって
  法に定めれば必要じゅうぶんな裏づけが発生する。

  しかしこれはひとすじ縄で一朝一夕にできないから
  レインボーカラーな運動がずっと続く。

  
 ■もうひとつの出口

  授業にあった、マサチューセッツ州のように
  最高裁判例でもって

   結婚のテロス、要件

  が同性を含むものと認めれば、それでもって社会のお墨付きがある
  状態になる。

  しかしこの行為は判例に付きまとう勝手な判断だの、司法の暴走だの
  といったコントロバーシャルな部分を大いに含む。

  日本のように多くが無信教な国ならそれでいいかもしれないけど、
  米国のようにキリスト教が多い国、ことにカトリックが政治的にも
  一大勢力をもっているような社会では冒険だったんじゃないかな
  なんて個人的に思う。

  まあ、リベラルな判例を打ち出せるほどにマサチューセッツ州が
  そもそも比較的宗教的にガツガツしてない社会であるのかも
  しれないけど。
  

***

Lecture 2

善と正義と哲学

 ■節度ある無関心

  善という多種多様な価値観は統一のしようがない。
  しかしそれぞれの善を尊重し、それら善の対立を調整する
  正義というものは得られる。

  その正義を見つけにゆくとき、必要なのは

   自分の善を相手におしつけないこと

  かつ一方で

   相手の持つ、自分と相容れない善にめをつぶる

  ことが大事で、武田鉄矢のラジオ番組で聞いた言葉で言い換えると

   節度ある無関心

  という態度で臨まなければその作業は

   善の対立を超える正義を見つけに行く作業から、
   ただただ善が対立することを確認するだけの作業

  になってしまう。
  しかしそれは同時に、

   相手の価値観を理解しにゆくことを放棄する

  ことでもある。
 
 
 ■どっこい。

  生きてきた中で、対立する側の価値観にもすぐれたところが
  あることをみとめ、結果それを自分にとりこんで成長してきた
  というところもなくはない。
  しかしそれには

   一度本気でぶつかりあう

  ということが必要。
  これは紛れもなく人間関係が一時的に、あるいは永久に悪化する。
  
  しかしそうやって宗教は長い歴史の中で分化や統合、決裂と和解を
  くしかえし果たし、ブラッシュアップしてきたところもある。
  一方でまったく交わりも変わりもしない原理主義というのもある。

  つまり何がいいたいかというと

   どんな相手であれ、相手から学ぶ余地がある

  と考えることが大事で、松下幸之助式に言えば

   自分以外みんな師

  とするこころがけは大事で、納得するしないは別にして
  聞く耳持っていいよねといえる。

  要は

   人の話を聞け

  つー話であって、さんざぶつかりあってまじわってはじめて

   正義

  ってもんが得られるんよというサンデルさんのことば。


 ■アリストテレスの言う、政治のテロス

  正義を探し、ゆえに対話を欲し、その上で

   言いたいことだけ押し付けたあとは
   相手の言うことも聞かずに見下す

  といった姿勢でいるのは、自分の善の押し付けにすぎず

   自ら望んだはずの正義から遠ざかる

  ことと言える。これはともすると

   対話の相手だけ新たな知見を得る一方で
   自分だけ何も得ないまま終わる

  ことになりかねない。
  おかげで

   政治的な生活といえない人生を送り続ける

  ことになってしまう。


 ■なにからはじめるべきか

   とにかく、世の中のいろんなことに関心を持とうね

  ということ。
  その点で言えば、新聞を読むことが大事というのは
  とても理に適ったことだとうなずける。

  そして、いざ善と善がぶつかったとき、善の目的を見極めて
  正義を選択するようにする。
  だから、信条による善やただの独善をぶつけてみたところで
  目的を見失っているようではそれは正義を得るプロセスでない。

第11回 「愛国心と正義 どちらが大切?」

Lecture 1・2ぶちぬき

新たな義務

 ■ちょっと待ったのカント

  カントさんはアリストテレスはアホやと一蹴した。
  その理由は

   社会が善のお手本、特定の価値観をリードすることは
   (選択・信条などの)自由と反するから

  というもの。


 ■何が違い、問題になるのか

  カントさんとアリストテレスさんとの間で
  「人間が自由である状態」の解釈が異なっていることが問題となる。

  アリストテレスは

   潜在能力を発揮する力がある限り自由だ

  とした。さきの例で言えばこれは

   最高のフルートが、それを得るにふさわしくない者によって
   "邪魔・横取り"されずに最高の奏者のもとへ渡る

  さまをあらわしている。
  いうなれば、

   興南の島袋くんは、甲子園でチームを勝利へ導いたこと
   のみならず、光る才能が本物であることを証明した以上、
   それにふさわしい場、プロの舞台で活躍する権利・自由が
   あることは誰しも認めるところ

  であるから、今すぐにとはいわないけど

   いずれその道に進めるパスがちゃんと存在し、それがかなう

  ことこそが彼の「自由」であるといえる。
  同じ視点で言えば

   イチローは日本のプロ野球という枠でなく、全世界に
   活躍が伝えられるメジャーの場で活躍できて然るべき

  であり、

   日本のプロ野球の思惑で海外へ出させない

  といったことがあるならば、それは自由ではない。
  裏返せば、

   メジャー級の実力のないプレーヤーがメジャーに行けない

  というのは自由が制限されているものでもなんでもなく、

   そもそもそんな「自由」なんざ持ち合わせていない

  といえる。
  つまるところ適合性の有無がそれにかかる自由と結びついている。


 ■カントさんの唱える自由

  一方カントさんは

   自律的な生き方こそが自由である

  とした。これもさきにあるとおり。
  これをかみくだいて一言で言うと

   選択の自由アハハン

  に集約される。これは本当の意味でフリーダムなもんですから

   ・盆や正月にも、親の顔を見なくてもよい
   ・結婚式に親を呼ばない
   ・卒業証書さえもらえれば卒業式欠席
   ・中元や歳暮はもらう一方でお返しなんかするものか
   ・ご先祖様の位牌を燃えるゴミの日に出す
   ・なにも恩恵を受けないから町内会費を払わない
   ・異動になって1週間、これといって会話もないから、たまたま
    入れ違いになった人の送別会に出ないし餞別代も出さない

  ということもみいーんな肯定される。


 ■なんでしょねこの違和感

  上記のことがらはすべて何の罪にもならない(はず)。
  誰かの金銭を奪ったり、誰かを誹謗中傷しているわけでもない。
  しかしなんかヘンだ。

  ここで選択が自由に可能であることが、どこかしら問題となる。
  それは

   伝統やしきたり、社会通念に反している

  ことであるからだ。
  このことから、どうやら我々には

   伝統やしきたりなど、「ローカルな善」を守らなくてはならないという
   なにかしらの圧力が存在する

  ことがわかる。
  これは同時に

   自分の家族や地域社会、国家・民族などのバックグラウンドを
   無視した上で善悪を判断することはできない

  といえることがわかる。
  盆に顔も見せない家長なんて一族総スカン以外の何者でもない。

  たとえばつまり、家長においては
   
   家督・仏壇を受け継ぐこと、しきたりを守って盆などの
   セレモニーを実施することなど

  が期待される。
  もっと言えば、これは義務として存在する。
  こういったものの上にある自分を

   負荷ありき自己

  と呼ぶ。そしてこれは

   コミュニタリアニズム[共同体主義]

  というものの考え。
  これは個人主義の考えからしたら自由を制限するものになる。

  つまり

   個人主義 :放蕩息子
   共同体主義:親戚社会

  という構図がここにある。
  この義務は尊厳・相互性といったものや自発的な義務(自律)とは異なる。


 ■マッキンタイアさんの主張

  親の過ちを子が償うという概念がある。
  これを広げると

   親の世代がおこなった過ちの責を引き受けるという概念、
   生まれが自分の生き方について制限を与えることは否定のしようがない

  といえる。
  個人主義においてこれを正当なものにするには

   「自分の気が向いたから責を負う」

  という、自由な判断による"引き受け"によってなされる。
  しかしこんな考え方はアホやでとコミュニタリアニズムの立場にある
  マッキンタイアさんは言う。


 ■はい!?

  罪を犯した者の子はそれを負い目に生きろとも言っているような
  このくだり。
  そこんとこ親は親、子は子ではいけないのか。
  いけないのはなぜか。
  親のおこないから目をそむけることがなぜ正義でないか。
  
  たとえば。

  親が殺した人間の子と、その人殺しの子は何も枷がない状態で
  友達関係が結べないとでも言うのか。

  ・・・まあ、ふつう結べないわな。無理だ。

  たとえありがちな友達同士の冗談でも

  「親の顔がみてみてえわw」

  みたいなことは言えない。お前が言うなみたいなところはある。
  というか、親密になること自体かなり難しい。

  ここで「親が人殺しだろうが関係ねえ、俺は俺だ」なんて言ったら

   別に罪もねーし悪かねーけどなんかあいつ腹立つ
  
  という世間様の評価に甘んじることになる。

  自身に非はない。
  しかし明らかに相手を気遣わなくてはならない立場にある。


 ■義務についておさらい

  ~しなくてはいけない、というのは広い意味で

   義務

  だ。ならば今一度義務について整理。

   1.特定の個人に対する義務
    ⇒「尊厳」のある他者という考え。
     そしてこれに基づく、お互いが貸し借りなしで
     あるべきとする「相互性」

   2.自発的な義務、自己が自己に課す義務
    ⇒ex.)"約束は守るものだ"という信条

  これらの考え方はカントさんやロールズさんのものに沿っている。
  負荷ありき自己を、ここでの2番目、自発的に選択した考え方であると
  とらえることもできる。
  しかし、さきに書いたとおりマッキンタイアさんは先回りして
  そんなんちゃうでと言っている。

  また同様に、負荷ありき自己というのは家族や地域社会、
  国家などなどの中において何かしらの恩恵を受けたことに対する
  「相互性」の問題であるとも考えられるけど、やはり
  コミュニタリアニズムでは別物として取り合わない。


 ■そこでマッキンタイアさんほかコミュニタリアンは

  3つめの義務の存在を提唱。
  それは

   連帯、忠誠心、集団の中の個という意識からくる義務

  というもの。
  家族愛にはじまり、親戚や地域社会の助け合い意識や仏壇うんぬん、
  果ては愛国心までもろもろこれにあたる。
  個人主義につっぱしるとこれらみんな見失ってしまう。

  ちなみにこれは同意によって発生するものでなく、

   その集団に生まれた・入った、属している

  といった理由で発生するもの。
  普遍的なものでいえば家族・故郷により負うこととなる
  義務があげられる。

   ex.)
    ・溺れる2人
    川で自分の親とどっかのおっさんが溺れかけている。
    場所はどちらも岸から同じ程度。
    さあどっちを先に助けようとする?

    ・手をさしのべる先
    全国的な豪雨で被害があちらこちらで発生。

     地元の町
     となりの町
     地元の都道府県
     姉妹都市    
     それ以外の町

    救援募金をおこなう優先順位は?

  仮に彼らが自分にゆかりのある人間らを優遇したことで
  それが許される、ともすれば褒められさえするならば
  それは何によるものか。


 ■つーかこれって

  孔子・儒教の道徳観そのものじゃね?

   >葉公が孔子に話した、
   >「私どもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が
   >羊を誤魔化したときに、息子がそれを知らせました。」
   >孔子は言われた、
   >「私どもの村の正直者はそれとは違います。父は子の為に隠し、
   >子は父の為に隠します。正直さはそこに自然に備わるものですよ」
   http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/7_1.html#anchor395755

   解説
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039582855

  たしかに世の中はただしい/ただしくないというものは存在する。
  しかしそれだけではおさまらないものってあるんちゃいますのという
  考えで、別の例を出すと

   1.人間の尊厳としての生命を奪った
   2.人を殺めてはいけないという法を犯した

  しかし

   3.兄弟の願いを聞き入れてやるという義務を遂行した

  という3番目のポイントがあるから高瀬舟は人の心を打つ。
  おなじことは杜子春の馬の両親のくだりでも言えるし、
  マザーテレサか誰かなら

   「遠くで困ってる人々を助けようとするよりもまず、
    手の届く身の回りの不幸な人間を助けようぜ。
    慈悲の心はそこからはじまるんよ」

  とったような言葉を残しているあたり、人間の善というのはこのあたりにも
  なにか存在する。


 ■これは偏愛なのか?

  博愛を地でいくマザーテレサが言う(ソースみっけた)のだから、
  完全なる偏愛であると言い切れないことはまずまちがいない。
  
  ではどのあたりがが偏愛でない理由となるのか。
  あるいは、偏愛じみたものでさえ、なにかもってすると偏愛でなくなると
  いえるのか。

  羊泥棒のくだりでは他者の利益を害したが、家族の義務は果たした。
  高瀬舟のくだりでは社会のきまりを破ったが、兄弟の義務は果たした。

  いずれも、複数の「正義」が衝突している。
  しかしここではいずれもより自分に近しい正義を選択している。

  これはともすれば自分や自分の近しい人物、イコール広い意味で
  「自分」の利益を追い求めるものであり、もはや正義ですらない、
  傾向性・利己主義ではないのかという見方もできる。

  さてどう説明つける。


 ■善の根源とアイデンティティ

  善というのはアイデンティティと非常に強く関連している。

  そもそもアイデンティティを構成するのは

   1.他者と独立した自分というバディアンソウル
   2.自分の行為は自分で決定しうる(自己同一性としてのid)

  そして

   3.自分の帰属先への愛着・忠誠(帰属意識としてのid)

  の計3つ。ほかにもあるかもしれないけどとりあえずこんだけ。
  これまででてきた善の概念は

   1.尊厳のある、互いに独立した存在としての自分そして他者
   2.人間は自律的であるとする考え

  で語られてきた。これらはそれぞれとリンクしている。
  ならば、

   3.自分を形作った家族・社会などの組織に対する帰属意識

  というものも善・正義に関連していて然るべきものといえる。
  これがここで語られている部分。

  アイデンティティの形成において影響の大きい帰属先というのは
  たいていの場合家族がこの世で一番。
  その次に生まれ育った故郷の社会、自治体、国家・・・といった順になる。
  (もちろん人によりけりだし時と場合によって変わるかもしれない)


 ■西洋人の説明するこのややこしいもの、なにかに言い換えられないか?

  というわけで細かいとこすっとばして考えた結果がこれ。

   1.義 互いの尊厳をおかさないもの、相互性

   2.正 人間が自律的であるさま、正しい行いをするさま

  つまり、カントやロールズの言う正義はこの2つに集約される。
  しかし儒教ではこれだけではない。

   3.仁 思いやり、同情、共感、慮ること

  この3番目は連帯や帰属意識につながっているもの。
  連帯していないもの、目の前にないもの、状況を分かち合って
  いないものには共感や同情はおきにくい。
  しかしそれらを同にしていると否が応にも伝わってくるもの。
  それを無視することはただしいことではないとする考え。

  羊泥棒のくだりなら、盗人にも理があるさまを理解できる立場にあるし、
  高瀬舟なら弟の思いを兄は痛いほど受け取った。

  杜子春は両親の痛み、そしてその中でも自分を思ってくれるさまを
  まざまざと感じ取った結果仙人になることはできなかった。
  しかし仁のない人間は仙人になれっこないし、それどころか
  生きている資格さえないと謎の老人Xは言う。


 ■仁と利己主義のちがい

  いくら慮ってみても、どこまでも私利にまみれた悪人のこころには
  共感することができない。
  おかげで実の親について「経営している学校を食い物にしている」と
  メディアに告発する息子も世の中にいる。

  逆に、人殺しギャングの親玉について、「殺ってなきゃ殺られてた」
  という事情がわかっておればかくまう気持ちも起き、それを行動で
  しめす人間もいる。

  一方、企業内犯罪についてほかの誰も慮ることなく、ただ己の保身の
  ためだけに告発しないのだとしたらそれは、ただの傾向性・利己主義
  でしかない。

  つまり、

   相手を慮る気持ちの有無で傾向性の産物かそうでないかの振り分けが
   おこなうことができ

  そして次に
  
   相手を慮る気持ちはあっても、そこに善(正義)がなければ
   擁護するにふさわしい筋の通った理由付けはおこなえない

  と結論づけることができる。


  何がいいたいかと言うとつまり、

   義理[正義]と人情[仁]はワンセットであり、別物でもある

  という考えなんだよということ。
  最終的に大事なのは

   善に拠ること

  だというおはなし。


 ■商売に私情がどうたらこうたら

  とは言うけれど、それは義理だけで商売しているのであって、
  どこか人間味がない。
  おかげでコンプライアンスが心持ちの問題でなく規則で縛るという
  発想しかできなさそうな。

  べつに商人に限ったことではないけれど

   ~以前に人間であれ

  というのは、仁をもてということなんじゃないかしらね。
  ~の部分にいろんな職業名がつくと思うけど、それだけその道に
  就いている多くの人間らのコンプライアンスが危ういという状況で
  あるあらわれであるかもしれない。

  ことわざにゃ「医は仁術」という言葉があるけれど、意味合いは
  「人間であれ」に同じ。しかしそれ以上に

   ・言葉の発せない重症患者
   ・言葉にできない乳幼児や老人
   ・とにかくこころががおだやかでいられなくて言葉にできない人

  などなど、容態を知ることさえものすんごいエネルギーが必要になる
  人たちに全力で立ち向かっていく姿勢をあらわしたものに思える。


 ■ルールだけで世の中はまわせるのか

  リベラリズムを肯定する人間はイエスと言うし、
  コミュニタリズム派はノーと言う。
  
  しかしコンプライアンスが崩壊してしまった背景には

   ルールさえ守れば何やってもよい

  というリベラリズムが横行したことがあり、サブプライム
  うんたらで経済は破綻、そしてゴールドマンひとり勝ち。  
  日本人はバブルで浮かれてシメはソロモン・ブラザースが大もうけ。
  世界では武器や地雷を売ってもうける国あれば手足のない人間が
  大勢いる国もある。

  何度も何度もくりかえし、そのたびそのたび辛酸をなめる。
  自分がババ引くまでやめられないロシアンルーレット。

  まわっているのは世間か、終焉へのリボルバーか。


 ■近江商人のことば

  「売り手よし、買い手よし、世間よし」

  この「世間」というものが、コミュニタリズムでは「共同体」をさすはず。
  世間よし、忘れられてませんかね?

第10回 「アリストテレスは死んでいない」

Lecture 1

アリストテレスの政治論

 ■まず政治のテロスを見定める

  アリストテレスさんは政治の目的を

   ・善い人格を形成すること
   ・市民たちの美徳を高めること
   
  とし、つまり

   「善き生をもたらすもの、実現するもの」

  であるとした。

 
 ■おいおいちょっと待て

  これまでの講義で習った内容では、カントやロールズは

   「善や価値、目的を選択する自由(=自律)を尊重すること」

  であると言っていた。彼らは

   人格をよくする

  なんて一言も言ってないし、国民をやさぐれさせる一方の
  現在の政治のもとで生活している我々にとっても違和感バリバリ。


 ■そんなのおかまいなしに

  アリストテレスさんは追い討ちをかける。

   「ポリス(POLIS)で生活し、政治に参加することでのみ
    人間としての本質を十分に発揮できる」

  これはどういうことかってーと

   人間は本来、ポリスで生きるもの

  という考えがある。その根拠というのは

   政治的生活おくることでのみ、人間しか持たない言語能力を
   活用することになるから。
   言語能力がないと、論理的に物事を考えることができない。

  というもの。
  なぜこういう考えに至ったかというと

   「人は言葉を持ち、話せる。そしてそれは人にしかできない」
    ↓
   「人が言葉を持っているのは理由があるはずだ」
    ↓
   「人のみが力以外で対立を解決できる。そのために言葉はある」
    ↓
   「言語を得た人という生き物は、他者とかかわって生きるものだ」
    ↓
   「つまり、人は社会の中で生きるものだ」
    ↓
   「また、社会同士の軋轢さえ言葉は乗り越えられる」
    ↓
   「つきつめるとその社会はどんな地域社会をも飲み込む、
    それら集合体である都市国家であるべきだ」
  
  人間は互いの利害関係を力でなく論理で整理し解決することができる。
  これは個人間のものから家庭間、地域社会間へと規模を拡大しても
  解決することができる。
  人間にしかない高度な言語はその重要なツールとして使われる存在。

  つまり、人間というのは

   どんな状況にも対応しうる

  存在であると言える。これを言い換えると

   どんな状況でも、物事を常識的に解決できる

  ことであり、

   常識で解決することを諦めて"力"で解決する

  ことは人間らしくない。これはボスザル決めのやり方だ。
  だから、個人間のトラブルは

   和を以ってよし

  とすることが人間らしいけど、それでもこじれたら

   司法

  のお世話になるしかない。しかしそうせずに

   私刑

  という形で勝手な正義をふるったり、

   ヤーサン(ほかアウトローな組織)

  に「処理」を依頼して解決を図ることは

   政治的な生活ではない。


 ■市民たちの美徳とは

  上記のように、力でなくどこまでも常識で解決する政治的生活を
  送ること、言い換えれば政治のうちに暮らす市民でありつづける
  ことが美徳。

  この理念を広げると、

   ・互いに相手を尊重した上で利害関係を調整しあう

  ことが市民たちの美徳だと言える。

  もっと言うと、多くの自治体が美術館や芸術公演用のシアターを
  持っているように、広い意味で

   何が美しいか

  ということのコンセンサスを与える。
  いうなれば、商店街などにあるスプレーの落書きや、最近の事例では
  広告看板

   ・はたして美しいものか
   ・ただ景観を害するものか

  を判断する、社会としての規範を示す。


 ■どっこい

  カントやロールズは

   政治は、個人が何が美しいかとする価値観の自由を保障するもの

  といっている。
  これはつまり、さきの商店街の例で言えば、人様のものを
  勝手にいじることの是非はいったんおいとくとして

   これは芸術だ!グラフィティだ!

  という言い分を認めることになる。しかしこれは同時に

  はたしてこれはいつもいつでもそうであるかと言えるだろうか

  という疑念もふつふつと湧き上がる。
  意地悪な言い方をすれば、う○こマークやおま○こマークを
  芸術と呼ぶにはあまりに説得力がない。

  話を戻すと

   芸術だの表現の自由だのの名の下に、古くはテレクラ、今日では
   出会い系の超巨大な「美少女」看板が駅前にあることは許されるか

  という問題をカントやロールズは解決するだろうか、とサンデルさんは
  考える。だからこそアリストテレスの考える政治のあり方をもとめる。


 ■ここでおさらい

  政治のテロスは、

   ・善い人格を形成すること
   ・市民たちの美徳を高めること

  であるわけだから、

   ・誰が市民であるか
   ・誰が市民たちを統べるべきか

  という問いにはそれぞれ

   ・美徳を尊ぶ人
   ・美徳を尊い、さらに皆の手本になれる人

  があてまはるといえる。

  また、

   ・本来人間は言語を駆使して利害関係を調整しあうもの

  であることから、

   ・世捨て人
   ・社会がよくなろうが悪くなろうが関心のない人
    ⇒自分の利益だけ確保されておればよく、社会の中で一方的に
     不利益を被っている側の利益を慮らない人
 
  というのは政治的な生活のうちにいないものですから

   ・政治について一方的に口出しするなんてもってのほか

  といえる。逆に、

   ・卓越した利害調整能力 = それだけ言葉を駆使できるちから

  のある人はその才能・能力を存分に活かせるポストである
  社会、政治のトップたりうる人だと言える。

  
 ■なぜ実践が必要であるか

  まず、わかっているだけでしていないことの無意味さは書くまでもない。
  しかしもういっちょ。

   実践していないと、そのこころが身につかない

  という側面がある。さきにも書いたように

   いろんな場面で物事を常識で解決できること

  が人間であり、その能力がどこまでも通用する必要がある。
  しかし、小っちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれ
  ナイフみたいに尖っては力で物事を解決する方法しか
  身につけられなかった人間は

   常識で解決するノウハウが存在しない。

  世の中にそうでない解決の仕方があることはわかっている。
  しかし知っているだけでは何にもならないし、

   やっとひとつ場数踏んだからって
   そのやり方がどこでも通用するなんて思いなさんなよ

  というもんですから、ひたすら世間の中で常識を突き通して
  ゆくほかない。

  このあたり「実践の宗教」である仏教も同じ考えだし、
  聖書では「よいサマリヤ人」のくだりで有名。
  祭司もレビ人も日ごろ善いおこないに欠けていたからサマリヤ人のように
  「え?当たり前のことしたまでですよ?」ができないさま。

  別に宗教の書物どうこうじゃなくても、

   日ごろ道に落ちてるゴミひとつ拾えない人に
   ・美徳がなんたるか
   ・何がきれいで何が汚いとかいう話はまったく無意味
   といったことがわかるか

  という話であるからして、

   そもそもゴミを拾うこと自体が美しいのであって、
   ゴミを汚いものともきれいなものとも感じる意味がない。

   ゴミがどんなものだろうが撤去されたあとの様子・結果には
   まったく関係はなく、ただその結果を待ちわびている、

   拾われるためにあるもの、拾われることが目的のもの

   がそこに鎮座してるだけという事実。

  ということに気づかないし、わからないからできない。


 ■じゃあわからないまま終わるのか

  そもそも。
  その「ゴミが拾えない人」、果ては「平気でポイ捨てする人」には

   何が欠けているか

  と言われれば

   (美的センスとしての)美意識

  が欠けているとも言えるし

   (道徳的センスとして)美徳

  が欠けているとも言える。
  では美意識・美徳はどこからくるのか。

  内なるものか?ふつふつと湧き上がるか?

  いやいや。
  だとしたら彼らはポイ捨てしない。
  なぜなら

  「『ポイ捨て』という美しくない行為」という概念そのものが
  存在しないからだ。

  もっと言えば、

   盗んだバイクで走り出す(カッコイイ)十五の夜

  という概念の持ち主は

   自らの命も顧みないどころか、突飛かつ没個性的という
   相容れないものを高次元で融合した80年代の奇抜なファッションで
   この21世紀の夜を音楽センスのかけらもない音を発生させて
   駆け抜ける、思春期のありあまる自己顕示欲のかたまり

  という概念を持ち合わせていない。
  しかしこれら2つの概念は共通点がある。

   ともに、外から植えつけられた美意識・美徳

  であること。
  オザキとか特攻の拓ど真ん中世代のやんちゃな子たちは
  
   ブッコミって美しい

  という了見でいる一方、そうでない人間からしたら

   今日びまだいたんだ珍走団

  くらいの認識でしかない。


 ■そういうわけで

  誰かが美徳のお手本を示さなきゃいけない。
  それが

   政治

  の役割であり、わかりやすい例をあげれば

  ・法律によって「美しくないものリスト」をつくる
  ・裁判によって「美しくないおこない」を罰する
  ・天然記念物を制定したり、国民栄誉賞を付与するなどして
   「美しいもの」「美しいおこない」をしめす

  といった活動にその考えが見て取れる。


 ■まとめ

  善い市民(善い習慣づけが身についている人間)でいるためには

  ・徳を実践する
  ・何が善いことか、美しいこと・ものであるかについて
   力でなく言葉で折り合いをつけること

  が必要。


***

Lecture 1~2

アリストテレスの「適合性」

 ■足の悪いプレーヤーに対する措置

   ゴルフをプレイすることはできるが、足が悪いため
   移動をカートで行わなくてはならないプレーヤーがいる。
   
   彼はツアーに参加する上でカートの使用許可を主催団体に
   申し出たが、主催者側はこれを却下。決着は法廷に。

   主催者側の判断は正義か?


  ここでの論点は2つ。

   ・歩くことはゴルフの目的に含まれるか
   ・そもそもゴルフは、強靭な体力を要する部類のものであるか


  まずひとつめについて。

   いろんな意見
   ・カートを使用している大会もある
   ・いやいや、基本的にコースを歩くのもゴルフのうち。
    それがいやならカートの使用を認める大会なり、
    「障がい者スポーツ」としてのゴルフ大会に出ればよい

  これについて司法は、歩くことはゴルフの本質に含まれないと
  判断したためプレーヤーの側の意見が通った形になった。


  つぎにふたつめ。これは司法うんぬんはなかった。

  たとえば。
  マラソン大会に、足が不自由という理由で特殊な機械を装着した靴を
  履いて出るのはおかしい。
  これは、走ることが目的に含まれるということもあるけど、
  それ以前の問題として

   マラソンは、純粋に足の速い人を讃える競技

  であるわけだから、

   足が不自由であるならば、その時点で(一般の)マラソン競技に
   参加する資格はないというかあっても特別扱いなし

  ということになる。
  この観点から言えば、仮に

   ゴルフが、一部の人間がカートに乗ることさえも許されないほど
   みなが筋肉を酷使する体力勝負のスポーツ

  であり、

   ゴルフが、そのすさまじい筋力体力を讃える競技

  であるならば

   カートは特殊機械靴に同じく使用は許されない。

  どっこい。
  我々の共通認識ではゴルフというのは

   メンタルなスポーツ

  であるからして、ある程度の集合知としての文献としてあえて
  wikipediaを引用するなら

  >精神力が重要とされ、精神力7割技術力3割とも言われている。

  てな具合。つまり、ここでのくだりに沿うなら

   体力でなく、技術と精神力が讃えられるスポーツ

  と表現できる。


 ■適合するもの

  以上のことから、我々は

   ・マラソンの勝者には、足の速さを讃える
   ・ゴルフの勝者には、技術と精神力の高さを讃える

  その一方で、

   ・マラソンの勝者には、腕力の強さを讃えない
   ・ゴルフの勝者には、体力の強靭さを讃えない

  これはどういうことかというと、

   勝者に与えられるものは、それにふさわしい賞賛・名誉

  であり、アリストテレスさんの言う正義にはこのふさわしさ、、
  すなはち

   「適合性」

  が含まれる。
  適合性の問題をスポーツでなくほかのものにあてはめると

   ・字がきれいでないと競泳競技に出られない
   ・手がきれいでないとコールセンターで働けない
   ・話し方がきれいでないと代筆バイトで働けない

  などなどといったことは正義でなくなる。


 ■ここまでのまとめ

  アリストテレスさんの言う正義とは

   ・目的に合致するか
   ・適合するか
   
  ということ。

   ・絵の上手い人が絵を描いて物を食える
   ・話の上手な人が話術で物を食える
   ・手先の器用な人が技術で物を食える

  ことがかなうのがよい社会となる。  


 ■ちょっと待ったのロールズ

   目的から正義を論じた場合
   平等な基本的人権が脅かされる

  というのはロールズさんの談。
  これはさきにあった

   政治は、個人が何が美しいかとする価値観の自由を保障するもの

  というものに立脚している。
  なにが政治の目的か、なにが美徳たるやなどなどが、
  目的が決まっているものとして語ってしまうと、それに沿わない

   ・「まちこわし」看板の"表現の自由"を侵害してはいけない
   ・う○こマークやおま○こマークの落書きは芸術たりうる

  という価値観・自由をないがしろにしてしまうから。
  そしてこの価値観の違いから

   なにが目的というものについて価値観の統合・同意が
   なし得ない以上目的論で正義を論じ得ない

  と断じた。
  そういうわけでここで、

   ・スクール水着をAV女優に着せる美徳・美意識、権利・自由が
    あったっていいじゃないか
   ・目的が異なるからAV女優+すく水は善でないという自由の制限、
    適性・才能があるからこの職業に就くべき、という自由の制限

  という考えの問題、

   1.「権利が善に優先するかしないか」という問題
   2.「自由な道徳的主体とはどのようなものか」

  が生まれる。
  これを言い換えると

   自由とは、役割や目標・目的を選べることか否か

  という問いになる。

  この問題は次回へ続く。