Lecture 1
アリストテレスの政治論
■まず政治のテロスを見定める
アリストテレスさんは政治の目的を
・善い人格を形成すること
・市民たちの美徳を高めること
とし、つまり
「善き生をもたらすもの、実現するもの」
であるとした。
■おいおいちょっと待て
これまでの講義で習った内容では、カントやロールズは
「善や価値、目的を選択する自由(=自律)を尊重すること」
であると言っていた。彼らは
人格をよくする
なんて一言も言ってないし、国民をやさぐれさせる一方の
現在の政治のもとで生活している我々にとっても違和感バリバリ。
■そんなのおかまいなしに
アリストテレスさんは追い討ちをかける。
「ポリス(POLIS)で生活し、政治に参加することでのみ
人間としての本質を十分に発揮できる」
これはどういうことかってーと
人間は本来、ポリスで生きるもの
という考えがある。その根拠というのは
政治的生活おくることでのみ、人間しか持たない言語能力を
活用することになるから。
言語能力がないと、論理的に物事を考えることができない。
というもの。
なぜこういう考えに至ったかというと
「人は言葉を持ち、話せる。そしてそれは人にしかできない」
↓
「人が言葉を持っているのは理由があるはずだ」
↓
「人のみが力以外で対立を解決できる。そのために言葉はある」
↓
「言語を得た人という生き物は、他者とかかわって生きるものだ」
↓
「つまり、人は社会の中で生きるものだ」
↓
「また、社会同士の軋轢さえ言葉は乗り越えられる」
↓
「つきつめるとその社会はどんな地域社会をも飲み込む、
それら集合体である都市国家であるべきだ」
人間は互いの利害関係を力でなく論理で整理し解決することができる。
これは個人間のものから家庭間、地域社会間へと規模を拡大しても
解決することができる。
人間にしかない高度な言語はその重要なツールとして使われる存在。
つまり、人間というのは
どんな状況にも対応しうる
存在であると言える。これを言い換えると
どんな状況でも、物事を常識的に解決できる
ことであり、
常識で解決することを諦めて"力"で解決する
ことは人間らしくない。これはボスザル決めのやり方だ。
だから、個人間のトラブルは
和を以ってよし
とすることが人間らしいけど、それでもこじれたら
司法
のお世話になるしかない。しかしそうせずに
私刑
という形で勝手な正義をふるったり、
ヤーサン(ほかアウトローな組織)
に「処理」を依頼して解決を図ることは
政治的な生活ではない。
■市民たちの美徳とは
上記のように、力でなくどこまでも常識で解決する政治的生活を
送ること、言い換えれば政治のうちに暮らす市民でありつづける
ことが美徳。
この理念を広げると、
・互いに相手を尊重した上で利害関係を調整しあう
ことが市民たちの美徳だと言える。
もっと言うと、多くの自治体が美術館や芸術公演用のシアターを
持っているように、広い意味で
何が美しいか
ということのコンセンサスを与える。
いうなれば、商店街などにあるスプレーの落書きや、最近の事例では
広告看板が
・はたして美しいものか
・ただ景観を害するものか
を判断する、社会としての規範を示す。
■どっこい
カントやロールズは
政治は、個人が何が美しいかとする価値観の自由を保障するもの
といっている。
これはつまり、さきの商店街の例で言えば、人様のものを
勝手にいじることの是非はいったんおいとくとして
これは芸術だ!グラフィティだ!
という言い分を認めることになる。しかしこれは同時に
はたしてこれはいつもいつでもそうであるかと言えるだろうか
という疑念もふつふつと湧き上がる。
意地悪な言い方をすれば、う○こマークやおま○こマークを
芸術と呼ぶにはあまりに説得力がない。
話を戻すと
芸術だの表現の自由だのの名の下に、古くはテレクラ、今日では
出会い系の超巨大な「美少女」看板が駅前にあることは許されるか
という問題をカントやロールズは解決するだろうか、とサンデルさんは
考える。だからこそアリストテレスの考える政治のあり方をもとめる。
■ここでおさらい
政治のテロスは、
・善い人格を形成すること
・市民たちの美徳を高めること
であるわけだから、
・誰が市民であるか
・誰が市民たちを統べるべきか
という問いにはそれぞれ
・美徳を尊ぶ人
・美徳を尊い、さらに皆の手本になれる人
があてまはるといえる。
また、
・本来人間は言語を駆使して利害関係を調整しあうもの
であることから、
・世捨て人
・社会がよくなろうが悪くなろうが関心のない人
⇒自分の利益だけ確保されておればよく、社会の中で一方的に
不利益を被っている側の利益を慮らない人
というのは政治的な生活のうちにいないものですから
・政治について一方的に口出しするなんてもってのほか
といえる。逆に、
・卓越した利害調整能力 = それだけ言葉を駆使できるちから
のある人はその才能・能力を存分に活かせるポストである
社会、政治のトップたりうる人だと言える。
■なぜ実践が必要であるか
まず、わかっているだけでしていないことの無意味さは書くまでもない。
しかしもういっちょ。
実践していないと、そのこころが身につかない
という側面がある。さきにも書いたように
いろんな場面で物事を常識で解決できること
が人間であり、その能力がどこまでも通用する必要がある。
しかし、小っちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれ
ナイフみたいに尖っては力で物事を解決する方法しか
身につけられなかった人間は
常識で解決するノウハウが存在しない。
世の中にそうでない解決の仕方があることはわかっている。
しかし知っているだけでは何にもならないし、
やっとひとつ場数踏んだからって
そのやり方がどこでも通用するなんて思いなさんなよ
というもんですから、ひたすら世間の中で常識を突き通して
ゆくほかない。
このあたり「実践の宗教」である仏教も同じ考えだし、
聖書では「よいサマリヤ人」のくだりで有名。
祭司もレビ人も日ごろ善いおこないに欠けていたからサマリヤ人のように
「え?当たり前のことしたまでですよ?」ができないさま。
別に宗教の書物どうこうじゃなくても、
日ごろ道に落ちてるゴミひとつ拾えない人に
・美徳がなんたるか
・何がきれいで何が汚いとかいう話はまったく無意味
といったことがわかるか
という話であるからして、
そもそもゴミを拾うこと自体が美しいのであって、
ゴミを汚いものともきれいなものとも感じる意味がない。
ゴミがどんなものだろうが撤去されたあとの様子・結果には
まったく関係はなく、ただその結果を待ちわびている、
拾われるためにあるもの、拾われることが目的のもの
がそこに鎮座してるだけという事実。
ということに気づかないし、わからないからできない。
■じゃあわからないまま終わるのか
そもそも。
その「ゴミが拾えない人」、果ては「平気でポイ捨てする人」には
何が欠けているか
と言われれば
(美的センスとしての)美意識
が欠けているとも言えるし
(道徳的センスとして)美徳
が欠けているとも言える。
では美意識・美徳はどこからくるのか。
内なるものか?ふつふつと湧き上がるか?
いやいや。
だとしたら彼らはポイ捨てしない。
なぜなら
「『ポイ捨て』という美しくない行為」という概念そのものが
存在しないからだ。
もっと言えば、
盗んだバイクで走り出す(カッコイイ)十五の夜
という概念の持ち主は
自らの命も顧みないどころか、突飛かつ没個性的という
相容れないものを高次元で融合した80年代の奇抜なファッションで
この21世紀の夜を音楽センスのかけらもない音を発生させて
駆け抜ける、思春期のありあまる自己顕示欲のかたまり
という概念を持ち合わせていない。
しかしこれら2つの概念は共通点がある。
ともに、外から植えつけられた美意識・美徳
であること。
オザキとか特攻の拓ど真ん中世代のやんちゃな子たちは
ブッコミって美しい
という了見でいる一方、そうでない人間からしたら
今日びまだいたんだ珍走団
くらいの認識でしかない。
■そういうわけで
誰かが美徳のお手本を示さなきゃいけない。
それが
政治
の役割であり、わかりやすい例をあげれば
・法律によって「美しくないものリスト」をつくる
・裁判によって「美しくないおこない」を罰する
・天然記念物を制定したり、国民栄誉賞を付与するなどして
「美しいもの」「美しいおこない」をしめす
といった活動にその考えが見て取れる。
■まとめ
善い市民(善い習慣づけが身についている人間)でいるためには
・徳を実践する
・何が善いことか、美しいこと・ものであるかについて
力でなく言葉で折り合いをつけること
が必要。
***
Lecture 1~2
アリストテレスの「適合性」
■足の悪いプレーヤーに対する措置
ゴルフをプレイすることはできるが、足が悪いため
移動をカートで行わなくてはならないプレーヤーがいる。
彼はツアーに参加する上でカートの使用許可を主催団体に
申し出たが、主催者側はこれを却下。決着は法廷に。
主催者側の判断は正義か?
ここでの論点は2つ。
・歩くことはゴルフの目的に含まれるか
・そもそもゴルフは、強靭な体力を要する部類のものであるか
まずひとつめについて。
いろんな意見
・カートを使用している大会もある
・いやいや、基本的にコースを歩くのもゴルフのうち。
それがいやならカートの使用を認める大会なり、
「障がい者スポーツ」としてのゴルフ大会に出ればよい
これについて司法は、歩くことはゴルフの本質に含まれないと
判断したためプレーヤーの側の意見が通った形になった。
つぎにふたつめ。これは司法うんぬんはなかった。
たとえば。
マラソン大会に、足が不自由という理由で特殊な機械を装着した靴を
履いて出るのはおかしい。
これは、走ることが目的に含まれるということもあるけど、
それ以前の問題として
マラソンは、純粋に足の速い人を讃える競技
であるわけだから、
足が不自由であるならば、その時点で(一般の)マラソン競技に
参加する資格はないというかあっても特別扱いなし
ということになる。
この観点から言えば、仮に
ゴルフが、一部の人間がカートに乗ることさえも許されないほど
みなが筋肉を酷使する体力勝負のスポーツ
であり、
ゴルフが、そのすさまじい筋力体力を讃える競技
であるならば
カートは特殊機械靴に同じく使用は許されない。
どっこい。
我々の共通認識ではゴルフというのは
メンタルなスポーツ
であるからして、ある程度の集合知としての文献としてあえて
wikipediaを引用するなら
>精神力が重要とされ、精神力7割技術力3割とも言われている。
てな具合。つまり、ここでのくだりに沿うなら
体力でなく、技術と精神力が讃えられるスポーツ
と表現できる。
■適合するもの
以上のことから、我々は
・マラソンの勝者には、足の速さを讃える
・ゴルフの勝者には、技術と精神力の高さを讃える
その一方で、
・マラソンの勝者には、腕力の強さを讃えない
・ゴルフの勝者には、体力の強靭さを讃えない
これはどういうことかというと、
勝者に与えられるものは、それにふさわしい賞賛・名誉
であり、アリストテレスさんの言う正義にはこのふさわしさ、、
すなはち
「適合性」
が含まれる。
適合性の問題をスポーツでなくほかのものにあてはめると
・字がきれいでないと競泳競技に出られない
・手がきれいでないとコールセンターで働けない
・話し方がきれいでないと代筆バイトで働けない
などなどといったことは正義でなくなる。
■ここまでのまとめ
アリストテレスさんの言う正義とは
・目的に合致するか
・適合するか
ということ。
・絵の上手い人が絵を描いて物を食える
・話の上手な人が話術で物を食える
・手先の器用な人が技術で物を食える
ことがかなうのがよい社会となる。
■ちょっと待ったのロールズ
目的から正義を論じた場合
平等な基本的人権が脅かされる
というのはロールズさんの談。
これはさきにあった
政治は、個人が何が美しいかとする価値観の自由を保障するもの
というものに立脚している。
なにが政治の目的か、なにが美徳たるやなどなどが、
目的が決まっているものとして語ってしまうと、それに沿わない
・「まちこわし」看板の"表現の自由"を侵害してはいけない
・う○こマークやおま○こマークの落書きは芸術たりうる
という価値観・自由をないがしろにしてしまうから。
そしてこの価値観の違いから
なにが目的というものについて価値観の統合・同意が
なし得ない以上目的論で正義を論じ得ない
と断じた。
そういうわけでここで、
・スクール水着をAV女優に着せる美徳・美意識、権利・自由が
あったっていいじゃないか
・目的が異なるからAV女優+すく水は善でないという自由の制限、
適性・才能があるからこの職業に就くべき、という自由の制限
という考えの問題、
1.「権利が善に優先するかしないか」という問題
2.「自由な道徳的主体とはどのようなものか」
が生まれる。
これを言い換えると
自由とは、役割や目標・目的を選べることか否か
という問いになる。
この問題は次回へ続く。