2010年9月15日水曜日

第12回 「善き生を追求する」

Lecture 1

ルールと目的

 ■人種分離主義者の思い

  人種分離主義、悪い言い方で人種差別主義を容認する中で
  生まれ育った人間たちは、それを変えることを望まなかった。
  極端な話、それがよいことか悪いことかはまったくの別問題で
  あって、その社会自体に愛着があると言ってよい。

  これは、どっかの記事で読んだ「校風が変わるのには否定的」
  という卒業生の思いであるとか、犬だのイルカだのといった
  食文化でモメているところにあるものと基本的な構造は同じ。

  もっと軽い話題でいうなら、「バカボン」や「おそ松くん」、
  「サザエさん」といったまんが・アニメでは

   「おいおそ松、ちょっとタバコ買ってきてくれんか」

  といった会話が当たり前にあった。
  今じゃ禁煙うんぬんや未成年の喫煙どうたらタスポなんたらで
  金輪際そんな表現はでてこない。

  それについて、昭和生まれかつ喫煙を毛嫌いする側でない
  人間である自分たちにとっては少し寂しい気するけど
  これが現実なんだからしょうがないと落ち着くところの話。

  別に肯定否定ではなく、そういった風景があったし、実際自分も
  近所のお店にお遣いにやられ、駄賃代わりに買うことを許された
  駄菓子をほおばった記憶、サンデルさん言うところの

   「物語的観念」

  があるものですから共感するところはあるねというだけであって
  別にあのころがよかったとか今がよくないとかいう意味はない。

  これは善悪でなく、愛着の問題だからだ。


 ■うちなータイムと石垣島の交通

  「沖縄人は時間にルーズ」

  ということは全国的に知られるところでありまして、
  「19時集合」は「19時に家を出る」と同義であると言ってよい。

  しかし最近は沖縄もヤマト化が進み、そういったこともなくなり
  やたらあくせくした世の中になってしまった。

  一方、石垣ではクラクションを鳴らすのはご法度とのことで、
  それは今でも守られているらしいあたり、うらやましくも思う。

  これら

   ・時間通りに集まらない
   ・クラクションは鳴らすほうがrude

  というものについて、正義に照らし合わせるなら

   ・時間を守らないとは正義でない
   ・公共の道路を我が物顔で占拠するのは正義でない

  という見方になる。しかしこれが必ずしも肯定的にとられないか
  というとそうでもない。
  逆の見方がそこにはあって、わかってるんだかわかってねえんだか
  よくわからんヤマトゥーの表現をするなら

   ゆっくりとした島時間

  てなもんがそこにある。


 ■つまりどういうことね

   道路交通法という、日本国の普遍的なルール

  を超越した、ラー油記事の言葉で言うところの

   島の流儀

  というのが確かに存在するということ。
  ローカルな善が、普遍的な善を超えるところはあるよねと言える実例。

  この、島の流儀を肯定し、正義たらしめているものはなにかというと
  それこそが

   「島」や「島の流儀」に対する帰属・愛着・共感

  にほかならない。


 ■いやいやちょっと待て

  じゃあ道路交通法はどうなるのよ。
  なんのためのルールやねん。

  という話になる。
  
  そうやって普遍化することだけに正義を見出すと、学園ドラマの中に
  登場する「学級委員長」「風紀委員」のような

   規則至上主義

  の鼻つまみ者になってしまう。
  これはどういう了見かというと

   そのルールが何のためにあるのか

  という根本的な部分を見失っているところにある。
  
  たとえば、時間を守るというルール。
  これは一緒になにか行動を共にする上で、誰かが待たされることで
  気分を害するとか、金銭的・機会的な損失が発生するということが
  まずいという点があることから、それを防止するためのもの。

  しかし、それらについて

   ・別に待ってても気分を害しない。お互い様
   ・飲み会程度で金銭的・機会的な損失が発生するわけでもない
   ・誰かが死ぬわけでもねーし

   もちろん店だってこの島にある以上

   ・時間通りに来る客なんざナイチャーくらいのもん

   程度にしか思わない。

  という価値観を皆が共有していたらどうだろう。
  その場合は時間を必ずしも守る必要はない。
  なぜなら、

   皆は時間を守るという必要性をみとめず、それを目的としていない

  と言えるから。
  同様に、クラクションin石垣のケースでも

   ・別に待ってても気分を害しない。お互い様
   ・数回の信号待ち程度で金銭的・機会的な損失が発生するわけでもない
   ・誰かが死ぬわけでもねーし、つか、鳴らしたら死ぬかもしれんし

  という価値観をそのコミュニティが持っていたなら、これも

   ゆずり合いができない、信号がないとまともに走れない
   心の狭い人間らを信号機で統制することで円滑で安全な
   道路交通システム確保する

  ということを目的としたルールづけはこの場面では必ずしも必要ない。
  なぜなら、皆の意識が

   じゅうぶんゆずりあいのこころを持っている

  から。
  却って、余所者がそれを否定してルールについて声を上げる場合、
  イコール

   むやみに普遍化する

  場合、

   ただぼーっとしてるだけのオジー

  を

   道路を占拠し、譲らずにいる者

  と断ずることになる。
  しかしそのオジーには譲る譲らないという気はないし、
  そのコミュニティではそれも理解しているのに

   心の狭い、自己を譲れない、口うるさい余所者がなんか言ってる

  ということになりかねない。


 ■つまりどういうことよ

   ルールというのは、目的あってナンボのもんであって、
   アリストテレス的な考え方でテロスを見てみる必要がある

  ということ。


***


同性婚はアリか

 ■まず異性婚のテロスを考える

  ボーイミーツガールを経てくっつきました、というものを

   社会化

  するこの風習。
  全世界いろんな民族・宗教あれど、婚姻・夫婦というシステムそして
  それをみなで祝う婚礼というセレモニーがまんべんなく存在する。

  これは何のためにあるのか。
  ただくっついて暮らすだけではだめなのか。
  くっついて暮らして子が生まれて育つだけではだめなのか。
  なぜだめなのか。

   なぜ社会化する必要があるのか。
   その目的はなんだ。

  まずここでいえるのは

   社会的な儀礼として祝う

  ことがらである以上、

   社会がみとめるよいもの、よろこばしいもの、美徳

  のひとつであることが確かだということ。


 ■社会化の形態

  日本人だから日本式に考えてみる。

  そもそも、平安時代にゃ戸籍台帳というのはなかったはず。
  婚姻届という紙っきれはなく、結婚は

   婚礼の儀式

  でもって成立した。
  じゃあそのセレモニーの目的ってなんやねんなってーと

   ・夫となる者、妻となる者、そして社会の3者間の同意の確認

  であると言える。
  同意があることから、これは

   契約の儀式

  であるといえる。
  夫は妻に、妻は夫に、夫婦は社会に対して契約を結ぶ。
  この時点で、

   ・1. 夫とその家族は妻とその家族の同意を確認する
   ・2. 妻とその家族は夫とその家族の同意を確認する
   ・3. 1・2をもって、社会は双方の同意を確認し、
      同時にふたりを夫婦としてみとめる

   つまり、社会が両者側の同意があったことを担保する役目となるし、
   その結婚が社会的に認められるもの、社会通念に反していないことの
   お墨付きを与えることにもなる。

  さてこれでよいですかねってーと、意外とそうでもない。
  なぜなら、社会の側が

   ・あの結婚はやっぱナシ。認めない。

  と、手のひらを返してしまったら、ふたりの婚姻関係はとたんに
  社会の担保がなくなり、皆に認められないものになってしまう。
  だから、

   ・4. 社会は、ふたりの婚姻を認めたことを神仏に誓約する

  という、絶対的なものに拠ってはじめて完璧なものとなる。

  だから、結婚式には「立会い人」という概念がある。
  ドラマや映画での結婚式でありがちな光景、

   「この二人の結婚に異議のないものは沈黙をもってうんたらかんたら」

  というのは、参列者を「承認を与える社会」として巻き込む作業。
  立会人なくして、誰が社会の代表として見届けるか、また、いかにして
  立会人が結婚をみとめたことを担保するかと考えればこーなる。
  同様に、婚姻届に証人欄があるのはこの考えに基づいているといえる。

  余談を言えば、たとえは悪いかもしれないけど任侠の手打ちも考え方は
  これに同じで、人と人、あるいは組同士の仲直りの場を任侠社会が見守り、
  さらにそれを神道の神の前でおこなうことにそれぞれ意義がある。


 ■ある意味個人主義

  新郎・新婦がそれぞれ神や仏に誓うんじゃないのという考えも
  ありそうだけど、そもそも日本における結婚と言うのは

   家と家の結びつき

  であることにちがいない。これは

   山田 家
        結婚披露宴
   田中 家

  と書いてあるところから見て取れる。
  本当に男女個人間の結びつきならば

   山田 太郎
        結婚披露宴
   田中 花子

  と記されるはず。でもそうでない、実際。

  以上のことからやはり旧来は、家と家という社会のむすびつきに
  より大きな社会が同意し、社会がそれを神仏に誓約するという
  かたちと言える。

  この点で言えば、両家がみとめる神仏という共通認識がないと
  心情的にイマイチ説得力もないもんですから、共に生活を始める
  以前に、このあたりですでに宗教の違いは溝となりうる。

  もっとも、最近じゃセレモニーでさえ※神や仏の存在を置かず、また、
  家と家との結びつきでなく個人間の結びつきという概念を持つ
  日本人も多いことですから

   人前式

  という、社会に対して夫と妻が誓約をおこなうかたちもあったり。
  よいか悪いかというのは別にして、そういう価値観があるというだけで。

  ※クリスチャンでないけど式だけは教会で、の発想


 ■なんにせよ

  婚姻というのは、社会が夫婦関係をみとめる、そのふたりの関係が
  「夫婦である」と社会がみとめる担保であるからして、そこには

   社会の承認

  が必要不可欠であるといえる。


 ■僕の髪が肩から伸びて

  我々が一般に

   「結婚しようよフフンフン」

  と言っているのは、ややこしい言葉で言うと

   「社会に認めてもらう作業をしようよフフンフン」

  ということになる。
  そもそも、結婚"後"、つまり婚姻生活そのものについて
  まず語弊を恐れずにざっくり言えば

   世の男女に思惑いろいろある以上、共通するひとつの目的はない

  と言える。
  
   ・ジジイの遺産がほしいから
   ・ゲイ偽装結婚
   ・国籍ビジネス
   ・酔った勢いで目的なし

  などなど、それってほんとに婚姻かいなというものだってある。
  しかし、そんな彼らでも

   結婚することはできる。

  つまり、「結婚」というものは

   社会がふたりを認めるということが目的のイベント・手続き

  であってつまり、

   「夫婦になること」そのものを認めるのであって
   「どんな夫婦になるか」という方向性はなにも定めていない

  といえる。なのでたとえば

   セックスしろとか子どもを生み育てろとか言う発想なんて、
   結婚そのものには微塵もない

  と言える。なぜなら

   性行為は夫婦の必要条件でないから。

  結婚し、死ぬまで寝るときはお手てつないで寝るだけ
  というふたりは、夫婦でないと言えるのか。

   セックスなんてそんな発想とんでもない!

  というかつみ&さゆりイズムな考えは、夫婦として
  「あるまじき」ことなのか。
  ふたりしわくちゃになって、こたつでなかよくみかんを食べて
  微笑みあっているだけでは夫婦でないと断言するのか。

  大事なのは性の営みでなく生の営みではないのか。

  ハーバードの授業での討論はマークにはじまりライアン、ハナまで
  そこから論じ始めてしまったがために

   結婚でなくセックスの目的についてさえ定義し始めた

  ものだから、ぐちゃぐちゃになってしまった。


 ■スティーブの視点・論点

  というのはまさにここのぐちゃぐちゃを指摘したもので、

   マスターベーションは人が許可するものではない

  というたとえから

   結婚生活におけるセックスの有無は人がとやかく言うことでない

  と、この流れをバッサリ切り捨てた。


 ■話戻って

  そういうわけで、夫婦にかかる法律と言うのは

   どんな夫婦になるか

  ということは定めておらず、法が制定された当時の社会通念としての

   夫婦ってまずどういうものか

  といったものしか定めていない。だから  

   ・夫婦は同じ苗字を名乗る
   ・夫婦は同居し、協力して生活する

  といったあたりのごくごく限られたもの、つまり

   最低要件

  にしか言及しておらず、これをもって社会は婚姻をみとめますよ
  というものでしかない。


 ■最低要件というのがミソ

  その社会の認める夫婦であるためには、その社会が要求する最低要件を
  クリアする必要があることはわかった。

  現状、

   ・3次元の相手がいないラブプラス人間
   ・一緒に住むとか協力するとかいう気がない相手を持つ人間
   ・同姓を名乗る気がないカップル
   ・同性と一緒になろうとするカップル
   ・男18歳未満、女16歳未満

  などなどはクリアできない。
  これはその法律が制定された時点の社会から価値観がさほど変わっていない
  ともいえる。

  しかし、夫婦別姓や同姓婚論争が起こっている以上、社会の持つ価値観は
  確実に変化している。
  

 ■ところかわれば

  一夫多妻の文化の国だってあるわけで、結婚の要件は世界中で
  ひとつではない。
  じゃあなにが要件を定義するかというと、それを認める

   社会

  にほかならない。言い換えると

   その社会が、その社会における結婚とはなんたるやを定義する

  わけだから、

   社会の関与なくして結婚という概念は存在しない

  ことになる。

  
 ■もし仮に

  社会が結婚について認める/認めないという立場を一切とらず、
  自由に「私たちは夫婦です」と名乗ることができたらどうなるか。

  ギガジンかなにかの記事に出てくるよう、口の聞けない小さい女の子を
  とっつかまえてきて有無を言わさずおもちゃ同然に扱っておきながら
  
  「夫婦ですがなにか。問題でも?」

  と、ダンナが宣言できるのは正義だろうか。
  いやいや、少なくともこの日本では正義でない。
  日本の法律じゃ両性の同意からまず要件に入ってるし、
  物事の分別うんぬんの年齢制限だってある。

  ということはやはり社会が結婚の要件を定義しなくてはならない。

  なぜなら

   婚姻の概念は自然状態、もっと言うとイヌサルキジなどなど
   ワイルドな意味での自然に存在するものでなく、人間社会が
   つくったもんであるから。

  よって

   社会はいかなる結婚の定義も許可もすべきでない

  とするセザンの考えはヘンだ。


 ■いろんな文化あれど

   それでも共通する結婚のテロスってなんね

  というものについては、簡単に言えば

   永遠の愛を誓う

  くらいのものでしかなく、ここが多くの動物のパートナーシップと
  一線を画す、人間だけが、人間の社会が生み出した概念。


 ■そこで新たな問題発生

  永遠の愛を誓う目的である結婚というものが   
 
   当然、異性間のみでなされるもの

  と、限定しているかどうかが論点となる。

  
 ■たとえば宗教の存在

  同性婚についてはなんにつけ宗教がからむことが多い。

  さきにあったとおり、結婚というものが完全であるために
  社会が神仏に対して誓いを立てる必要があるなら、
  その宗教で同性愛をみとめていないと同性婚はなしえない。

  また、同性婚どころか異性婚でさえ宗教において指導する立場にある
  人間はできないとする宗教だってある。
  かくも結婚というのはややこしい。

  一方でタイなどの南伝仏教では

   「身体はこの世で生きるための借り物」

  程度のものでしかなく、

   その性別なんかたいした意味なんてねえや
  
  という宗教的価値観がございますから、ニューハーフやゲイってのに
  寛容であるし、むしろ

   心底異性・同性わけへだてなく同じように接するのが慈愛だろうよ

  という究極の愛をとくものですから、異性と性行為を行うんだったら
  同性とだって当然あってもいいだろうさというオーカマー

  
 ■このあたり

  リベラルである種ドライな個人主義では

   勝手にやってればー?

  で済みそうだけど、コミュニティの道徳観に配慮する形をとる
  コミュニタリアニズムではその道徳を形成するものに重きを置く。

  しかし宗教はそれでもって善のカタログみたいなもんですから、
  それぞれ他の宗教と相容れない部分が多い。

  ビジネスの世界でうんたらかんたらのくだりのように、

   政治と宗教の論争に終わりはない

  以上、ある意味やるだけ無駄といえる。


 ■じゃあどうするか

  論争をあきらめるのはよくない。
  なぜなら論争あってはじめてテロスを見極めることができるから。

  それぞれの価値観にたった論争はやってなんぼ。
  どこまでも論点・対立点とその根源にあるものを
  明確にすることそのものが大事。

  その上でそこにどうしても妥協点が存在しない部分がでてきたとき、
  人間ですから別の方策を考えることだってできるはず。

  たとえば。
  さきに出てきた人前式の考え。
  どうも宗教がらみで解決の糸口がみつからないぞというとき、

   神仏に拠らないパートナーシップという概念・制度って
   あっていいんじゃないの

  という考え方がブレイクスルーになりうる。
  特定の宗教における善の考え方を一切合切排除した上で

   ただただ永遠の愛を誓う

  という、シンプルなテロスをもった新たな婚姻制度を社会がつくる。
  これは神仏が絡む

   (ここで言う狭義の)結婚

  ではなく、呼称いろいろあれど授業に出てきた言葉で言うなら

   シビルユニオン[civil union]

  という、社会が市民に対して付与することで完結する、
  結婚と同等の権利が保障されたパートナーシップの形態を成立させるもの。
  これなら宗教うんぬんはまず排除できまいかというこころみ。

  もっとも、世の道徳は宗教のみならずいろんなものがある以上
  これで解決するわけでもない。
  しかし、厳密な意味で

   社会の承認で完結する

  制度である以上、その社会における過半数の同意をもって
  法に定めれば必要じゅうぶんな裏づけが発生する。

  しかしこれはひとすじ縄で一朝一夕にできないから
  レインボーカラーな運動がずっと続く。

  
 ■もうひとつの出口

  授業にあった、マサチューセッツ州のように
  最高裁判例でもって

   結婚のテロス、要件

  が同性を含むものと認めれば、それでもって社会のお墨付きがある
  状態になる。

  しかしこの行為は判例に付きまとう勝手な判断だの、司法の暴走だの
  といったコントロバーシャルな部分を大いに含む。

  日本のように多くが無信教な国ならそれでいいかもしれないけど、
  米国のようにキリスト教が多い国、ことにカトリックが政治的にも
  一大勢力をもっているような社会では冒険だったんじゃないかな
  なんて個人的に思う。

  まあ、リベラルな判例を打ち出せるほどにマサチューセッツ州が
  そもそも比較的宗教的にガツガツしてない社会であるのかも
  しれないけど。
  

***

Lecture 2

善と正義と哲学

 ■節度ある無関心

  善という多種多様な価値観は統一のしようがない。
  しかしそれぞれの善を尊重し、それら善の対立を調整する
  正義というものは得られる。

  その正義を見つけにゆくとき、必要なのは

   自分の善を相手におしつけないこと

  かつ一方で

   相手の持つ、自分と相容れない善にめをつぶる

  ことが大事で、武田鉄矢のラジオ番組で聞いた言葉で言い換えると

   節度ある無関心

  という態度で臨まなければその作業は

   善の対立を超える正義を見つけに行く作業から、
   ただただ善が対立することを確認するだけの作業

  になってしまう。
  しかしそれは同時に、

   相手の価値観を理解しにゆくことを放棄する

  ことでもある。
 
 
 ■どっこい。

  生きてきた中で、対立する側の価値観にもすぐれたところが
  あることをみとめ、結果それを自分にとりこんで成長してきた
  というところもなくはない。
  しかしそれには

   一度本気でぶつかりあう

  ということが必要。
  これは紛れもなく人間関係が一時的に、あるいは永久に悪化する。
  
  しかしそうやって宗教は長い歴史の中で分化や統合、決裂と和解を
  くしかえし果たし、ブラッシュアップしてきたところもある。
  一方でまったく交わりも変わりもしない原理主義というのもある。

  つまり何がいいたいかというと

   どんな相手であれ、相手から学ぶ余地がある

  と考えることが大事で、松下幸之助式に言えば

   自分以外みんな師

  とするこころがけは大事で、納得するしないは別にして
  聞く耳持っていいよねといえる。

  要は

   人の話を聞け

  つー話であって、さんざぶつかりあってまじわってはじめて

   正義

  ってもんが得られるんよというサンデルさんのことば。


 ■アリストテレスの言う、政治のテロス

  正義を探し、ゆえに対話を欲し、その上で

   言いたいことだけ押し付けたあとは
   相手の言うことも聞かずに見下す

  といった姿勢でいるのは、自分の善の押し付けにすぎず

   自ら望んだはずの正義から遠ざかる

  ことと言える。これはともすると

   対話の相手だけ新たな知見を得る一方で
   自分だけ何も得ないまま終わる

  ことになりかねない。
  おかげで

   政治的な生活といえない人生を送り続ける

  ことになってしまう。


 ■なにからはじめるべきか

   とにかく、世の中のいろんなことに関心を持とうね

  ということ。
  その点で言えば、新聞を読むことが大事というのは
  とても理に適ったことだとうなずける。

  そして、いざ善と善がぶつかったとき、善の目的を見極めて
  正義を選択するようにする。
  だから、信条による善やただの独善をぶつけてみたところで
  目的を見失っているようではそれは正義を得るプロセスでない。