2010年4月6日火曜日

ノンクリティカルシンキング

非クリティカルな論理は、なぜか一部の人々をひきつけることが
あるようだ。


★ 電脳ポトラッチ いじめられっ子は反社会的?
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2006/0627012511.php

■タイトル

「いじめられっ子は反社会的?」

この大学教授は「いじめられっこは(総じて)反社会的である」とは
言っていない。
これは、大学教授でもなんでもない筆者が勝手に言い出した
「意見・感想」だ。
最後のハテナはたぶん、誤っている可能性のあるタイトルに対する
エクスキューズではなく「反社会的とはどういうことだ?本気か?」
のハテナなんだろう。


■大学教授が述べた内容のすべて

卒業文集に寄せられた、同級生らの心無い言葉の数々について教授が
述べたこと。

「高校時代から垣間見られたであろう、鈴香容疑者の反社会性に
対する同級生の反応のあらわれ」

以上。

ここでは

・「いじめ」の有無
・「いじめ」の是非

については一切言及していない。
「この人はいじめを肯定している」と言っているのは、筆者の決めつけに
過ぎない。

教授が言ったのはただひとつ。

・高校時代から、畠山は反社会的であったことがうかがえる

ということだけ。

心理学者が表現する「反社会的」というのは、そういったパーソナリティ
を指すことになる。

(余談ここから)
学校社会に限ったことでなく、当然いわゆる世間の中にも「反社会的」な
パーソナリティの人間は存在する。
これはだれかというと暴力団とか暴走族といった組織を構成する人間が
主な例。
厳密に言えば依存性や自己愛など、ほかのものもあるけどそれはまた
別のはなし。

暴力団によってたかって「永久追放」「もうこの街に戻ってくるな」
という運動はあちらこちらで起こってる。
でもそれは大人な対応であって、個人を袋叩きにするものではない
だけの話。
あくまで「組織の追放・解体」を望むのであって個人を再起できない
までにぶっ潰そうという考えではないはず。
(運動をおこしている個々の腹のうちはわからないけど、タテマエは
決してそうでないはず)

どっこい、おこちゃまな中学生高校生には「大人な対応」を望むのは
難しいところはあるわけで。
それはそれで学校現場の問題だけれど、

その問題については、ここでは一切論じていない。
これはいじめ問題ではなく、秋田で子供が殺害されたというトピックだ。

(余談ここまで)

その「大人な対応ができてない周囲の反応」から、畠山のパーソナリティ
を垣間見ることができたよねってだけで、誰も「大人な対応ができてない
周囲」にひどいよねとかざまーみろとかいう話は一切していない。

誰がこういう話をしだしたかというと、筆者だ。


■ずれてゆく論点

ここまでをまとめると

1.「大人な対応ができてない周囲」について筆者は注目し、これを
「いじめ」とした。

これにより、

1'.「畠山はいじめられていた」とした。筆者が。

すくなくとも教授はそう言ってない。
あえて言うなら文集の中に登場する「『かんしゃ』すべき『俺達』」が
言った。

2.「畠山は反社会的なパーソナリティであった」と、教授は見解を示した

以上のことから、筆者は自分の考えと教授の言葉を(たぶん)無意識に
混同して

1'.「畠山はいじめられっこだった」
2.「畠山は反社会的なパーソナリティであった」

だから

3.「いじめられっこはみな反社会的なパーソナリティをもっている」

という、飛躍した論理が生まれてしまった。筆者によって。
さらに。

2.「畠山は反社会的なパーソナリティであった」 という見解を示したのは
教授である
3.「いじめられっこは反社会的なパーソナリティをもっている」という
筆者の"持論"

以上2、3から

4.「いじめられっこはみな反社会的なパーソナリティを持っている」と
大学教授が言った

と、そんなこと言ってないというか、三段論法さえ軽く飛び越えた
論理展開になってしまった。

最終的に、どこから湧いてきたのかもう理解できないことに

5.「いじめられっこはみな反社会的なパーソナリティを持っている。
反社会的である以上、いじめられてもしょうがないよね」と、
大学教授が言った

ということになった。筆者によって。
それが冒頭のこの部分。

>こういう言い方すると「犯罪者になる素質がある者は同級生に
>いじめられても当然」という空気、ひいては、「同級生にいじめ
>られるような子はいずれは犯罪者になる」という空気を作り
>だしませんかね。

教授は、「こういう言い方」なんかしていない。何も言ってない。
しかし、教授のたった一言が筆者によってここまで膨れ上がった。
これで満足かと思いきや

>「犯罪者は生まれた時から犯罪者」的に解釈される発言を
>有識者がする

とも書いている。
もうやりたい放題。あることないことのオンパレード。
誰がそう解釈するのか、それは紛れもない、筆者がそう「思った」だけで
筆者の中で根拠となるコメントはあっても、論理的に筋の通った「論拠」は
ない。

ためしにつなげてみる。

【悪い例】
卒業文集にある同級生の辛辣なコメントは

「高校時代から垣間見られたであろう、鈴香容疑者の反社会性に対する
同級生の反応のあらわれ」

である。よって

「犯罪者は生まれた時から犯罪者」

である。

・・・うーん。
本当に、筆者以外にもそう解釈されるなら、憂うべきは有識者のモラル
よりもリテラシーうんぬんよりもまず日本人の言語力ということに
なる・・・というおふざけはおいといて。


■その結果がもたらしたもの

内容をきちんと読んでいるのかいないのか、コメント欄やトラックバック
が行き場があるんだかないんだかよくわからない無駄な怒りにふるえる
人々の集いの場になってしまった。

TBにはこの文章を「キレのあるテキスト」と評価したブログも。

いじめられっこを追い込む元スクールカウンセラーで大学教授の碓井真史
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20060627/1151399401

はてなブックマークのコメントの数々
http://b.hatena.ne.jp/entry/noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2006/0627012511.php


【まとめ その1】
電脳ポトラッチさんのページ冒頭より引用

>弁護士・成歩堂龍一になって「異議あり!」「待った!」とツッコミを
>入れて証人のウソを暴き、証言の揚げ足を取り、思い違いをガンガン
>指摘して真犯人をあぶり出すのは快感で、結構なストレス解消に
>なります。

ゲームでも他人でもなく、自身の矛盾こそが一番身近で気づきにくいため
解くのも難しいのかもしれない。他山の石にしなくちゃいけない。


【まとめ その2】
コメント欄などにおける、この現象の問題点。

・ぜんぜん違う話題について、各々が語り始めている
特にいじめを受けた経験についての自分語りみたいなのが目立つ。
「いじめ」というフレーズに過剰反応しているようにも見える。 

普通の会話なら
「ちょっと待って、今その話してない」と遮られ、会話が成立していない
ことが判明するも、コメント欄やトラックバックによって最後まで言い
尽くすことが可能であるため、一連の流れが「一見成立している」ように
見えてしまう。
そもそもの発端が本旨と関係ない「いじめ」について語り始めている
とこが失敗。

ひょっとすると、普段からどんな話題でもリンクしていると思い込んで
しまって結局「自分の話しかしない」人たちが集まっている
のかもしれない。

結果、その各々の一方通行な情熱が行き場を失う。
帰着する先があるとすればただの自己満足。

最悪、コンビニ前でたむろってる女の子同士の会話を柳原可奈子が
模写したように、お互い言いたいことだけを言って会話がまったく
噛み合っていないのになんだかつながった気になっているうちに
ただただ時間だけが過ぎているさま。
どこかコードギアスの世界を地で行くような。

以下引用
日経ビジネスONLINE
アニメから見る時代の欲望 「世界は自分に優しくない」という解毒剤
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080826/168874/?P=3

(谷口悟朗監督インタビュー)
> 本来、コミュニケーションというものは、人と人が真っ正面から
>向き合うことが必要じゃないですか。
>
> けれども、この作品の登場人物たちに関しては、それがない。
>「本人は一方的に相手のことをこのように考えている。でも、
>相手はそんなことを考えてない。向かっているベクトルが全く
>ずれている」という形にしているんですね。
> だからキャラクター同士が、共通の認識を持って真っ正面から
>ぶつかり合うことは、まずありません。



【以下、すごく長い余談】

もしかすると。
この筆者は「メディアリテラシーのない人々」がいじめを肯定するのでは
という危惧や義憤に駆られて書いたのかもしれない。
「マスゴミ」による「世論誘導」というやつに「ひとり果敢に立ち
向かっていった」のかもしれない。

もしそうだとすると。
まったく皮肉なことに事実を曲げてしまったのはまさしく筆者のほうで、
これによりこの曲解した内容を鵜呑みにしてしまった人々を量産する
ことになった。

なんと「マスゴミ」でもないのに可能だった。
そして自らがやってのけてしまった、プチ「世論誘導」。

しまいにゃそれに「世論誘導なるものを憂いている(らしい)人」らが
乗っかってしまった。「見出し詐欺」ってやつを嫌う人たちが。
なんだか切ない話。

でもロックンロールよろしく、学校近くで売ってる揚げハムサンドの
ように悪い油でできた食べ物というのはどこか若いもんの口に
合うもので。
健康にいいかと言われれば「んなわけない」の一言で一蹴される
ものだけど、やっぱこういうのがほしくなる年代というのはどこか
変わらないものがある。

世間を斜に構える手段はもうロックンロールだけじゃない21世紀。
世の中わかった風な学者くそったれなある種のロック魂はまだまだ健在。
惹きつけるパワーと共感ってもんがある。

さて21st Century Boyは何を奏でる。
いっそ「21th Century Boy」と名乗るのも、らしくていい。

モヤモヤしたものを吐き出すのにいちいち通らぬ理屈をこねるより、
たまには「理屈じゃねぇ」ですべて片つけるのもあっていいかも
しれない。
そのほうが一本筋が通ってることもあるんじゃないかしら。

(さらに余談ここから)
この点については筆者も思うところあるらしく、以下のように書いてる。

理屈の通じる女・通じない女
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2008/0102003057.php

>感覚的なわたしが文系脳で必死に論理をたたき上げるのは、
>「あんたの言ってることはおかしい」という違和感を無視
>できないからです。その違和感をただ「何かムカツク」
>「気持ちが悪い」と表現しても怒りを買うか嘲笑されるだけで、
>まともに聞いてもらえないことが多かったので、相手に理解・
>納得してもらえるように、言語化して説明する癖が染みついて
>しまっているというわけです。
(中略)
>でも、そうやっていちいち違和感を言語化してはぶつけ合って、
>どちらかが納得するかウンザリするまで議論・・・というのも、
>頻繁だとたいへん疲れますよね。
>単に「ムカツク」「キモイ」とか言い捨てて終わらせてしまう
>方が、逆に怒りを買わずに済むような気もします。

今回のケースではたぶん、

「この人犯罪者の卒業文集いちいち集めてるの?気持ち悪い。
いじめられてるさま眺めて楽しんでるわけ?なんかムカツク」

と「感じた」のかもしれない。
でもそれをそのまま口にすると「怒りを買うか嘲笑されるだけ」
なので、理屈こねてみたものの、結局は本旨とずれたところにある話・
感覚を無理に言ってることと結びつけようたってそれはつじつまが
合わないのは当然。

怒らせて不快な気分にさせたくない、自分も傷つきたくない、
でも聞いてほしい。
世の中に対する違和感を他人にも持ってほしい、共有したい。

そんな気持ちをもってる人なのかなと思った。
ひょっとしたらその気持ちがほかの人にも通じていて、本旨が曲げられ、
本旨と関係ない話題にもかかわらず盛り上がってしまう構図になるのかも
しれない。

たとえヘンだけど。
イエモンのJamみたいに、外国で飛行機が落ちて乗客に日本人はいません
でしたいませんでしたいませんでしたな状況で、そりゃあニュース
キャスターは事実を伝えただけで「嬉しそうに見えた」のも自分の
気のせいかもしれないというかそう見えてしまった自分にもなんか
腹が立つああなんか言葉にできない、ってのにやきもきするかも
しれない。

僕はなんて言えばいいんだろう、何を思えばいいんだろうのループ。
ほっといたら忘れるってのが特効薬なんだけど、その忘れてしまう自分
にも違和感を感じるものだからめんどくさい感情。

ただし。
彼女が怒りを買ったり嘲笑される理由については、彼女の感情と
切り離して考えてみる必要もある。
彼女の言い分が一種の青臭い、ただの正論であったりした場合や、
今回のように話が飛躍してしまうことがあるのだとしたら、
時に当然、誰かを呆れさせてしまう。
だから彼女は理屈をこねくりあげ、もっともらしく話すことで
相手と同じ土俵で話をしているように見せかける癖がついて
しまったのかもしれない。

(さらに余談ここまで)

別に若者じゃなくたって、先月琉球新報だか沖縄タイムスだかの投書欄に
「小沢捜査打ち切りは政府の陰謀であるという説をネットでみつけた。
これは一般のマスコミには出てこない情報だ。ネットは真実に満ちて
いる」と書いた80うん歳のおじいちゃんのように、

自分にとって、
口あたりのいい情報を探しにいく=メディアリテラシー(?)
口あたりのいい情報を探そうとしない=情弱

というヘンな構図が頭の中にできてる、ある種ネットウヨの派生系もまた
現役のロケンロー(内田裕也的に)な感じがする。
信じるもの、信じられるものだけを探し、見つけることができる
ユートピア。
おかしな連中だろうがなんだろうがみんな集まって自由を謳歌できる場所。
それでいいじゃない。

マキシーは死んだけど、青山じゃないけど、そういう場所があるって
ことは誰かの救いにはなってるのでしょう。たぶん。

そのかわり、大きな生きづらさを抱えたままになることもあるけど。
生きづらさを抱えるが故、生きづらさを埋めるため常に「敵」を探しては
それらと戦い続け、その果てに空虚さを感じてしまったとき、自分の芯に
なる何かが残ってないとマキシーのようになってしまうかもしれない。

政治思想や宗教思想、ナショナリズムといったものは芯に似ているけど、
芯をかたちづくるもののひとつの手段になることもあるけれど、そのもの
じゃないから芯とすっかり置き換えることができない。

でも似てるからまんまと自分で置き換えちゃったり、誰かに置き換え
られちゃうおそれがある。
そこは芯をしっかり持ってたら防げるんだけど、さきに芯が確立して
いなかったり社会不安や経済的な困難さ、身内の不幸などなど、
何かの理由で精神的にまいってしまっているところにメディアや宗教、
ナショナリズムなどなど「ココロのスキマ」を埋めてくれる
セールスマンが訪れる。

メディア嫌いとか「マスゴミ」嫌い、宗教叩きをする人の中身には
芯があるのかもしれないし、もしかしたら別の芯でないものが
存在していて、それによって別種に対するアレルギーがおこって
いる可能性だってある。

ただひとつ。
芯がしっかりしていないとクリティカルな考え方はしにくいし、なんでも
かんでも「好き/嫌い」「(自分にとって)正しい/正しくない」
「(自分にとって)良い/悪い」で片付けてしまって実は何も考えて
ない、思想が先に物事の判断や情報の取捨選択をおこなうことによって
思考作業を妨げる「思考なき思想」に陥るのではなかろうか。

芯を失った鉛筆では自分の言葉を書くことができない。
頭の中にあるものを吐き出したい。でも自分の言葉が存在しないのか、
はたまた考えそのものが存在しないのか、 どんなに紙をなぞっても
白いまま。

だから他者の書いた言葉を書けない鉛筆で上からなぞり、まるでそれを
自分が書いた気になることしかできない。
たぶんその欲求が「拡散」というコピペ熱に変わるのでしょう。

(中学校の特別教室の机に書かれた落書きのよう、自分のものでない
言葉(歌の歌詞だったり、愛死天流などなど時代のついたシングル
モルト)を、人の目のつくところに書き連ねる行為に似ている。
休み時間、他の人に聞こえるよう大音量で音楽を鳴らしたりとか。
自分の言葉でない言葉を媒介にして他者との共感・連帯を求める点では
同じも、その行為を行うのが中学生に限ったことでないという点が
異なるけど。
そもそも共感などではなく、そう易く共感されないことにこそ優越感、
時に侮蔑感を得るためにそうするケースもあるかもしれない)

つまるところ方向感覚も自分の方向性もなにも定まっていないものだから
自分の舵を取ることができない。
ポルノグラフィティに言わせりゃ、頭ん中バグっちゃってるおかげで
ビジョンは曖昧、そして地下を巡る情報にいちいち振りまわされてる
状態なんデショウ。
一方で、なんだかもっと大きな世間や国家の舵取りをしている
気になってるような。
ま、それが若さってやつなんだろう。 きっと。

表に出てこない情報こそが真実であると誰かは言ってたもんで。
「真実を知る人」は「惑わされてる人真実に近づきつつある人」に対して

「実はナニナニ(とんでもない真実)だったんだよ!!」

「な、ナンダッテー」

というやりとりを行うがおきまりで、それをまんまと信じ込んでた
全国の小中学生。
そんな世紀末のワンシーン。



「これは一部の人しか知らない情報でね」という話、金山やら
未公開株やら新興宗教その他いろいろひっくるめてろくなもんだった
ためしがないような。

とりあえず。
こじらせちゃったみなさんも、いつか笑えるようになればいいなあ。

***

追記


「芯」を一般的に言葉にするならアイデンティティだ。

でもってwikipediaみてみる。

・心理学でいう 自己同一性。
・共同体(地域・組織・集団など)への帰属意識。
例として、コーポレートアイデンティティ、アイデンティティ政治など。

そうだ、この2者だ。
同じ言葉をあてはめるだけあってこれらが非常に似ている。
アイデンティティ(自己同一性)を失っているところに、
その穴をアイデンティティ(帰属意識)で埋めてしまうものだから、
帰属先の政治思想・宗教思想に対する攻撃や民族などに対する
被差別意識があるとそれが自己の存在のゆらぎに直結してしまう。
だから無駄に闘うはめになってしまう。

つまるところ

「自分は自分である」

ということが認識・確立できてない一方で、

「自分は"大和民族"である」(民族)
「自分は日本人である」(国籍)
「自分は子なし会社員世帯である」(職業別カテゴライズ)
「自分は嫌煙家である」(志向)
「自分はおたくである」(趣味)
・・・

と、常に自身を「自分」以外のものをもってしか表現できない
状況にあるのではなかろうか。
もちろんこれらはひとりひとつだけというわけではなく、
たくさんの、様々な帰属先が個の中で同時に存在する。

これら全部ひっくるめた集合体が

「自分」

なんだけど、喩えすんごい悪いけど解離性障害のように
それらがまとまっておらず、それぞれが独立している感じ。

それらひとつひとつに対して「攻撃」を察知するたんびに
いちいち「自分」が攻撃を受けたものとして過剰に反応してしまう。


もののついでにネットウヨの過剰反応を考える。

そもそもネットウヨムーブメントが強い自己愛によって
大きいもの優れたもの自分を重ね合わせて万能感を得る


(この動画の元ネタはここ

というのが大元にあるのではなく、
言うなれば境界性人格障害のように帰属先からの見捨てられ不安
基づくものだとしたら、ただの中二病なんかより根が深い。

国と自分を重ね合わせて、自分がでっかくなった気になる

というのならまだ傷は浅い。
どっこい

「国のため」に行動(?)を起こしたら、自分を守ってくれる

という考えを意識的ないし無意識的に持っているとすると、裏返せば

「国のため」に行動しなくなったら、「国」は自分を見捨てる

ということになるまいか。
その原体験として、90年代のリストラブーム・氷河期、そして
阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件などなどがあって

「国(社会)が防げなかった、なにもしてくれなかった」

という失望感を味わったことがあるんじゃないかしら。

そういうわけで
・弱者を食い物にする利権、大企業
・当時の三日天下与党
・宗教団体
というものにめっぽうアレルギーが出ているという仮説。

ただし、「なにもしてくれなかった」感の裏返しとして

「そうなってしまったのは、自分たちが無関心だったからだ」

という意識を持っていて、それが良かれ悪かれ政治(?)への
関心という形(麻生フィーバー含む)で現れているのでなにも
悪いことだらけではないはず。

おそらくネットウヨの頭数を構成する標準偏差というのは
氷河期世代とほぼマッチする形となっていて、それをすり抜け
大震災もオウムも記憶にない「ゆとり世代」はそんなに
ガツガツせずに"草食的"でいられるのではないかしら。

よって「右翼的」だから「ネットウヨ」、というのは実は一側面しか
捉えられておらず、実際はボーダー予備軍でしたという仮説。

もっとも、世相がそうだったからといってそのジェネレーションが
みんながみんなそうなるはずはない。
結局、その人ら家庭環境に何らかの機能欠陥があったのが大きな
要因であることにはかわりない。

生活もままならない状況から家庭が不安定になるケースが
当時多く発生し、その影響が今日まで尾を引いているのかもしれない。

もしかすると、さらにその大元がそれ以前の時代にあったとか。

バブルの恩恵に預かる形でちょっとしたブルジョワ気分になった
親たちが不況の足音に怯え、失うことを恐れ、そのせいで

「(自らの将来を内包する)子供の将来に期待する」

というきれいごとを推し進め、ブームとなり、

「バブルに乗り切れなかったお宅とは違い、自分たちは
このステータスのまま生き残らなくてはならない」と

よその家、他人の子を見下し、競争させ、お受験だのなんだので
負圧(stress)を与えた。

どっこい、親たちはそのお受験レールを外れた子らに
第2第3のオプショナルなアンサーを用意していなかった。

外れたらおしまいだった。

親もどうしていいかわからない。
子もどうしていいかわからない。

その子の親らは見捨てるつもりはなかったかもしれない、
でも結果多くの家庭で子が見捨てられた。

そんな世紀末。

ところでじゃあ、晴れてレールから外れることなく走りきった
元子供たちという名の大人たちはどうなったかというと、
これもまたハッピーエンドじゃない。

思春期の間に自ら転んで自ら起き上がる練習を許されないまま、
幸か不幸か一度も転ばずに済み、そのまま走り方を叩き込まれた。

そのかわり、自分の足で立って歩くことを身につけることはなかった。

走り続けていなけりゃ倒れちまう
自転車みたいなこの命転がして
息はきれぎれそれでも走れ
走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ この世では
(親愛なる者へ/中島みゆき)

とまあ、歩き方がわからないものだから自分で自分にムチ打って
走り続けなきゃいけない存在となっていた。
見捨てられ不安がどこまでもつきまとう人生。

息が切れ、大人になってはじめて転んだ元子供たちが
「新型うつ病」ってのになり、そしてそのまたわずか
一部の人間がナイフを手に、街へ出たのだろう。きっと。

転ばないようにいつまでもとにかくガンバレとか負けないでとか
そのままの君でいろとか呼びかける歌を聞き、走り続ける。
時に、呼びかけられていないにもかかわらず自分にファイト!
言ってくれてると勝手解釈して元気づいたり。
わけもわからないまま。心のどこかで違和感を覚えつつ。
森高千里じゃないんだよと。

そういうわけで彼らは、なぜ「ゆとり」がゆっくり歩いてられるかが
どうも理解できてない様子。
ほんとは理解できてるかもしれないけど、納得したところで歩き方が
わからないものだから真似できない。歩けない。倒れるから。
真似できないイコールありえない。ありえないから理解できない。

なまじ派手に転んでないだけに、自分はなんでもできる、
なんでも知ってるという自負だけはあるものですから
知らないもの・理解出来ないものは間違っているとしか
結論づけることができない。

だからゆとりが嫌い。

「間違ってる」から。
「間違っていることに気づいてない」から。
「間違っていることに気づいてない」のにへらへらしてられるから。
危機感がないから。自分はこんなにも走っているのに。

走らないといけないのに。
走るべきなのに。


***

そういうわけで、あっぷあっぷな人たちは
他人に対してオプションを提案するのではなく、
ただひとつの(己の)常識をタテにとったように

(自分と同じように)~すべき

というのが好きだったり、という仮説。

結局生きづらさを抱え込んでしまうこのループ。