歌詞はこちら。
愛する人を守るために、
大切なものを築くために海へ出た男たち。
待ち構えていたのは嵐。
嵐と戦うのならまだしも、あろうことか体勢もままならぬ嵐の中で
敵と戦わざるを得ないほどひどい有様だった。
そして。
命からがら、生き延びることができてたどりついた海の果て。
朝陽がきれいな、さえぎるものがなにもない東(あがり)を望む港町。
みんな聞いたことがある島、宝島。
そこはすばらしい場所だと聞いていた。
でもどこにあるか誰も知らない。
だから普通の人はたどりつけない。
しかし男たちはそこへたどり着いた。
中には住み着く人もいるらしい。
ひとつの場所に落ち着いてられない者は
また新しい場所を求めて船を出す。
さて。
そんな特別な場所。
普通の人たちは決してたどりつけない海の果て。
何も失わずに来れたとでも思う?
思い出してみなさい。
人は弱いものよ。
とても弱いものよ。
***
「私がいなくてはこの先どうなるか心配なのです。戻らなくては」
まだそんなこと言ってるの?
まだ気づいてないのね。それとも、認めたくないのかしら。
人って弱いものね。
祈る声はあなたに届いていないのかしら。
あなたを祈る声は届いてないのかしら。
ここはどんな地図にもない場所よ。
人が決してたどりつけない海の果て。
あなたは何も失わずにここへ来れたとでも思う?
思い出してみなさい。
そうよ
あなたは何も失わずにここへ来れたはずないわよね。
さあ、あなたがいなくたって生きていけることを認めなさい。
「あなたがいなくちゃ生きてゆけない」なんて、
その場だけの言葉でしかなかったことを受け入れなさい。
人は強いものよ。
とても強いものよ。
そして
人の命なんて儚いものよ。
消えた人の存在もまたおなじ。
***
「強く儚い者たち」は、戦争によって仲を引き裂かれた
人間らを歌っているという仮説。
強いて言えば、この島国の端っこから飛び立ち、
飛魚のすむ海を越えて、自らが「突風」となって散った男たち。
国と家族を守るために、
平和を築くという名分のために海へ出て
還らなかった男たち。
彼らは鉄の暴風の中で戦った。
砲弾の嵐の中へ、あまたの風が切り込んでいった。
しかし、
尋常でない大嵐は、そんなちいさな風たちを造作無く飲み込んだ。
人はあまりに弱い。
兵器の前ではまるで虫けら同然。
そして戦争のうねりの中では、人ひとりの存在もまた
あまりに小さい。
その最期、彼らは何も思い残さず死ねただろうか。
死してなお、易く自身の死を受け入れることができただろうか。
ぼろぼろになった羽根を抱えた男たちはその島でやっと
癒されることになる。
一方で残された女たちはたくましかった。
愛する者の死を乗り越え、気丈に生きた。
おかげで上の世代になると、家督や仏壇を継ぐ上で
必要あってきょうだいで違う苗字を名乗る異父兄弟らも
ちらほらいる。
生々しい話をすれば、戦死した夫の遺族給付を受け続けるため、
再婚しても新しい旦那の籍に入らなかったがために異父兄弟で
苗字が違うというケースもままあったりする。
苗字の数だけトートーメーがあるため、きょうだいで苗字が
異なるということはきょうだいで面倒を見なくちゃいけない
トートーメーが複数あるということになる。
これがまた戦死した親の兄弟も戦争かなにかで結婚する前に死んでいて
彼には子供がいないとなるとそのおじさんまで面倒みなくちゃいけない。
さらにそのおじさんが種違い腹違いだったりしたらあっち側の親戚に
法事行事のお知らせとか相談とか連絡付けたいけど連絡つきにくいし
あっちの親戚連中なんか疎遠だしでも付き合いだしetcetc...
誰が好き好んで面倒見るんだそんな面倒なもん!
というわけで沖縄の墓・門中問題はそう簡単ではなかったりするわけで、
これがまた少子化や内地の大学に行ったまま就職してそのまま
帰ってこないなどなど(これを”長男盆に帰らず”という)
仏壇や墓を継ぐにあたって諸問題が山積なことから、沖縄における
先祖供養・先祖崇拝の前途は決して明るくない。
かつてはウガンブスクーと警鐘を鳴らして歩いて回っていたユタも
科学の進歩に伴い信用は年々低下する一方妙な癒やし・スピリチュアル
ブームのおかげか沖縄人が別なものに救いを求めはじめる一方で
内地からはユタ目当ての観光客が押し寄せた結果、ユタの相手における
ヤマトゥーの比率が無視できないくらい増加したこのご時世。
まあそんなの全部すっとばして、戦後60年オーバーの現代ニッポン、
現代オキナワを戦争で死んでいった魂らは寂しくも思うかもしれない
けど、人って案外強く生きてゆけるってのはそれはそれで救いでもある。
話変わって。
さてこの歌い手。
この視点は「神」だ。
海の果てにいる、人々を癒してくれる存在。
部屋に招いてくれて、甘いお菓子もごちそうしてくれて
あわよくば抱いてくれるってーんだからそりゃわくわくしますわね。
抱くってあれですか!?だっこじゃなくて
あんなこととかしちゃう「抱く」ですかーっ!?(横島風に)
その素敵な神様、ちょっとお顔を拝見してみたい。
というわけで調べてみる。
まずその、海の果てにある島ってどこやねんなってーと、
それは「ニライカナイ」にほかならない。
東の果てにあるんだもんで、もう先になにもないことから
朝陽もよくみえることでしょう。
「天国」というのは垂直方向(要するに上。お空。)の果てにある
あの世思想であるのに対し、ニライカナイは水平方向(地や海を往く)の
先にあるあの世(グソー)思想。
「海の向こうの神の島」の概念は抱腹絶倒しながらこっちで学ぶが早い。
でもってニライカナイに住む神様。それは
ミルク神。
あらららら。
なんかおちちっぽい感じで想像力をかきたててくれますね。
なんてたって
ミルク!
みるく!
み・る・く!
ヒャッホーウ!
さあ見せてくれユアフェイス!
(photo by Mitsuru Ogino from wikipedia)
お・・・おおう。
なぜだ。どうしてこうなった。
ともあれ、ミルク神の伝承におもしろいお話ありんす。
沖縄民話「ミルク神とサーカ神【竹富町西表島】」~日刊OkiMag
http://okinawan.jp/minwa/minwa013.htm
***
以下妄想余談
■曲のコンセプト
この曲はJALのハワイキャンペーンCMソングだったそうで。
企画段階で
・平和ボケボケリゾート旅客機
・(はるか東にある)ハワイ
・楽園
で曲つくってくださいねと言われて
ハイ、
・特攻隊の戦闘機
・(はるか東にある)あの世の島
・極楽浄土
でつくりました!
って具合だったんならこのCoccoという人は突拍子も
無いこと考えるというか山下達郎やオメガトライブらの
築いたリゾートミュージックを一気に瓦解させるというか
君はテンパーセントというか。
■その他つらつら
・「ね」
愛する人を守るため 大切なもの築くため 海へ出たのね
嵐の中で戦って 突風の中生きのびて ここへ来たのね
これは歌い手の側が知っていること、というよりは
「男の語ったこと」を
なるほどなるほどそういうことだったのね。はいはい。
と繰り返しているに過ぎない。
本当に
生き延びて
いるかどうかなんて、まったく保証されていない。
穿った見方をすれば、本当に
平和だとかお国だとかのために喜び勇んで海へ出た
かどうかも怪しい。
誰かに吹き込まれたセリフをくりかえしているに過ぎないわけじゃない
ってことさえ
まったく保証されていない。
それはまるで
※個人の感想です
くらいの信用性しかない。
いくさ世(ゆ)という時代の中で、人の意思なんてどこまでが
ほんとうにその人のものかさえ、ぜんぜんわからない。
だから
※その時代に生きた人々の感覚・価値観です
とさえ言っていい。
なおこの「ね」は曲者で、やはり別の箇所で対になる使われ方がなされており
ここと違うニュアンスで後にふたたびお目にかかることになる。
ついでにちょっと掘り下げてこの部分のメロディを見て見ると
どれみみみみー あいするひとをー
みれれどしー まもるためー
みみみみみみみみ たいせつなものき
ふぁみれどー づくためー
(嬰ハ短調なのでドレファソが半音上)
と、やたら八分刻みで単調。
もはやボー読みである。言葉に気持ちがないのである。
もしこれが本当に心の底からの戦争大好き!っていう言葉で、聞き手の心を
揺さぶっていたのであれば「戦士よ、立ち上がれ!」くらい
アツい曲になっていそうなもんでしょうが、まあ、そうにはなってない。
じゃあ同じメロディが繰り返されるはずの2番ではどうなって
いるんでしょうねと見てみると、ちょっと様相が違う。
どれみみみみー あいするひとのー
みれーどしー みらー(ぃ)などー
みーみみみみみみ とーいめのままい
ふぁみれどー わないでー
と、緩急がついて棒読みでなくなっている。
また、この部分はこの曲の中で唯一語りかける相手に禁止を求めている。
「兄さんそこちがうよ」という部分には後述の「だけど」で反する事実を
淡々と語るか、あるいは「いられるとおもう?」と質問形式にして
はて本当にそうなのかなと一旦考えさせるようにして軌道修正を促す、
いわば
「選択肢や可能性を与えるけど強制はしない」
やり方であるのに対し、そこだけは
「言わないで」
と、明確にやめろやと遮っている。
温厚なキャラがめずらしく1コマだけ笑顔のまま怒りマークつけてるような情景。
・飛魚のアーチ、そして宝島
飛魚が見られるロケーションとして有名なのが鹿児島から奄美へ
向かう途中の海。
その海を過ぎると見えてくるのがトカラ列島。
トカラにはそのものずばり、宝島という島が存在する。
ひょっとしたらこのあたりをモチーフにして詞の世界を膨らませたのでは。
・「嵐と戦う」のではない。「嵐の"中で"戦う」
嵐"と"戦う、と思っている人もちらほらいらっしゃるようだけど、
嵐と戦うのなら、戦う相手は嵐だ、大自然の猛威。
どっこい嵐の"中で"とあるのだから、なにかしらまた別の存在と戦っている。
ところで。
ここでは「嵐」と「突風」という、似た意味の言葉が存在する。
これらがともに立ちふさがる存在、同じものを指す言葉として
使われているならば、無駄なくりかえしになってしまう。
「嵐の中で戦って、嵐の中生き延びて」
これは変だ。この読み方では後者の言葉が死んでしまう。
ということは、これらの言葉は対になっているはずで
これらを「立ちふさがるもの」「挑んでいくもの」の二者に
対立させるとこの矛盾は解消する。
では本来はどんな言葉だったかというと、
「嵐の中で戦う」
「突風の中から生き延びる」
ということになるんじゃないかしら。
このことから、死を覚悟して嵐に切り込んでいき、その先にある敵を
討ちにいく突風という構図ができあがり、さらに、この突風というのは
単独でなく複数の突風たち(集合体)であることが浮き出てくる。
・嵐 : 強大で襲いかかる手を止めない存在、鉄壁のディフェンス
・突風: いわばその場限りの、単発的なオフェンス(の群れ)
このあまりにもの力量の差。
・癒すのは「疲れた羽根」
港町にたどり着いたからといって、船でやってきたとは限らない。
羽根を休ませるのだから、はばたき続けたのでしょうきっと。
どうにかしてお空を飛んだのでしょう。
長い間下りられる場所もなくただひたすら飛び続け、果てにやっと
"空へと通ずる港"を見つけたのかもしれない。
(ここで少しJALをからめてるみたいな)
ひょっとしたら。
自ら飛べるようになったのでしょう、人という存在なのに。
だとすれば、空だけでなく海で戦った男たちも
その島へたどり着いたと考えていいかもしれない。近いし。
・「宝島」にたどり着いた男
スケベェなみんなが大好きな、そこしか聞いてもらえてない
フレーズ「お姫様がパッコン」な状態になるなら、別にこの男は
宝島にたどり着かなくたっていい。
新島でも伊江島でもかまわない。いっそ前島や西洲でもいい。
たどり着いた先が「宝島」である必要があるから、
詞の中にそう書いたのではないか。
当たり前の世界とは違う場所である必要があったのではないか。
そもそも、「宝島」って普通喜び勇んで、わざわざ目指してやってくる
場所であるのに、どうもこの男はそういうフシがない。
遠い目をして愛する人のことを語っている。
そんなに心配だったら「住み着く」ことなく帰ればいいのに、
何らかの理由あってか帰ることができない様子。
事実、ここに住み着く人"も"いる程度で、言葉を素直に受け止めれば
多くの来訪者は住み着かないということが伺える。
でもこの男は住み着くことを決意している様子もなければ
帰ることもしていない。
また、この島から新たな場所へと去ることもしていない。
現状、羽根を癒すことくらいしかできない。
また、来ようと思って来たわけじゃなかったということになれば、
嵐に巻き込まれるなどして大変な思いをしてやってきたという経緯は
自分の意思でなく、抗えない強大な存在に翻弄された結果でしか
ないことになる。
つまり、この男にとってこの「宝島」というのはついた時点で
通常想像される楽しい場所でも、魅力ある宝のある場所でもない。
・「愛する人の未来」であって「愛する人"との"未来」ではない
愛する人を案じているのであって、愛する人のそばに自分がいる
未来を語っているわけではない。
愛する人がこの先幸せでいられるか、"この自分なしで"
生きてゆけるかを案じている。
気持ちの問題、お金の問題、生活環境・社会状況の問題、いろいろ
ひっくるめて「ここにいない、残される形となった愛する人」が
この先どうなっちゃうのかを案じている。
真っ赤なバラと白いパンジーが植わってる小さな家で
自分の横に愛する人がレース編んでるような未来なんかじゃ、決してない。
・「固い誓い交わしたのね そんなの知ってるわ」
取るに足らない、織り込み済みの事象。
これが推測でない確信、もはや知識・記憶だとしたら
この歌い手はいったい何者であるか。
「カンのいい女」とかいうレベルじゃ決してない。
男と愛する人の出会いから抗えない別れまで、
教えてもいないことまでひととおり語り上げたところで
「だけどあなたは、信じて島を出たのね」
と女が区切りをつける。
ここでそういうわけなんだよ「ね」と、聞いてばかりだった態度を
同じ「ね」というたった一文字で翻す。
ひと通り男のことを語り終えたら今度は誰のことを話すか。
そりゃもう決まってる。
遠い場所にいいる、男のパートナーの今をお伝えすることになる。
・だけど、そうよ、きっと。
1番と2番におけるサビ入り部分のフレーズは「だけど」。
男の考えを否定している。
戦場から生きて帰り、さらにはこの戦にもこの国は勝つという強い信念は
そう簡単に潰えるものでない、まだ何も失ってやいないと男は思っているし、
お姫様は他の誰にも抱かれまいと男は考えている。
「だけど」、それは誤りであると女は言う。
人は強いと男は思っている。
だけど、弱いものよと女は言う。
かの愛する人は弱く、守ってやらねばと男は思っている。
だけど、強いものよと女は言う。
そしてひとつめのリフレインで「だけど」は「そうよ」に変わる。
男の考えを肯定している。
続く言葉が同じであるのに、否定から肯定に変化している。
これはつまり、男の側の考えに変化があったことが伺える。
「そうよ、そうそう」の、「そうよ」。
人はこうも弱いものか、何かを、いや、何もかもを失うこととは
こんなに容易いことなのか男は悟り始める。
そうよと女は言う。
最後のリフレインでは「だけど」が「きっと」になっている。
「そんなの知ってるわ」と言いのけたのに比べてあいまいなものに
変化している。
もしかしたら、腰なんたらは「方便」で、案外ほんとにみんな
楽しく踊って暮らしてる時代を生きているのかもしれない。
ともあれこの、続く言葉をキープしたままサビ前の三文字だけを変化させるだけで
心情変化を表現し、ストーリーの流れをつくるあたりこのCoccoという人はよほど
キレッキレなように見える。
だからしてフラーフージーしてるのはむしろフラーフーナーであっていわゆる広義の
「キャラ付け」に過ぎず、腰振り云々というのもわざとミスリードしてエロ解釈する
聴衆を見てどっかでほくそ笑んでいるのではないかとさえ個人的には勘ぐっている次第。
もし仮にこの詞を書いたのが「Cocco」でないなら、歌詞カードの表示通り「こっこ」を名乗る
まったく別の他人と思うし、いいえ本人ですキャラ付けもありませんという話なら
乖離したパーソナリティかなにかくらいの勢いでないとこいつは到底無理と考える。
しまいにゃ乖離なんかもしてませんよとなればもうあれだ、アルジャーノンだ。
あとは石丸元章の言うところのシャブの神様によるものしか可能性はない。
・宝島が見えるころ、宝島についた頃。
とりあえずこの男・この島が「この世」のものでないことははっきりした。
この世でないから一方通行。もう後戻りはできぬ。
住み着くか先へ進むしかない。
さてではいつごろこの宝島が見えたか、いつごろ宝島についたか。
たとえば仏さんの世界では四十九日をもって成仏するとある。
宗派によって微妙に異なるだろうけど、四十九日間いわゆる「霊」という
かたちでこの世にとどまり、その後あの世で「仏」となるという流れは
たぶんみんなおなじ。
こまかいとこすっ飛ばすとこう。
・肉体を失い霊になる。
空だって飛べる。飛魚のアーチなんてすいすい。
あてもなく飛ぶわけじゃなく、目指す先が見えている。
つまり、死の時点が「宝島が見えるころ」。
言い換えると、宝島に近づいてゆき、その近くまできたから
宝島の存在が見えるようになったのではなく、生きている人間には
決して見ることができない存在が見えるようになったころ。
その島目指して飛んでいく。
・四十九日の旅を終え、仏と成る。
目指していた場所(「宝島」)にたどりつく。ゴール。
さて。
ゴールにつきましたよと。
そこで終わりですかってーと、そうでない。
人間、輪廻というのがある。
次の人生(後生)という旅へまた出なくちゃいけない。
そうするってーと、この、とことん慰めてくれる神様は
この人生(今生)で思い残したことを取り払う手伝いをし、
後生への準備を促してくれる存在であることになる。
そういうわけで。
神様の視点から人間ら(男と女)を見つめているわけだから
「強く儚い者たち」
と、人間という存在を悪意の無い上から目線で見た上で
どこか達観した物言いで表現している。
なので、Coccoという一介の人間から見た人の営みについて
「人間は所詮こんなもんなんだ」と断じたり評価したりしている
わけではない。
しかしそもそも神様はすべてをありのまま包容する存在である以上、
評価やカテゴライズをすることはない。よって言葉にすることもない。
まとめると、このタイトルと歌詞は
神の視点を借りたCoccoという人間が、人間の言葉で人間を表した
ものと読み解くことができる。
また、この視点を通してもう一度人間世界を俯瞰すると
肉体そして個々の存在そのものが「弱く」「儚い」一方で、
「強い」力をもって他の人間を押しつぶさんとする、争いという
人間の業もまた人間の弱さのあらわれであり、儚げである。
神の前では旗の色も肌の色も瞳の色もみな、何の意味も違いも
ないというのに。
皮肉な見方をするならば、戦争で逝った御霊のことを忘れ去ることは
振り向かない強さであるも、悲惨な出来事があったという事実もまた
同様に人々の記憶から消し去ろうとする力も働く。
なぜ戦争に至ったか、戦争がなにをもたらしたか、人の命が、存在が
束になってなんぼという価値であったということを忘れるとまた繰り返す。
人というのは儚いものだから。
・【儚い】
ってのはこんな意味があるんですって。
儚いとは - Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/儚い
①消えてなくなりやすい。もろくて長続きしない。
②不確かであてにならない。実現の可能性が乏しい。
③何のかいもない。無益だ。
④大したものでない。取り立てるほどのものでない。
⑤思慮・分別が十分でない。愚かだ。
⑥みすぼらしい。卑しい。
・人は弱い。人は強い。人は儚い。
「愛は儚い」とは言ってない。一言も言ってない。
愛が儚いならこの歌のタイトルは「強く儚い愛たち」であるべきだろうよ。
だのに
「愛は儚いんですね!この歌せつないです!><;」
とかいう解釈たくさん。なんじゃそら。
弱いのも強いのも儚いのもみんな人。
その人の存在の儚さと、その人への愛の儚さ(?)は
同じ次元で語れるものではないはず。
・・・であるからに、
男女の仲がどうとか浮気とか裏切りとかNTRがコモエスタで
遠距離恋愛がどうたらいう解釈はどこか短絡的で、言葉の取りこぼしが
起きてやしまいかと思ってしまう。
概念の中に、冒頭にある「命の危険」がまったくないんだもん。
また、強い弱い言っているのは人の気持ちだの愛だのではなく
人という存在そのものについて表現しているものだから、
スケベ心からお姫様のくだりに注目しすぎると物語世界を
見失ってしまう。
(追記)
ナニナニの物語をなぞっているみたいな解釈もいろいろあるけど
強いて挙げるなら坂口安吾の堕落論じゃないかしらねこれ。
検索してみると同じ解釈の方もいるようで。
強く儚い者たち: 普通サラリーマンの散財日記
http://www.3zai-businessperson.com/article/437302488.html
Coccoの「強く儚い者たち」を聞くと、どうしても坂口安吾の『堕落論』を連想する人って、結構多いのではないか。
— あままこ (@amamako) 2019年8月12日
先日、花見で下北の代沢小の近くで飲んでた時、安吾が代沢小に勤務してたの知って、久々に堕落論読んでみた。日本文化私観が結構きた。堕落論はCoccoの強く儚いもの思い出した。
— NDB(Nu-skool Dirty Bastard) (@rrrragos) 2010年4月18日
(追記ここまで)
つまり。
愛別離(苦)は気持ちや距離だけの別れを指すんじゃないし、
仏さんの本だけでなく「塩狩峠」にだって登場しているフレーズ、
「生者必滅、会者定離」にあるとおり、どうしても避けられない
死による別離もあるんじゃないのさという考え。
はてさて、身体の透けた男たちの出てくるPVの意味するところは。
(以下ただの妄想)
・神の視点とCocco
あるがままを受け入れる際、そこにあるのは「無」だ。
カテゴライズも評価もない。
Coccoはイメージの中で神の視点を得た。
しかし神の認識は得られなかった。
だからCoccoという人間は、人間の認識を以て感じ取った。
人間について人間の言葉を以て表現した。
そのため、受け入れる対象について「無」でなく
「強く儚い者たち」という、極端な言い方をすれば
レッテル貼りをすることとなった。
人が身勝手を通す
人が人を騙す
人が人を殺す
人が生き物を殺す
・・・
などなど、
「当たり前が当たり前でない世の中」
"such a wonderful world"
であることに苦しみ、それを吐き出す作業を続ける。
それはもう、本人がゲロのようと呼ぶほどに。
音楽のジャンルはともかく、このスピリットはロックンロールだ。
だからそれが共感を集める。でもそれは根本的な救いにはならない。
善いおこないも悪いおこないもこの世では「報われ」ないからだ。
宗教ならここで「だからこそ祈れや」っていう流れなんだろうけど、
そんなもんで解決するわけねーだろというのが一般的な日本人。
個人的には祈りはアリだと思うんだけど、日本人てどこかしら
オールオアナッシングの気質があるもんだから「祈りありき」に
なったり、果ては
それって「神頼み」じゃねえか
と、そこまで言ってねえのになんで怒られなきゃいけないんだい
てな感じになる。
じゃあそれってなんだねってーと
できることは自分がやって、できない部分について祈る
という、オールオアナッシングでない、本来の意味での他力本願、
人間でも偶然でも神様でも仏様でもなんでもいいから、とにかく自分の
限界を超える部分について第三者のユイマールを求めるという考え。
そういうわけでウチナーンチュは
ウートートー
と手を合わせる。
なぜならみんながいて世界がまわるから。
先祖がいて自分がいる。島の自然が人間をはぐくんできた。
そしてこれからも自分たちは島の恩寵のもとにあり、それにより
自分たちの子孫がこの地に生き続けることができる。
そんな母なる島を造ったのは神だ。だからすべてが尊い。
そういうわけだから、これら天・地・人の調和を無視した
人間だけが世界回してるなどというくそったれな価値観
をCoccoは全否定している。
自然(≒沖縄)の気持ちを汲んでいる。
目に見えるものを超越した存在があることはわかってる。
しかし彼女はのこるカミサマについては中指立ててらっしゃる。
いうなれば、黒線香(ひらうこう)の3本セット(天・地・人)のうち、
ひとつがかけている。三位一体が成立していない。
吉田拓郎式に言えば
そ~らに~まかしたんよ~
ということができずにいる。
この世で救われてないから。この世では誰も救われないから。
神様なんていいひとを殺す一方で悪いやつに罰を下すこともないから。
信じるに値しないから。
いつか、この世界が変わる/変わらない・変えられる/変えられない・
救われる/救われないなどなど認識諸共すっ飛ばして
「思い通りにならない世の中、自分さえ思い通りにならないこの現実」
"what a wonderful world"
であることをどこまでもどこまでも受け容れ、その中で
あまりに非力な自分に何ができるか、どこまでならできるか
というところまでゆければいいのだけど、それは諦めという、
この世界を拒絶する感覚と似て非なるものだからなかなか難しい。
人間みんなにとって。
だけども、この世界のあるがままを受け入れられないまま
自分の小ささ、無力さを知った上で
あまりに非力な自分に何ができるか、いったい何になるのか
ということを考えるから苦しみしか無い。救いがない。
マザー・テレサがさらりと言ってのける「愛は寛容である」
というのは、別に人だのなんだのに限ったことでなく
そのでっかくもないくそったれな愛(=慈悲)でもって
この世の中全部愛して(=受容・許容)みせろやボケ
というのが最終目的地。
ま、つらつら書いたもののすべて仮説俺メモである以上、
絶対これが正しいって言う気はないもんですから
どうでもいい人も入れ込んじゃってる人もどっちでもない人も
「だけど」しか耳に入ってなかったお嬢ちゃんもみんな各々が
お好きなように納得出来ればい~の~にね~えー
よくよく聴くと大野克夫だけあってコナンぽいね。
***
2017/04/13追記
夜勤明けの帰り道、カーラジオをつけたらNHKラジオ「すっぴん」に出てた。
デビュー20周年記念での出演の様子。(途中からしか聞いてない)
ウチナー訛りを全面に出して終始和やかな雰囲気でトークが進み
最後、今後30周年に向けて精進されることでしょうねみたいな場面で
「ハイ、粛々と進めてマイリマス」
ここでトーク終了。
その瞬間スーッと背筋が凍る思いをしたがtwitterでは誰も話題にしない。
おい、自称ファンらどうした、ここは恐ろしい場面だ。
全国放送の最後、彼女はすべてを壊して帰っていった。
気づけ。俺はファンと呼べるほどじゃない。お前らこそが気づけ。
でもおそらく当の本人は気づかれないことも承知済みだ。
むしろそれをどこか哀しむように楽しんでいるかもしれない。
皮肉と受け止められない人には皮肉が通じないという皮肉。
捨て台詞のように吐いたその最後の言葉に、
やはりこの人とんでもないと改めて感じた。
胸のうちにあるのは怒りなのか悲しみなのかそれともいったんそれらも
包容しているのかいないのか、そこまではいまだわからない。
別にそこまで知ろうとは思わない。ファンじゃないから。