2010年8月29日日曜日

第09回 「入学資格を議論する」

Lecture 1

アファーマティブアクション

 ■アファーマティブアクションとは

  社会の時間で習うところの「ポジティブ・アクション」。
  差別されているなどの社会的不利益を受けている、
  マイノリティの側を優遇することでプラマイゼロとする、
  いわゆる逆差別の一例。

  電車でおしりやおっぱい、おまんまんを触られる女性が
  少なくないことから「女性専用車両」が設けられたのも
  広い意味でこれのひとつ。


 ■テキサス大ロースクールの入学にかかる訴訟

   カリフォルニア州立大を優秀な成績で卒業し、
   テキサス大のロースクールに入学するべく受験したある女性。
   結果は不合格。
   納得いかない彼女は大学を相手に訴訟を起こした。

   その理由は
   「大学が実施している人種差別に対する是正措置によって、
    わたしより成績の低い人間がわたしを押しのけて入学したから」
   というもの。

  これは有色人種を優遇するというもので、彼女の言い分は

   「白人であるわたしがもしマイノリティだったら入学できていた」

  というもので、実際、入学した有色人種の生徒では彼女と同じ程度の
  成績でも合格している人もいた。


 ■そもそも、彼女の言い分は何に基づいているのか

   ・入学資格は、テストの点数で決まる
   そして
   ・点数という結果・実績の前では人は平等である

   これを反故にすると

   ・人種で選んでるだけでそもそも試験を行う意味がなくなる

  ということが彼女の言い分にある。


 ■では大学側はどう考えたか

  大学側は

   マジョリティの生まれ = マイノリティの生まれ + 是正措置

  と考えた。これは、

   より優秀な能力を持った学生を入学させ、伸ばす

  という高等教育機関の使命を果たすためのもの。
  つまり、格差是正措置というのは

   マジョリティの生まれならば、入学選別試験の時点で
   本来もう少し才能を発揮していただろう、
   テストの実績はいまいちだったけど、本来の才能はもっとあるだろう

  という、「たまたまよい環境にいなかった」人々を救済するという
  考えがある。

  本来ならばすべての学校や家庭で同じだけの教育がなされるべき
  であったが、

   マイノリティはその十分な機会が得られない存在

  であることは明白な事実であるのでこれを是正しようとした。


 ■めんどくさいことすっとばして簡単に言うと

   テキサス州人口の4割が有色人種なんだから、
   大学に入学する有色人種の数も受験者の4割あるのが
   本来自然だろーが。
   そうじゃねえからやってんだってーの。


  という理屈。つまり、

   ハナから人種における人口比に沿う形で、ただしそれを
   厳密にすることなく、基本的に点数ベースで足切りすることで
   特定の人種に対して特別有利にならないようにしていた

  ことになる。これを言い換えると

   人種ごとに枠を設けてやってもいいけれど、手間とか
   管理考えたらしちめんどーなんで、みんなに同じ試験
   受けさせて後で枠決めして割り振ればいいよね

  という考えであって、さらに言い換えると

   すべての人種の人間らで同じ競争をさせるのではなく、
   それぞれの人種内でのトップシードを選別する

  ことを大学は考えていたといえる。イコール、

   それぞれの人種からすぐれた人材が集まる大学を目指した

  のであって、これは

   大学の意向

  である。これはつまり

   とにかくすぐれた人材が集まる大学を目指す

  ことと一線を画す。なぜならほっといたら

   べらぼーに白人が多くなる

  から。
  これは文化交流機関でもある大学としては意に沿わないことから
  これを避けようと考えた結果こうなった。
  また、集めてそのままでなく

   それぞれの人種から高度な専門性を持った人材を輩出する

  ことも理念においていた。
  それが社会をよくするという理念があるからだ。

  大学を出て郡だのや州だの、果ては連邦議会だのの中に
  有色人種も白色人種も金持ちも貧乏人もどんどん集まって
  それぞれの立場からとことん議論することはプラスになる。

  また、マジョリティや大企業のカタを持つ弁護士だけでなく
  弱者のためになる弁護士やいろんな価値観があることを知っている
  司法従事者を輩出することもプラスだ。

  これらのことから言えることは

   彼女は有色人種に負けたのではなく、
   同じ白色人種に負け、不合格となった

  という事実。


 ■極論すると

  47都道府県から一部例外を除いて1校ずつ出場する甲子園。
  「あの県からだったら俺たちも甲子園出られたのになぁ~」
  というくらい無意味。

  各都道府県のトップ同士で戦うのが甲子園なのであって、
  4千何百校すべての上位49校を選んで対戦しているわけではない。

  そしてこれは、何の差別でもない。
  都道府県間の教育的交流事業が高野連の意向・大会の目的だからだ。

  だから、186校ものトップである神奈川県代表を惜しくも逃したからといって
  24校しかない鳥取だったら(鳥取代表と戦ったら勝てることが明白だとして)
  自分たちも代表になれたはずだからそっちに入れろなんていう
  暴論は許されないし、そんな奴ァいねえ。

  そもそも神奈川の彼らが鳥取から出る資格はないし、
  そのことはなんら正義に反していないから。


 ■前回の話とあわせると

   「才能・能力」に付与される利益・権利・資格は
   時と場所、ひらたく言えば需給関係に左右される

  つまり、テキサス大学においては

   ・白色人種は比較的買い手市場
   ・有色人種は比較的売り手市場

  であって、その本質的理由は差別でも逆差別でもなんでもなく

   ・多様性を重んじるという価値観が大学にあったから

  というもの。どうして需給関係に違いがあったかというと

   ・白人枠に対する白色人種の数がべらぼーに多かった
   ・有色人種枠に対する有色人種の数がべらぼーでなかった

  という

   単なる需給関係の事実

  があったのみ。


***

最高のフルートは誰の手に

 ■前回のおさらい

  Q.大学や高野連の社会的使命やそれにかかる選抜方式は
   好きに決めていいのか

  A.よい。選ばれる人も選ばれない人も正しく尊重される限り。


 ■ということはだよ?

  大学の社会的使命に適う/適わないと「判断」されるというのは
  成績とはいまいち関係なしに品定めされてやいまいか。

  言い換えれば、大学が

   時代が求める人材を育成し、社会に提供する機関

  である以上、大学に入学する資格というのは

   時代が求める資質・才能

  であるわけだ。これをさきに出た言葉で言い換えると

   「正当な期待に対する資格」

  だ。
  つまり、その大学に合格できたのはその人の成績ではなく

   ある種たまたま身につけていた資質・才能

  を大学側がみとめたからということになる。
  いうなれば芸術学部(イコール芸術枠)に芸のない人は
  入れないことにおなじ。

  同時に、合格した人も落っこちた人もその人の道徳的対価、
  すなわち

   人生における実績・テストの成績・過去の結果etc

  というのは重要視されていないことになる。
  いうなれば、

   i.求める才能・資質の集団から特定の人材を選抜する方法として
   ii.成績が優良であるという「決め手」で選ぶ

  という、才能・能力・資質イコール「正当な期待に対する資格」先行の
  考え方がそこにある。


 ■これは正義か?

   実績、すなわち道徳的対価を考慮しないで選抜することの正義

  について考える。
  
  そこでオーディションというものを考える。
  これは日本語横文字で言うところの

   タレント[star: 芸能人]

  を発掘するのであって、これは応募者の

   タレント[talent: 才能・技能]

  を見出だす作業だ。
  しかしやり方はちと違う。

   その場で実演して実績(=道徳的対価)をつくってもらう。
   歌うたったり演技をしたり。

  そういうわけで一見、道徳的対価がモノを言う世界に思える。

  しかし。
  演歌が好きでうまく歌える日本人よりも、
  
   同じくらい演歌が好きで同じくらいうまく歌える黒人

  のほうがはるかに注目を浴びる資格があると我々の社会は考える。
  そこにある大きな違いはただひとつ

   人種だ。

  ぶっちゃけ、その黒人のほうが現時点で歌唱力があともう一歩
  だとしてもそのオーディションでは一抜けになることは間違いない。

  するってーと、同じくらい歌えるその敗れた日本人はなんだったんだ
  という話になる。
  同じくらいの実績があったにもかかわらず、だ。
  同様に

   人柄

  というのも重視されたりする。
  globeの山田さんはそつなく歌うどころかステージから落ちるという
  芸当をやってのけたあたりが"評価"されてあとの活躍は書くまでもなく。

  また、歌が恐ろしく上手いブ、もとい、おてもやんさん顔の人よりは
  そこそこの歌でもえらいかわいい子がオーディションに合格するはず。

  これが究極の形になれば

   えらい特異なキャラクターのぶちゃいくなおばちゃんだけど
   どえらい歌唱力を持っている

  となると一夜にして世界的大スターになってしまう。
  この場合、

   歌をうまく歌えたという実績

  よりも

   ぶちゃいくでヘンテコリンなキャラのおばちゃんというギャップ

  という「才能」が注目に値する「決め手」となっていることは確か。
  つまりそれらはみな

   時代が求めた人材・タレント

  であって

   必ずしも"実績"がべらぼーに優れているというわけではない。


 ■でだ、そこで何が問題になる?

  人を選抜する上で、その基準に

   自分の力ではどうしようもないもの

  がでてくることが問題となり、そしてそれは時に

   どうあがいても選ばれない

  ことを意味する。
  女子はラサールに入学できないし、甲子園でプレイすることもできない。

   成績・実績が評価されず、能力や身体的特徴などなどが評価の対象となる

  ことは正義であるか。


 ■多くの思想家はこう示した

   正義は、利得や道徳的対価に報いたり
   それを讃えたりするものと理解されるべきではない

  とのこと。この考えは

   道徳的対価と正義を結びつけることは、
   自由な存在としての個人への尊重から離れる行為である

  という点でも各々の考えは一致している。


 ■アリストテレスは正義というものをどう考えたか

   与えられるべきところに与えられること
  
  とした。たとえば

   ・バールは大工さんに与えられるほうが正義にふさわしく、
    銀行強盗に与えられるべきでない。

   ・スクール水着はスイマーに与えられるほうが正義にふさわしく、
    AV女優さんに与えられるべきでない。

   ・麻酔薬は患者に投与されるほうが正義にふさわしく、
    健康な人間に与えられるべきでない。

  まーこんな感じ。
  これはどういう理屈かというと、

  世の中には

   ・人々に与えられる物
   ・物を与えられる人々

  が存在し、

   ・平等である「物を与えられる人々」たち

  には

   ・それぞれ平等な「人々に与えられる物」

  が割り与えられるべきであるとした。


 ■ここで本題

   この世で最高のフルートは誰に与えられるべきか

  こたえは言わずもがな

   この世で一番上手にフルートを吹ける人

  である。
  じゃあフルートが吹けないというだけでフルートを得る正義は
  ないかというと

   そのとおり

  と言え、このことから

   すべての正義は、差別を内包する

  という答えが導かれる。
  ここでは、

   その人はフルートを所有するにふさわしいかどうか

  という点が焦点となる。


 ■いやいやしかし

   スクール水着はAV女優に与えられたっていいじゃないか

  という意見もあるはず。
  これについてアリストテレスは

   ・そのすくみずに一番高い額を出した人間に与える
   ・くじびきで与える
   ・最も似合う女性(時に男の娘)に与える

  などなどといった、ほかの根拠によって所有されることは
  すべて正しくないとした。

  しかしこうも言っている。

   もしかすると、スイマーがその水着を所有するよりも
   似合う女性に着せたほうが世の中のためになるかもしれん
   という考え方はあってもいいかもしれない。
  
  だけど

   たとえそうであったとしても、
   スクール水着はスイマーに与えられることが正義である
   ことは変わらない。

  なぜなら、スクール水着は、

   ・学校の体育の授業においてプールで着用されることが目的

  なのであって
  
   ・大人の保健体育の授業においてベッドで着用されることが目的
  
  というわけではないからだ。


 ■これはどういうアプローチか

   ギリシア語で言うテロス(目的・意義・目標)から正義を見出す
 
  アプローチを

   目的論的論法

  と呼ぶ。
  目的からさかのぼってなにをすべきか、なにが正しいかを
  考えること。

  この考えは社会システムだけでなく、自然に起こることすべてを考え、
  自然の中での人間の立ち位置を把握する上でも用いられていた。

  よってこれは

   「すべてのものに意義がある、すべてのものは偶然でない」

  といった聞こえのいい流行歌の歌詞にありそうな、でもなんのこっちゃ
  いまいちよー説明がない考え方に通ずる。

  これは禅の思想と似ていて、物(モノだけでなくモノも物事・現象一切を含む)と
  自我の関係性を把握するアプローチが同じ。
  
   ex.)
   軍医は担ぎこまれた兵を治療しても、兵は治るとたちまち
   再び戦場へ赴きまた怪我をして帰ってきたり命を落としたりする。

   治すことがもはや「無意味」「意義がない」と感じた軍医は
   どうして患者を診られようか。   

   こたえ。

   「医者だから、目の前にきた者を治す役割がある」

   という自律のこころが彼を支える。
   これはすなわち、自分という人間の目的・意義・役割を
   きちんと把握してはじめて得られるところ。

   これまでは目的や目標が違っていたかもしれない。
   まるで看護学校のパンフレットにあるように

    「患者さんが元気になってほしいからです」
    「ありがとうと言われるとやっててよかったと思います」
    などなど
   
   のような動機。もしかしたら

    「儲かるから」

   とかいうのもあるかもしれない。

   しかし、真に意義を見出し、それを自分に律しないと
   軸がブレてしまう。

   この場合、医者は患者を診るのが仕事であるという目的を見据え、
   患者はどこへくるのか、そりゃあ医者である自分の元へくるがな、
   治ったらどうなるがな、

    そりゃあまた戦地に行くに決まってる。兵士だから。

   といったように、物事が単純明快に「わかる」ことができる。

  しかし、人間は経験や偏見、自負心などなど、自分というフィルタを
  かましてしか世界を見られないものでして、なかなかそいつらを
  全部とっぱらって物事を見るというのは難しい。

  でもそれを目指すのが禅や老荘といった思想哲学、宗教哲学、そして
  この授業のような学問としての哲学ってやつなんじゃないかしら。


  ■そういうわけで

   点数がよいという理由で、白人が有色人種枠へ入るのは

    泥棒にバール、AV女優にスク水

   であるのと同じことと言え、

    正義ではない

   と言える。


***

おまけ
  
  ■聖書に見る正義

   「豚に真珠」という言葉は聖書のもの。
   価値のわかるものに相応のものが渡ることが正義であり、
   そうでないものは不義であるとキリストさんもおっしゃってる。

   言ってることはまったくおなじ。
   これがなかなかできないから、他人の目の中にあるちりが
   気になる一方で自分の目の中にある丸太に気づかないという
   たとえもあったり。