2010年6月30日水曜日

樹海の糸 けもの道

Cocco - 樹海の糸

歌詞はこちら


「いいね、外へ行ってはいけないよ」
「いっしょにここから逃げましょう。永遠の愛を誓いましょう」

ふたつの誓いが主人公には課せられていた。

草の茎でひっぱりあって遊ぶよう、この相反する誓いは
ついにどちらかが切れる運命にある。


***


義母の大事にしてくれる気持ちはよくわかる。
美しさもきれいな歌声も与えられた。
すべてはわたしのため、将来の幸せのためであることはわかっている。
ただ、退屈なわたしの気持ちを汲んでいないだけで。

王子様はわたしを連れ出してくれた。
しかし、義母はその途端わたしに施してくれたものをすべて
とりあげてしまった。

そこに残ったのは醜い、何の取り柄も無いわたし。


あなたはそれでもわたしを愛し続けるでしょうか。
わたしもまた、この現実をとうてい受け入れることが
できるでしょうか。


「美しい王子様と美しいお姫様は手を取りあって
いつまでもしあわせのうちにくらしましたとさ」


という、終わりと永遠の始まりではないのです。
美しい王子様と醜いお姫様のお話として物語は続くのです。


さあ、この醜いわたしを抱いてみてください。
この物語はここで終わりにしましょう。

こんなわたしでも愛せるなら、あなたはわたしを手放すことはない。
でもそんなはずはないでしょう。

きれいなお姫様はきれいな王子様といっしょになるのが夢なように、
王子様もまた、きれいなお姫様といっしょになるのが夢でしょう?

わたしには、あなたの気持ちがよくわかります。
わたしもまた同じ人間ですから。


さあ、この醜いわたしを抱いてみてください。

この現実はここで夢物語として終わりにしましょう。
悲しい恋物語としておしまいにしましょう。まだきれいなままに。
二度と逢うことのない永遠をはじめましょう。

「悪い魔女」がわたしを変えてしまったとしてもいい、
愛したわたしこそがあなたを騙しおおせた「悪い魔女」としてもいい。
夢の終わりを好きな色になさって。

これであなたの気が晴れるなら、あなたの傷が癒えるなら。
わたしとの記憶をすべて殺して。


運命の赤い糸をほどきましょう。
はじめからふたりにつながっていなかった、何かの間違いで
森の中で交差しただけのお互いの運命の糸を。


***


王子様はいない。
義母のもとへ戻ることもない。

わたしはひとり、王子様に愛された記憶を抱いて生きてゆく。

そう決意した。

・・・。



ああ。
あたたかなベッドが、きれいなシーツが恋しい。
そしてなにより、あたたかいスープが恋しい。

森は暗く、寒く、恐ろしい場所だった。

わたしの決意なんて、そんなものだった。



わたしは義母に赦しを乞うた。
義母はわたしを赦してくれた。

あたたかい部屋、あたたかい食事、あたたかい母親。
そして美しい声もふたたび与えられた。

もしあなたがふたたびこの声を森の中で聴いたなら
気の迷いなんて起こさないで。失ったことを後悔しないで。

あなたを「騙した」わたしを許さないで。
わたしを捨てたあのときのあなたを許さないで。

わたしの声はまやかし。あなたの叫び声でかき消して。
わたしの顔はまやかし。目を閉じ醜い顔を思い出して。

何も聞かないで。何も見ないで。二度と。

許したら、また繰り返すから。

わたしはあなたを求めない。
許されも報われもしない恋だったのだから。

わたしはあなたに会わない。
それでも許してしまうかもしれないから。

許したら、夢物語から醒めて、また悲劇を繰り返すから。


こんな結末を招いた本当の自分の姿も憎い。
その姿を認め、手を離したあなたも憎い。

けれども、愛された日々はほんとうにとても幸せだった。
わたしは記憶を紡ぎ、愛しさも憎しみもすべて織り上げ、
永遠にあなたとの夢物語を歌うの。


***


「樹海の糸」は、ペルシネットを歌っているという仮説。
アルバムのタイトルで言うならば「ラプンツェル」。

この義母はそりゃあ手厚く娘に施していた。
また、
この王子様でない、またどこかのすばらしい男との赤い糸を
用意してくれていた。
そのために悪い虫がつかぬようにしておいていた。
ちゃんとした理由があった。

なので、義母からしたらこの王子様はただの横恋慕でしかない。
また、本来運命として用意されていたペルシネットの結末からしても
このB級王子様は

「なんの別のおとぎ話に影響されたかわからんけど
なんか救出しに来た気分でいる勘違い野郎」

でしかない。

実際、ペルシネットはのちに"本来の"のハッピーエンドを迎えている。
ひらたく言えば、交差してはいけない糸が勝手に絡まってきただけ。

こっちでは鬼女が正論という評価だし、こっちでも
なんかこの王子変態みたいな扱いになっている。
ふざけてるわけじゃなくてまあ、「ふつーそう思うよな」って感じでもある。

現実社会ならば、手塩にかけて育てた娘がだ、晴れて進学校に入学したかと思ったら
卒業する前からどこの馬の骨ともつかん男の子供を授かるようなもんで、そりゃ親は
憤慨もするし情けなくもなることでしょう。
(幸せの定義やかたちを親が決めるということについての、誤った押し付けとも
正しい手引きともとれる見方の違いはおいといて。)


さてこの二人。
なんというか、別におとぎ話の世界でなくても男女ってこんなもん。

「こんな人だと思わなかった!」

てのがこの日本のどこかで、世界のどこかで今この瞬間も誰かが口にしている。

くっついては離れて、を繰り返すカップルなんてのはどうも重症で
いっしょにいると相手が見えちゃうからどんどんイヤになって
離れるとまた相手が「理想像」に思えてきてなんか許しちゃう。

許しちゃうから繰り返す。
許せないから「ひとつの終わった恋」でクローズする。

どっちが"美しくない"かってーと、もちろん前者。
たとえる言葉がおかしいけど、思い出は美化してくれる。
また繰り返しさえしなければ、どんどん美しくなっていく。死ぬまで。

ところが許して失望しての繰り返しはいつまでも美しくならない。
ほかにもっといい人いるのにそっちの縁も切れちゃう。

昔の男は、どんなに思っていても、諦め切れなくても、
さっさと振り切って思い出にするほうが幸せになれそう。
「失恋したら髪を切る」ってのはなんだか言い得て妙。
もう二度と塔を登ってこれないもんね。





■その他つらつら

・糸が絡まりながらただれゆくように

糸と糸の触れた部分がこすれて繊維がほつれゆくさま。

張りつめていない糸同士では絡み合うことはあっても
ただれることはない。
なので、このふたつの糸はどちらも張りつめている。

ヴァイオリンの弓と弦が擦れあい、次第にほつれ、時に絡み、
最後には弓はぼろぼろ、弦はぷっつり。

ふたつとも張り詰めているということは、それぞれの糸が
別のどこかまでぴん、と張っている。

糸電話のよう、ふたり同じ糸なら近づけば近づくほどその糸は
垂れてしまうし、クロスすることはない。
そのくらいの距離なら、紙コップ使うより寄り添ってお話しした方がよい。
一方で離れてしまえばしまうほど糸は張ってゆく。
離れすぎて糸が切れることもあるけれど、それは別の話。

「何も聞こえない、伝わらない」
「何も聞きたくない、話したくない」

まるで糸の切れた糸電話のよう。


・永遠を願うなら。

整理して考えてみる。

if  永遠を願うなら
then 抱きしめて and 離せばいい

if  わたしさえいなければ
then その夢を守れる

このふたつは共に同じ「望む結果を得る」ための行為を教唆している。

前者は
~することが叶うためには ~しなさい

後者は
~したら ~することが叶います

と、表現が逆になっている。
これを踏まえて考えると、

・永遠を願う
・夢を守ることを願う

このふたつは同じだ。
あるいはまったく同じでなくとも、目指すベクトルは同じ方向だ。

しかしなんのこっちゃというか、このままでは言葉に整合がとれてない。
なので永遠のほうをあわせてみると

・永遠(に、~すること)を願う※
・夢を守ることを願う

※いうなれば
エタニティそのものというあいまいなものを願うのでなく、
ある状態・行為のエバーラスティングを願うということ。

とまあ、なんとなくだけどわかる形になった。
ここへそばへ置いていた要素をもってくる。

if  わたしさえいなければ
then ある状態が永遠に続く、という願いが叶う(≒夢が守れる)

よし、これでだいたい完成。
じゃあこの永遠、夢ってなにさという話になる。

話を最初の最初に戻すと、そもそもこれはおとぎ話だ。
夢見たハッピーエンドの出来レース。

最終目的地はいつだって「王子とお姫様の永遠の愛」。

しかしここではその「夢のハッピーエンド」を諦めている二人がいる。

ハッピーエンドの反意語はなんですかってーと、バッドエンド?
そうとも言うけどちょっと違う。
ドラえもんしかり、トム&ジェリーしかり、

「さあ、どうしてくれようか?」

「(・・・ゴクリ)」

- END -

と、終わるどころかこれから始まるエンディング。
始まりがおしまいにあるという永遠。
おしまいが描かれることがないという永遠。

幸せでない状況が終わらないことこそが、恐ろしい。
不幸のはじまりがそこにあると、なお恐ろしい。

ならば、幸せでない状況をここで終わらせ、
「別の永遠」に救いを求めるほか無い。

そのためには二人取り合った手をほどき、
「愛し合った事実は永遠に残るよね」という、まだ救いどころのある
エンディングを選択するしかない。この状況では。

そして二度と二人、「不幸にも」出逢うことがない永遠。


・わたしを奏でる

歌詞を英訳したページのあちこちで「私は楽器」とある。
さてこれはどうなんだろう。
桑田佳祐ならロンリープレイなピアノだけど、これもそうなのかしら。

さあ。
いろんな気持ちを織り上げてなにをする。

曲をつくらないだろうか。
詞を書かないだろうか。

2番のサビでは同じ部分のフレーズでは女の側からこう歌っている。

「溢れ出る憎しみを織り上げ あなたを愛し歌うの」

これと対になるならば

「溢れ出る憎しみを織り上げ わたしを奏でればいい」

これは「わたし」を歌った歌を奏でるということにならないか。


「ショパンを奏でます」

といったとき、ショパンという楽器がないように。

「悲しい調べを奏でます」

といったとき、悲しい調べという楽器がないように。

ゆうこを奏でます」

といったとき、その名が「ただの曲名でしかない」わけでないように。

そしてなにより、もう2人離れてんだから、距離的に楽器弾くって
レベルじゃないでしょう。
「家に置き忘れてきたリコーダーを吹く」くらい無理。
本家がそう言ってるのかしら。

仮にこれをインストゥルメントとするならば
さきに書いたとおり、二人遠く離れていても、むしろ離れている
からこそ互いの糸が張り詰めてクロスしたままだとしたら
その糸らが奏でるのかもしれない。
時にどちらかが弓となり、もう一方が弦となり。




・つまりどゆこっちゃ

「好きだからさよならしましょう」とかいうことではなく、
どうして人は人を好きになるのか、どうして醒めるのか、
そもそも人って異性(時に同性)の何を、どこを見た上で
くっつきたがるのかというところを描いたんじゃないかしら。

人間というのは、もとい、恋愛というのは本当に文字通り

「その人をありのまま受け入れる」ということは、決してない。

ということが言える。
なぜならば、恋愛は、他者愛ではないからだ。


・ますますなんのこっちゃ

小室哲哉に言わせれば

見返りを求めるのが恋
見返りを求めないのが愛

らしいけど(本当に彼が言ったかどうかは知らない)、
情愛のエキスパート、寂聴さんに言わせりゃ

恋も愛も、「慈悲」じゃねーのはみいんな執着する愛だってーの

という具合なので、

自分の寂しさを埋めるために他人をこの自分が好きになる

という動かしがたい主語がここにあるもんですから、

「誰のため?」「そりゃ自分のため」

ということを認めざるを得ない。

ギブアンドテイクじゃねえ、要はギブアンドギブだってーの

というステージまで上がってこない限り、それはどこまでも
自己愛の為す業でしかない。


(おまけ)
アウトロのハミング、ハインリッヒという王子様的な名を
言ってるように聞こえるのは僕だけでしょうかそうですか。


***

この曲で主人公は森の中でひとり歩むことを諦めた。

ではもし。
本当に森の中でひとり生きてゆくこととなったらどうなっていたか。

髪はボサボサ。
爪は伸び放題。
草から動物まで捕らえては食む。

まるで山月記でけものとなってしまった者のよう。
理性なんて保つだけ無駄。生きて行けない。

そんな変わり果てた彼女にもう一度、この森の中で二人再会したら
そこに流れるのは透明な涙か、はたまた赤い血か。
愛欲と食欲、どちらが勝るのか。
彼女はそのとき、どちらをより欲すのか。
そこに赦しはあるか。

平穏かつ幸せな人生というエンディング、
純愛を通したまま狂人となるエンディング。

Coccoの描いたラプンツェル。「完結編」はどちらか。
同名のアルバム1曲目に描かれたのはどちらの情景か。




≪サブテキスト≫
中島みゆき「誘惑」
http://www.kasi-time.com/item-18394.html

>ガラスの靴を女は 隠して持っています
>紙飛行機を男は 隠して持っています

テーマとしてはほぼ同じ。
この歌は男女の側がわかりやすく対になっている。
なので

>黙りあって 黙りあって
>さみしかった さみしかった

と、一見強調するくりかえし表現のような部分もまた同様に
男女それぞれの心情・様子をあらわしているものですから

男「・・・(さみしかったのに)」
女「・・・(さみしかったのに)」

と、お互いに口に出せず黙りこくるさまをあらわしている。
そして最後に

「夢のつづき」

という名の現実、しかし夢であった過去を抱える状態下の現実を
はじめることになる。
その現実は紛れも無く、その夢の配下にある。

夢とひとくくりに言っても、覚めてはじめて気づく一夜の「夢」
のようなものでもあり、それでもなお叶うはずと持ち続ける
理想をさす「夢」のようなものでもあり。

夜見る夢に覚めてみる夢、いずれも日本語でも英語でも
同じ言葉をあてはめるあたり本質的にはどちらも実はあまりに
非現実的で大した差異なんて無いものなのかもしれない。

朝目覚めてすぐ、ないししばらくすると忘れてしまうも
実は毎晩夢見ているように、実はその非現実を人間は
無意識に日々頭の中にひっそり抱え込んで生きているのかも
しれない。