2010年9月15日水曜日

第11回 「愛国心と正義 どちらが大切?」

Lecture 1・2ぶちぬき

新たな義務

 ■ちょっと待ったのカント

  カントさんはアリストテレスはアホやと一蹴した。
  その理由は

   社会が善のお手本、特定の価値観をリードすることは
   (選択・信条などの)自由と反するから

  というもの。


 ■何が違い、問題になるのか

  カントさんとアリストテレスさんとの間で
  「人間が自由である状態」の解釈が異なっていることが問題となる。

  アリストテレスは

   潜在能力を発揮する力がある限り自由だ

  とした。さきの例で言えばこれは

   最高のフルートが、それを得るにふさわしくない者によって
   "邪魔・横取り"されずに最高の奏者のもとへ渡る

  さまをあらわしている。
  いうなれば、

   興南の島袋くんは、甲子園でチームを勝利へ導いたこと
   のみならず、光る才能が本物であることを証明した以上、
   それにふさわしい場、プロの舞台で活躍する権利・自由が
   あることは誰しも認めるところ

  であるから、今すぐにとはいわないけど

   いずれその道に進めるパスがちゃんと存在し、それがかなう

  ことこそが彼の「自由」であるといえる。
  同じ視点で言えば

   イチローは日本のプロ野球という枠でなく、全世界に
   活躍が伝えられるメジャーの場で活躍できて然るべき

  であり、

   日本のプロ野球の思惑で海外へ出させない

  といったことがあるならば、それは自由ではない。
  裏返せば、

   メジャー級の実力のないプレーヤーがメジャーに行けない

  というのは自由が制限されているものでもなんでもなく、

   そもそもそんな「自由」なんざ持ち合わせていない

  といえる。
  つまるところ適合性の有無がそれにかかる自由と結びついている。


 ■カントさんの唱える自由

  一方カントさんは

   自律的な生き方こそが自由である

  とした。これもさきにあるとおり。
  これをかみくだいて一言で言うと

   選択の自由アハハン

  に集約される。これは本当の意味でフリーダムなもんですから

   ・盆や正月にも、親の顔を見なくてもよい
   ・結婚式に親を呼ばない
   ・卒業証書さえもらえれば卒業式欠席
   ・中元や歳暮はもらう一方でお返しなんかするものか
   ・ご先祖様の位牌を燃えるゴミの日に出す
   ・なにも恩恵を受けないから町内会費を払わない
   ・異動になって1週間、これといって会話もないから、たまたま
    入れ違いになった人の送別会に出ないし餞別代も出さない

  ということもみいーんな肯定される。


 ■なんでしょねこの違和感

  上記のことがらはすべて何の罪にもならない(はず)。
  誰かの金銭を奪ったり、誰かを誹謗中傷しているわけでもない。
  しかしなんかヘンだ。

  ここで選択が自由に可能であることが、どこかしら問題となる。
  それは

   伝統やしきたり、社会通念に反している

  ことであるからだ。
  このことから、どうやら我々には

   伝統やしきたりなど、「ローカルな善」を守らなくてはならないという
   なにかしらの圧力が存在する

  ことがわかる。
  これは同時に

   自分の家族や地域社会、国家・民族などのバックグラウンドを
   無視した上で善悪を判断することはできない

  といえることがわかる。
  盆に顔も見せない家長なんて一族総スカン以外の何者でもない。

  たとえばつまり、家長においては
   
   家督・仏壇を受け継ぐこと、しきたりを守って盆などの
   セレモニーを実施することなど

  が期待される。
  もっと言えば、これは義務として存在する。
  こういったものの上にある自分を

   負荷ありき自己

  と呼ぶ。そしてこれは

   コミュニタリアニズム[共同体主義]

  というものの考え。
  これは個人主義の考えからしたら自由を制限するものになる。

  つまり

   個人主義 :放蕩息子
   共同体主義:親戚社会

  という構図がここにある。
  この義務は尊厳・相互性といったものや自発的な義務(自律)とは異なる。


 ■マッキンタイアさんの主張

  親の過ちを子が償うという概念がある。
  これを広げると

   親の世代がおこなった過ちの責を引き受けるという概念、
   生まれが自分の生き方について制限を与えることは否定のしようがない

  といえる。
  個人主義においてこれを正当なものにするには

   「自分の気が向いたから責を負う」

  という、自由な判断による"引き受け"によってなされる。
  しかしこんな考え方はアホやでとコミュニタリアニズムの立場にある
  マッキンタイアさんは言う。


 ■はい!?

  罪を犯した者の子はそれを負い目に生きろとも言っているような
  このくだり。
  そこんとこ親は親、子は子ではいけないのか。
  いけないのはなぜか。
  親のおこないから目をそむけることがなぜ正義でないか。
  
  たとえば。

  親が殺した人間の子と、その人殺しの子は何も枷がない状態で
  友達関係が結べないとでも言うのか。

  ・・・まあ、ふつう結べないわな。無理だ。

  たとえありがちな友達同士の冗談でも

  「親の顔がみてみてえわw」

  みたいなことは言えない。お前が言うなみたいなところはある。
  というか、親密になること自体かなり難しい。

  ここで「親が人殺しだろうが関係ねえ、俺は俺だ」なんて言ったら

   別に罪もねーし悪かねーけどなんかあいつ腹立つ
  
  という世間様の評価に甘んじることになる。

  自身に非はない。
  しかし明らかに相手を気遣わなくてはならない立場にある。


 ■義務についておさらい

  ~しなくてはいけない、というのは広い意味で

   義務

  だ。ならば今一度義務について整理。

   1.特定の個人に対する義務
    ⇒「尊厳」のある他者という考え。
     そしてこれに基づく、お互いが貸し借りなしで
     あるべきとする「相互性」

   2.自発的な義務、自己が自己に課す義務
    ⇒ex.)"約束は守るものだ"という信条

  これらの考え方はカントさんやロールズさんのものに沿っている。
  負荷ありき自己を、ここでの2番目、自発的に選択した考え方であると
  とらえることもできる。
  しかし、さきに書いたとおりマッキンタイアさんは先回りして
  そんなんちゃうでと言っている。

  また同様に、負荷ありき自己というのは家族や地域社会、
  国家などなどの中において何かしらの恩恵を受けたことに対する
  「相互性」の問題であるとも考えられるけど、やはり
  コミュニタリアニズムでは別物として取り合わない。


 ■そこでマッキンタイアさんほかコミュニタリアンは

  3つめの義務の存在を提唱。
  それは

   連帯、忠誠心、集団の中の個という意識からくる義務

  というもの。
  家族愛にはじまり、親戚や地域社会の助け合い意識や仏壇うんぬん、
  果ては愛国心までもろもろこれにあたる。
  個人主義につっぱしるとこれらみんな見失ってしまう。

  ちなみにこれは同意によって発生するものでなく、

   その集団に生まれた・入った、属している

  といった理由で発生するもの。
  普遍的なものでいえば家族・故郷により負うこととなる
  義務があげられる。

   ex.)
    ・溺れる2人
    川で自分の親とどっかのおっさんが溺れかけている。
    場所はどちらも岸から同じ程度。
    さあどっちを先に助けようとする?

    ・手をさしのべる先
    全国的な豪雨で被害があちらこちらで発生。

     地元の町
     となりの町
     地元の都道府県
     姉妹都市    
     それ以外の町

    救援募金をおこなう優先順位は?

  仮に彼らが自分にゆかりのある人間らを優遇したことで
  それが許される、ともすれば褒められさえするならば
  それは何によるものか。


 ■つーかこれって

  孔子・儒教の道徳観そのものじゃね?

   >葉公が孔子に話した、
   >「私どもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が
   >羊を誤魔化したときに、息子がそれを知らせました。」
   >孔子は言われた、
   >「私どもの村の正直者はそれとは違います。父は子の為に隠し、
   >子は父の為に隠します。正直さはそこに自然に備わるものですよ」
   http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/7_1.html#anchor395755

   解説
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039582855

  たしかに世の中はただしい/ただしくないというものは存在する。
  しかしそれだけではおさまらないものってあるんちゃいますのという
  考えで、別の例を出すと

   1.人間の尊厳としての生命を奪った
   2.人を殺めてはいけないという法を犯した

  しかし

   3.兄弟の願いを聞き入れてやるという義務を遂行した

  という3番目のポイントがあるから高瀬舟は人の心を打つ。
  おなじことは杜子春の馬の両親のくだりでも言えるし、
  マザーテレサか誰かなら

   「遠くで困ってる人々を助けようとするよりもまず、
    手の届く身の回りの不幸な人間を助けようぜ。
    慈悲の心はそこからはじまるんよ」

  とったような言葉を残しているあたり、人間の善というのはこのあたりにも
  なにか存在する。


 ■これは偏愛なのか?

  博愛を地でいくマザーテレサが言う(ソースみっけた)のだから、
  完全なる偏愛であると言い切れないことはまずまちがいない。
  
  ではどのあたりがが偏愛でない理由となるのか。
  あるいは、偏愛じみたものでさえ、なにかもってすると偏愛でなくなると
  いえるのか。

  羊泥棒のくだりでは他者の利益を害したが、家族の義務は果たした。
  高瀬舟のくだりでは社会のきまりを破ったが、兄弟の義務は果たした。

  いずれも、複数の「正義」が衝突している。
  しかしここではいずれもより自分に近しい正義を選択している。

  これはともすれば自分や自分の近しい人物、イコール広い意味で
  「自分」の利益を追い求めるものであり、もはや正義ですらない、
  傾向性・利己主義ではないのかという見方もできる。

  さてどう説明つける。


 ■善の根源とアイデンティティ

  善というのはアイデンティティと非常に強く関連している。

  そもそもアイデンティティを構成するのは

   1.他者と独立した自分というバディアンソウル
   2.自分の行為は自分で決定しうる(自己同一性としてのid)

  そして

   3.自分の帰属先への愛着・忠誠(帰属意識としてのid)

  の計3つ。ほかにもあるかもしれないけどとりあえずこんだけ。
  これまででてきた善の概念は

   1.尊厳のある、互いに独立した存在としての自分そして他者
   2.人間は自律的であるとする考え

  で語られてきた。これらはそれぞれとリンクしている。
  ならば、

   3.自分を形作った家族・社会などの組織に対する帰属意識

  というものも善・正義に関連していて然るべきものといえる。
  これがここで語られている部分。

  アイデンティティの形成において影響の大きい帰属先というのは
  たいていの場合家族がこの世で一番。
  その次に生まれ育った故郷の社会、自治体、国家・・・といった順になる。
  (もちろん人によりけりだし時と場合によって変わるかもしれない)


 ■西洋人の説明するこのややこしいもの、なにかに言い換えられないか?

  というわけで細かいとこすっとばして考えた結果がこれ。

   1.義 互いの尊厳をおかさないもの、相互性

   2.正 人間が自律的であるさま、正しい行いをするさま

  つまり、カントやロールズの言う正義はこの2つに集約される。
  しかし儒教ではこれだけではない。

   3.仁 思いやり、同情、共感、慮ること

  この3番目は連帯や帰属意識につながっているもの。
  連帯していないもの、目の前にないもの、状況を分かち合って
  いないものには共感や同情はおきにくい。
  しかしそれらを同にしていると否が応にも伝わってくるもの。
  それを無視することはただしいことではないとする考え。

  羊泥棒のくだりなら、盗人にも理があるさまを理解できる立場にあるし、
  高瀬舟なら弟の思いを兄は痛いほど受け取った。

  杜子春は両親の痛み、そしてその中でも自分を思ってくれるさまを
  まざまざと感じ取った結果仙人になることはできなかった。
  しかし仁のない人間は仙人になれっこないし、それどころか
  生きている資格さえないと謎の老人Xは言う。


 ■仁と利己主義のちがい

  いくら慮ってみても、どこまでも私利にまみれた悪人のこころには
  共感することができない。
  おかげで実の親について「経営している学校を食い物にしている」と
  メディアに告発する息子も世の中にいる。

  逆に、人殺しギャングの親玉について、「殺ってなきゃ殺られてた」
  という事情がわかっておればかくまう気持ちも起き、それを行動で
  しめす人間もいる。

  一方、企業内犯罪についてほかの誰も慮ることなく、ただ己の保身の
  ためだけに告発しないのだとしたらそれは、ただの傾向性・利己主義
  でしかない。

  つまり、

   相手を慮る気持ちの有無で傾向性の産物かそうでないかの振り分けが
   おこなうことができ

  そして次に
  
   相手を慮る気持ちはあっても、そこに善(正義)がなければ
   擁護するにふさわしい筋の通った理由付けはおこなえない

  と結論づけることができる。


  何がいいたいかと言うとつまり、

   義理[正義]と人情[仁]はワンセットであり、別物でもある

  という考えなんだよということ。
  最終的に大事なのは

   善に拠ること

  だというおはなし。


 ■商売に私情がどうたらこうたら

  とは言うけれど、それは義理だけで商売しているのであって、
  どこか人間味がない。
  おかげでコンプライアンスが心持ちの問題でなく規則で縛るという
  発想しかできなさそうな。

  べつに商人に限ったことではないけれど

   ~以前に人間であれ

  というのは、仁をもてということなんじゃないかしらね。
  ~の部分にいろんな職業名がつくと思うけど、それだけその道に
  就いている多くの人間らのコンプライアンスが危ういという状況で
  あるあらわれであるかもしれない。

  ことわざにゃ「医は仁術」という言葉があるけれど、意味合いは
  「人間であれ」に同じ。しかしそれ以上に

   ・言葉の発せない重症患者
   ・言葉にできない乳幼児や老人
   ・とにかくこころががおだやかでいられなくて言葉にできない人

  などなど、容態を知ることさえものすんごいエネルギーが必要になる
  人たちに全力で立ち向かっていく姿勢をあらわしたものに思える。


 ■ルールだけで世の中はまわせるのか

  リベラリズムを肯定する人間はイエスと言うし、
  コミュニタリズム派はノーと言う。
  
  しかしコンプライアンスが崩壊してしまった背景には

   ルールさえ守れば何やってもよい

  というリベラリズムが横行したことがあり、サブプライム
  うんたらで経済は破綻、そしてゴールドマンひとり勝ち。  
  日本人はバブルで浮かれてシメはソロモン・ブラザースが大もうけ。
  世界では武器や地雷を売ってもうける国あれば手足のない人間が
  大勢いる国もある。

  何度も何度もくりかえし、そのたびそのたび辛酸をなめる。
  自分がババ引くまでやめられないロシアンルーレット。

  まわっているのは世間か、終焉へのリボルバーか。


 ■近江商人のことば

  「売り手よし、買い手よし、世間よし」

  この「世間」というものが、コミュニタリズムでは「共同体」をさすはず。
  世間よし、忘れられてませんかね?