2010年7月21日水曜日

水鏡

Cocco - 水鏡

歌詞はこちら


■つらつら

・季節について

 このPVは酷寒の冬。
 リリースされたのは新しい暦で春。
 曲中に登場する季語は紫陽花。旧い暦で夏。

 さあバラバラだ。
 紐解くにゃ一筋縄ではいかなさそう。


・鏡もない、水もない

 PVに描かれているのは厚く氷の張った場所。
 水面なんてありゃしない。何も映さない。
 そこにあるのはただただ広がる湖面。
 多少なりとも氷がむき出しでいたら「上手に歩けない」
 さまを表現できたろうけど雪が積もってる。滑らない。

 なにかとタイトルと矛盾している。
 今回のPVはヒントないのかな。


・さあわたしは何処へ

 さまよう心境を綴った曲って迷走感を出すために
 フェードアウトで終わることが多い。
 なのにこの曲は完結している。
 「歩き続けている」感じがしない。

 ということはベクトルを失っているか、もしくは
 ベクトルはある程度定まっているけれど「あなた」が
 まだまだ強く掴んでいるから進めないということになる。
 どちらにせよ、停滞している。

 ただ、どこへと誰となしに問いかけていることから
 まだはっきり進むべき道が見えていなさそうなので
 ベクトルを失ってへたりこんでいるんじゃないかしら。


・「紫陽花」、肌にあるもので疼くもの、そして「あなた」

 「古傷が疼く」って言葉があって、それとよくセットで
 使われるのが「雨」だ。

 気圧かなにかで神経がどうたらこうたらという話はおいといて
 雨が降るならあじさいは喜んで咲くはず。
 なのに死んでしまった。

 そのあじさいは枯れるわけでなく、死んでしまった。
 いったい何を、誰を指すのかは謎。この曲最大の謎。

 Rainingと通ずるものがあるかどうかはわからないけど、
 少なくとも雨の日は気持よく過ごせそうにない。

 仮に「紫陽花」が過去の主人公本人を指すのだとしたら、
 主人公は本来、雨が好きな性格だったはず。
 でも雨が降るたび疼きに苛まれているうちに
 「あんなにも雨が好きだった自分」でなくなってしまった
 という読み方もできる。

 「それでも紫陽花は死んでしまった」と同じパラグラフに
 書かれているのは踊ってと囁く「あなた」。

 ということは「あなた」と「紫陽花」は強固に関連している。
 いうなれば、ともに同じ過去の自分を指している。

 過去の自分は雨も踊りも好きだった。
 でも、

 踊りが好きな「あなた」は現在の自分にきちんと連続しているけど、
 雨が好きな自分は「紫陽花」として切り離され、同時に現在の自分と
 連続性を失い、置き去りになってしまった。

 という違いがある。
 切り捨てたながらも、それもまた愛しい自分の一部に
 かわりないから名前をつけていたような。


・汚れなく、美しいもの

 現在とつながりのない過去・思い出というのは
 届かない分、美化される。
 "武勇伝"を語るおっさんのよう、
 「それってあーた、人に迷惑かけてんじゃんよ」
 というものさえ。


・なぜ「あなた」の歌に耳をふさぐのか

 今の自分と過去の自分は違う。
 意識に連続性はあっても価値観は必ずしも同じでない。
 その価値観に大きな違いがある場合、たいてい
 アップデートされた現在の価値観を優先させるものだけど
 どうも過去に縛られているフシがある。
 よほど強い意思・決意をもっていたのか。

 ありがちな歌のシチュエーションだと
 「あんな大人になんかなりたくない!」と思ってたのに
 「気がつけばこんな大人でした。ちゃんちゃん」
 という流れ。
 相反する意識・それによる葛藤、そして生きづらさの解消は
 良くも悪くも己の認識をひたすら現実の側へ折り合いをつけてゆく
 ほかないものだから、多くの人はその歌のように軟着陸に成功する。
 悪く(?)言えば、認識・価値観の取捨選択をおこなうことで
 自分をアップデートしていく作業をやめない。

 何を思っていたかはさておき、過去の自分と現在の自分の
 間に大きな隔たりがあるものだから、この曲の中の主人公は
 未だ空をさまよい続けて着陸出来ていない。
 着地点がない。

 ところで。
 冒頭でこの両者は互いに呼び合っていた。
 その割には過去の自分の側が声高に歌いはじめ、
 それに耳をふさぐ今の自分がいる。

 ではなぜ両者は互いに呼び合ったのか。
 過去と現在の擦り合わせを試みたのか、それとも
 過去の自分をすっかり切り捨てるため別れを告げに来たのか。
 
 いずれにせよとにかく、何らかの形で整合を取ろうとした。

 しかし
 過去の自分が納得してくれない。主張を続ける。
 現在の自分も納得できない。耳をふさぐ。

 おかげで今の自分が今の認識で以て前へ進めずにいるし、
 過去の自分も自分を縛ったままでそのまま。

 「紫陽花」が死んでしまったように、「あなた」の一部がまた
 切り捨てられ、死んでゆくことを拒んでいるよう。
 これ以上身を削られ、切り捨てられることが「あなた」は
 耐えられないのかもしれない。
 また、その逆で「あなた」が「紫陽花」のようにまた、
 自分と連続しないものになることを「わたし」が望んで
 いないのかもしれない。

 例え悪いけど、このあたりの意識は解離性同一性障害のよう。
 (もちろん、この主人公をその通りの言葉のものとして
 断じるつもりはないし、ましてや歌い手について言及する
 つもりもまったくない。
 実際、この曲には「時系列さえつながってないいくつもの人格」
 がいるわけでもない。)
 すべての自分が混ぜ合わさって「自分」があるのだけど、
 捨てたくない自分、それこそ鏡写しにいうなれば
 「捨てられたくない」自分というのが拒否権を発動すると
 統合そして新しい自分へのアップデートが正常に行われない。
 これが見捨てられ不安と絡むと、自分さえ自分(の一部)を
 悪い言い方で"見限ってしまう"行為に必要以上の躊躇いを
 感じてしまうかもしれない。

 また、そもそも自分が分離されてしまうのは(根本的でないも)
 苦しみの解消を目的として行われたところであるわけだから
 それがふたたび統合されることは目の前の苦しみを受け入れ
 られる余地・余裕が必要。

 それらがないと統合作業そのものもそうだし、その後の「自分」を
 維持し続けることも非常に困難を極める。


・あなたの指がしみついたままで遠くへ

 リフレインでは
 「わたし」は遠くへゆこうとしている。
 「あなた」を置き去りにして。
 
 しかしサビでは

  「あなたの指がしみついたままで
   上手に歩けるはずもない」

 とある。
 「あなた」から離れたい。
 でも「あなた」から離れて行けないことを「わたし」は
 理解している。どちらも自分だから。

 統合は望んではいないけど、このままでもいられない。
 ダブルスタンダードは葛藤の原因になっても平安の基礎には
 ならない。


・水面に歪む影
 
 これは誰か。
 水面に映るのは自分と「あなた」だけのはず。鏡だから。
 しかしここで「いまさら」という言葉がある。

 今まで影を潜めていたのに、最後の最後になってふっと
 姿を現し始めたかのように見える存在。
 「あなた」でない、「わたし」でもない人間。
 少なくとも、ここには「わたし」しかいないから
 その影は過去の側にだけ映っている。

 それは自分でない他者なのか、はたまた死んだはずの
 「紫陽花」なのか。それとも他の。

 その影がどうも大きな鍵を握っていそうなんだけど、
 いろいろ残したままここで曲は終わってしまう。