2010年7月2日金曜日

Raining

Cocco - Raining

歌詞はこちら


思いついた仮説をつらつらと。

・はじめに

「ママ譲りの赤毛を 2つに束n」

うん。
Coccoは赤毛じゃない。
どう見てもだ。
本当は赤毛かもしれない。
でもわからないからひとまず黒ということで考えてみる。

そういうわけで、これは彼女の話ではないという仮説。

じゃあ、このストーリーは何か下敷きがあるはずだ。
というわけでwikipedia。

Cocco - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/COCCO

タイアップ
>Raining 徳間書店配給映画「式日」エンディングテーマ

ふむ。
この映画を紐解いてみる。

式日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E6%97%A5

あらすじ
>彼女がうちに秘める、肉親の死という喪失感、
>自分を捨てた母親への憎しみ、常に比較の対象にされてきた
>姉への嫉妬など…

どうやら

・肉親が死んでいる
・ママは嫌いだ
・姉も嫌いだ

というあたりがキーになりそう。


・ママ譲りの赤毛を 2つに束ねて みつあみ 揺れてた

のちに切ることになるこの三つ編み。
赤毛の、三つ編み。

まずそもそも、この少女は普段から三つ編みにしていただろうか。

正直、今日び三つ編みなんてあまりにレトロだ。
21世紀と比べるのが言いすぎだとしても、すでに「ちびまる子ちゃん」の
時代で聖子ちゃんカットが小学生のあこがれとなっている。
当時堂々と三つ編みなんざ結ってるのはみぎわさんくらいだ。

まあ、聖子ちゃんカットは結うほどの髪の量がないので
これ以上どうこう言わない。

とにかく。
結えるほどの長い髪はせいぜいポニーかピッグくらいにしておくくらいが
手間もかからないしそんなにダサくない。
普通はそうするはず。

何が言いたいかってーと、

三つ編みにせざるを得ないシチュエーションが彼女に訪れた

という仮説。


・なぜ彼女は髪を切ったのか

ママ譲りの赤毛を持つ彼女は、それを理由に髪を切ることはなかった。
しかし、三つ編みにしたらなぜだか切りたくなった。さあなぜだ。

ところで。
普通、好き好んで三つ編みにする子がいないとして、
そうせざるを得ない状況がある。

校則だ。

今となっては人権どうこうでかなりラフになったものだけど
ギリ90年代はじめごろまで

・男子は丸刈り、あるいはスポーツ刈り
・女子はオカッパ、長い髪は三つ編み※

※担任の「自 爆霊」先生のクラスにいる、じょ、女子~ぃ生徒のイメージ。
「旧い」女子生徒のステレオタイプ。
一方でリハウスにお住まいの女の子はダサくない。
旧 セーラー服x三つ編み 
新 ブレザーxストレート
このコントラスト。

とまあ校則のもと、みいーんなおなじような頭だった。

今日びお目にかかれなった半ズボンをまだ小学生が履いていた年代の昔話。
今じゃみんな七分丈。
この短パン世代がたぶんそのまま、坊主・オカッパ・三つ編みとは
無縁の教育を受けてきたんだはず。

さて。

いくばくか年上の姉は、三つ編みだった。
ママと同じ髪色で、姉と同じ三つ編みになったのはどうしても
虫が好かなかったのかもしれない。

ひょっとしたら姉もまた同じような髪色で、まるまる同じ頭が
ふたつ並ぶのが余計に癪に障ったのかもしれない。

だからどうした、本人結わなきゃいいじゃんという話になるけど、
どうしても結わなくちゃいけない場合がある。

お葬式だ。

何度も何度も深くおじぎをしなくちゃいけない状況というのは、
ポニテくらいじゃすまない。
パラパラと髪が落ちてみっともない。

ましてや、「これからお口でする女性」のように、いちいち
鉄矢式に耳に髪の毛を上げるなんて美しくない。
人前で髪の毛を触ることが無作法であるゆえ、髪に触れずにすむ状態に
しておかなくちゃいけない。
だから、大人の女性は髪を上げてピンで留めるし、子供は髪を編む。

そういうわけで、
彼女は母との確執、姉との確執から髪を切った。

あと、「白い服」を着ていた理由もこれだ。


・どこで髪を切ったのか?

「席を立って」
「帰り道のにおい」
「教室で誰かが笑ってた」

うん。

これは学校じゃない。

学校じゃないからね??

だって

お葬式なんだもん。学校休むでしょう普通。
一日忌引き。忌引きでなくても休む。

もう一度フレーズをプレイバック。

「静かに席を立って」

衝動的にハサミで髪を切り、腕まで切るよなことをするというのに

「静かに」

席を立つ余裕があるだろか。
もし学校の机ならガタタッと立ってイスなんか後ろに倒れて

髪の毛獲ったどー!!

くらいの勢いでやるはず。
しかし、そうしなかった。

彼女は、静かに、席を立った。

つまりは、彼女はそのとき、静かに「その席」をたたなくちゃいけない
シチュエーションにあったということになる。
湧き上がる衝動をギリギリの理性で抑えながら立った。

よって、彼女がいたのはそれなりの「厳かな場」であったはずだ。


・教室で誰かが笑ってた

世間は平日。みんなは学校、私はお葬式。

ふと、今頃なにしてるかななんて思っちゃう。
いつもの学校生活とかけ離れた場にいるだけあって、
なまじリアルに想像できる。

みんな笑ってるんだ。楽しくやってるんだ。
こんなにも晴れてるし。
私こんなんだけど。

実際に教室にいたのなら、「誰かが笑う」なんて表現ではないはず。
たとえ背を向けていたとしても、少なくとも声はわかるまいか。

そういうわけで
「誰とは限定しないけど、まあ、今日も相変わらず誰かは笑ってるんだろな」

と、ふと心に浮かんださまをあらわしている。


・行列に並べずに

彼女は、この場で「少し歌った」。
彼女は、この場で「席を立った」。

おうちでするポクポクチーンだと歌いもしなけりゃ、
席を立つ、というよりもお座布団から「立ち上がる」はず。
もしかすると、ここではイスが用意されているのかもしれない。

となれば、このお葬式はキリスト教式だ。

長イスの並んだ礼拝堂で、みんなで賛美歌312番かなにかを歌っている。

独創的なヘアスタイルと独瘡的な腕になってしまったせいか、
はたまたただ気乗りしなかっただけなのかはわからないけど、
彼女は行列に並べないまま「少し」歌ってた。
なぜ「少し」なのかはわからないけど。

イマイチなじみのない歌だから歌えなかったのかもしれないし、
歌えるけどそのときは歌う気になれなかっただけなのかもしれない。


・どんな日?

「それはとても晴れた日で」

「今日みたく雨ならきっと泣けてた」

このふたつのフレーズは対になっている。
そうなると、これらは(ほぼ)同じ日を指している。

普通、お葬式の日は特別視しない。
故人の最期の日として、命日が特別な日となる。

よって、これを歌っているのは故人の命日だ。
映画のあらすじからすると、誕生日を指すのかもしれない。
とにかく「今日」は雨が降っていて、泣けてしょうがない。

だけど、お葬式の日は晴れていた。
泣きたかったけど、その日は泣けなかった。
せめて、雨でも降ってくれていたら泣けてた。

教室で誰かが笑ってるような、気持ちのいい、
とても晴れた日だったせいで、目の前の、
どしゃぶりがとても信じられなかったのかもしれないし、
また他に理由あって泣けなかったのでしょう。

さて、なぜ泣けなかったのでしょうね。
涙腺と気持ちが空模様とかならず同じになってしまうのかしら。
それとも、雨粒で涙をカムフラージュしないと泣くこともできない
シビアな生き方をしてきたのか。
はてさて、作品見てないからどうにも。



***

もうひとつの仮説。

タイトルが「式日」からしてほかに式がつく行事を考えてみる。

卒業式。
入学式。
結婚式。
・・・

んー、違うかなあ。

そもそも、

「白い服で遠くから行列に並べずに少し歌ってた」

というフレーズがイレギュラーなものである自分を指している。
ならばこれと対になるのは

「黒い服で列に並んで歌う」

ということになりゃせんか。
白黒つけるか紅白だけど、赤い服着なくちゃいけない(?)イベントなんて
クリスマスしか知らないし。ていうかサンタ限定だしそれ。

白い服がことさら浮いていて、行列に並べないから
これまた浮いてるみたいな。