Cocco - 羽根 ~ lay down my arms ~
歌詞はこちら。
「そのシャツどこで売ってるんですか」
でおなじみの小室哲哉氏に言わせれば、世界は天と地との
2つでできているとのこと。
どっこい
「戦後と基地の65年-
童名は消せても
島の血と硝煙と黒線香の匂いは消えない(ビン・ホエモ)」
(「エリア88 ここは米寿の激戦区」より)
といった具合に、ハワイで教師をしていようが
ブラジルサンパウロ郊外で農園を営んでいようが
心はわれらウチナーンチュであるからして、世界は
天・地・人
の三つで成り立っているという認識でございますから
こっちの考えでひもといてみる。
■つらつら
・どこへ行こう?
詞の中で「羽根」は土へ帰った。
詞の中で「羽根」は空へ帰った。
となればのこるひとつ。
人へと帰る作業を「羽根」は行う。
だから、どこへ行こうという誰となしの問いかけは
「羽根」という地に足のついていない存在から、
しっかり地に足ついた人へと帰ったのちに
どういうベクトルで生きればよいかを求めている。
・めずらしく
羽根というタイトルに副題がついている。
「はばたくための両腕を休める」
くらいの意味。たぶん。
でもって学校の英語で習うように、armは複数形になると
武器を意味するものだから
「武器を置く。戦いをやめる。ふりかざした腕を下げる」
という意味も読み取れる。
ふたつの意味を持たせるためにわざわざ英語表記にしたのかも。
・青い武器
錆びるのだから、これは金属だ。
しかし、青い金属というのはそうそう存在しない。
銅なんか錆びてはじめて青くなる。
となると、これは金属でない、ほかのなにかの喩えだ。
そもそも、錆びたらどんな武器だって役に立たない。
でもここではわざわざ「青い」武器と表現している。
ならば。
青い間は撃ち落とせるだけの力を持っているけど、
赤く錆びてしまうとその力を失ってしまうとしたら。
するってーと、これはたとえば武器そのもの、たとえば銃
ではなく、弾丸に喩えられないか。
未熟な果実に毒があるように、さるかに合戦にでてくる青い柿が
あまりに殺傷能力が高いように、やわかくなった黄色いパパヤーを
チャンプルーにしてもおいしくないように、未熟な「わたし」は
青い言葉でもって「鳩」に対する攻撃の手をやめなかった。
「鳩」は攻撃を受け続けたせいであまりに虚ろ。
しかし一方で「わたし」の側も疲れはててしまっている。
おかげで今は毒を失い、つけた実は甘美にまみれた口あたりの
よいものでしかなくなった。
そして、鳩は毒のない果実を何事も無く平らげてしまった。
すでに攻撃する言葉を失っている。
むしろ、青からエンジ色へと変化したさまを
人間としての成熟と捉えるならば紛れもなく進歩だ。
いたわる言葉さえ投げかけている。
・戦いの終結
"lay down my arms"
というくらいだから、羽根のついた「鳩」は主人公だし、
armsで攻撃を続けてきた「わたし」もまた主人公。
主人公が二人いる。
いわば、これは水鏡の延長線上にあるストーリー。
そう考えると理解しやすいし、今回のPVは素直なつくりに
なっているようにも思える。
さて。
水鏡では変化を拒む「あなた」がいた。
厳密に同じ"人物"を指すかどうかは不明も、
ここでは「鳩」が登場する。
この「鳩」はやがて舞い上がり、土へ、空へ帰る。
そして最後に人に帰る。
燃えて灰になるどころか、灰さえ残らず。
・和解、そして統合
水鏡にもでてきた、反発によって統合出来ていない
「自分の一部」が自我へ統合していただくには
それぞれの和解が必要になる。
この作業がやっと行われようとしている。
「紫陽花」に同じく、言葉の通り
「過去の自分」
「あのころのわたし」
という、現在と関連を持たない自分について新しく
「羽根」
という名前を付けたのでしょう。
そして「羽根」の思い・価値観は現在とつながりを失い、
人によっちゃ
「いやーあの頃の俺どうかしてたよ」
とか
「若かったんだねえ・・・」
と、思い出を文字通り"他人事"のように語るように、
今の自分とは「別物」になってしまう。
同じ自分なのに、持てるつながりは「思い出」しかない。
でも。
ほんとは決して消え去るのではなく、自分に帰ること。
そして決して忘れ去るのではなく、ちゃんと憶えていて
あげるよという気持ち・認識が「わたし」に生まれ、
その気持ちを「羽根」も知った上で和解に至ったのではなかろか。
そんな両者がようやくいっしょになれるねという仮説。
さて。
消えれば楽になる「わたし」とは誰。
動けない「あなた」とは誰。
どこへ行こうと言っていた主人公はどうなった。
燃えているのはどこか。
焼け野となっているのはどこか。
空へ帰れたのか。
Cocco - 焼け野が原