2010年8月3日火曜日

第01回 「殺人に正義はあるか」

しにジョートーな学校の授業があるって聞いたから俺まとめ。


Lecture 1

線路上の5人


 ■CASE1
 
   ・ブレーキの効かない暴走列車
   ・線路上に作業員5人
   ・待避線に作業員1人
   ・手元のハンドルで待避線へゆくことが可能

   このときの正義は?

  【5人死ぬ】
  ・ハンドルを切らない

   線路上で作業している以上、彼らにも注意義務がある。
   言い換えれば、わずかながらも「死ぬ用意」がある。

  【1人死ぬ】
  ・運転手が待避線へ舵を切る

   彼もまた、線路上で作業しているので「死ぬ用意」がある。
   たとえ列車がくる予定でないとしても、リスクを考えて
   行動すべきなので5人らと立場は同等。
   なぜなら待避線は緊急回避的に使われることもあるというのは
   承知していて当然だから。


 (ここまで)
  この場合、どちらも同じだけ覚悟ができてる人がいる。
  線路上で作業をするリスクを計6人が同等に承知している。

  ならば、この「6人」の中での最大多数・最大幸福(便益)を
  図ることが正義だ。

  焦点となるべき大事なトコは「助かった人数」だ。


 ■CASE2

   ・ブレーキの効かない暴走列車
   ・線路上に作業員5人、待避線はなし
   ・その手前、線路にかかる橋が
   ・橋の上には私と列車を止められそうな超デブ1人

   このときの正義は?

  【5人死ぬ】
  ・なにもしない

   "列車に轢かれる用意のある"5人が死ぬ。

  【1人死ぬ】
  ・橋の上からデブを突き落とす

   傍観者でしか無い人間は、リスクを承知していない。
   だから列車に轢かれる用意がない。なのに死ぬ。


 (ここまで)
 まず、生命には優先順位が存在する。

 生命の優先順位は
 
 「危険に同意が取れている人」よりも
 「危険に同意が取れてない人」のほうが優先される。

 線路上で作業している鉄道会社職員は

 危険性 = 相応の覚悟 + 相応の給与 + 労災 + (保険)

 という等式のもとで働いているが、
 たとえば線路前で踏切待ちしているただの人にはそれらはない。

 また、鉄道会社職員は
 「乗客ほか、職員でない人間の安全優先」
 という行為基準・倫理で動くことが求められている。
 航空機事故でも乗務員は最後に脱出する。

 このことから、運転手や作業員ら「5人」と傍観者「1人」の間には
 決定的な違いがある以上、この「1人」の便益を損ねないことが正義だ。

 言い換えれば、
 「5人は傍観者1人の犠牲の上に助かることを望んでいない。
  望んだとしたら、それ自体が行為基準を反故にするという不義」
 だ。

 危険を被ることに同意ある者
 万一の際安全が劣後がすることに同意した者

 がいるにもかかわらず、そこにいるという理由だけで
 同意のない者に何かを強制するのは正義じゃないとする
 無条件的な道徳主義。

 別の言い方をすれば、映画のスタントマン5人の生命を
 撮影を見に来た人ひとりとひきかえにできっこないし、
 航空ショーでアクロバット飛行している5人のパイロットと
 会場を訪れたただの航空ファンは秤にかけっこない。

 そういうわけでここではカントの考え方。
 約束は守られるべきだという無条件的な道徳主義。

 「同意・約束」の有無が"最大"効用の"リミッター"となる。

 同意の有無を無視して個人を最大効用の名のもとに沈めてしまうと
 最大効用からともすれば質の悪い「全体主義」に成り下がってしまう。

 リミッターやブレーキもない一方で最大値を追い求めると文字通り
 「暴走」する。
 列車も、社会も。


***


死にゆく6人


 ■CASE1

   ・放っておけば死ぬ6人のけが人
   ・うち1人が瀕死
   ・瀕死患者1人を診るとのこり5人が死ぬ
   ・重症患者5人を診るとのこり1人が死ぬ

   このときの正義は?

  そもそも、この6人とも放っておいたら等しく死ぬ。
  イコール、容態は異なれど死ぬ確率は各々100%だ。
  この時点で死を前に6人は平等だ。

  全員同じ幸福な結果になる可能性が十分あるのに、
  ひとり不幸になる

  というのはナシだ。でも

  全員同じ不幸な結果になる可能性が十分ある

  ならば、平等な「6人」のうちの最大多数である「5人」の
  最大便益を図るべく、この中で助かる見込みのより低い
  「1人」のプライオリティを低く、言い換えれば見殺しにし、
  5人を助けるのが正義。

  ×死ななくてもよい → なのに死ぬ

  ○死んで当然 → 生き残るだけもうけもの

  という考え方。 

  功利主義を否定し、プライオリティをつけることが
  正義でないとするなら、6人とも死ぬことが正義。
  全員に中途半端な施しをして殺しても満足できる正義。
  平等を期すためなにもしなくても満足できる正義。
 

 ■CASE2

   ・放っておけば今にも死ぬ5人の患者
   ・患者はそれぞれひとつずつ異なる健康な臓器を
    必要としている
   ・となりの部屋には健康診断に訪れた、健康な人がひとり

   このときの正義は?

  医者の仕事は
 
  ・病気の人を、そうでない状態にする

  ことであって、

  ・健康な人を、そうでない状態にする

  ことでない。

  放っておいたら死ぬという人と
  放っておいても死なないという人は同等に扱えない。

  よって、この場合は列車CASE2と同じで
  最大効用ではなく優先度の問題。

  そういうわけで、5人を静かにみとってあげるのが正義。
  ここでも、最大効用へのリミッターが存在する。


 (ここまで)
 生命の優先順位は
 
 「放っておいたら死ぬ人」よりも
 「ほっといても死なない人」のほうが優先される。

 最大効用への試みは、前提として「同じ条件下の者たち」について
 あてはめることができるも、同じ条件でない者がいる場合には
 そのままあてはめることはできない。

 なぜならその、前提条件の違う者の一方が殊に有利になったり
 不利になったりするから。


***


ところで。

 待避線の問いだって、待避線にいた作業員は
 「ほっといても死なない」と言うかもしれない。
 条件は違うと。優先度で片付けられるはずだと。

 でも、線路上で作業するという点で言えば両者の
 リスクに違いはない。
 ブレーキの故障でなくとも、発作で意識朦朧とした
 運転手が待避線に突っ込んでくる可能性さえある。
 だから、この場合とはちと違う。

 さらに言うと。
 そもそも、ここで「何もしない、放っておく」という
 概念はあるだろか。
 なんにせよ

 ・ポイントを切り替えたという「選択をした」
 ・ポイントを切り替えなかったという「選択をした」
 
 と、なんにせよ選択という行為を迫られている。
 「なにもしない」ということは、ここでは存在しない。
 
 あるとすれば

 ・ポイントを中途半端に操作して脱線事故を起こし、
  本線と待避線にいた計6人の作業員と運転手1人、
  そして乗客150名が死亡

 という最悪のケース。すげーいじわるな言い方だけど。

 こういうわけで、「6人」の生命の価値は同等なはず。


***


余談

 もちろん、待避線上にいるのが作業員でなく、線路に紛れ込んだ
 子供だったら話は別。これはCASE2。

 また、線路に紛れ込んだのがどう見ても認知症で徘徊癖のある老人でも
 ここでの正義はゆるがない。

 鉄道会社職員の生命が100も1000もあろうが、それよりも
 「職員でない人」が優先される。たぶんそれが正義。同意があるから。

 ただ、この場合作業員の妻や子を考え、老人の側へ舵を切ったとしたら
 「正義を行わなかった」としても「理解・共感を得る」ことは
 十分にあるはず。

 この場合、鉄道会社社員でないから優先度は高いはず。
 ただし、微妙に違えどその老人もまた同じ「放っておいたら死ぬ」
 対象ともみなせる。

 ここでは、職員かそうでないかという優先度でなく、
 世間という名の社会、そして時にそれの代表である司法が

 「同意有無以前にまず、人間として両者は完全に同等であった。
  同じ最大多数の候補にある分母に両者はいた(かどうか)」

 またひょっとしたら

 「作業員のほうが優先されても致し方なかった(かどうか)」
  
 という判断を下すことになる。

 老人は本来この先30年生きたかもしれないし、生き残った
 作業員等が裁判を待たずして全員ガンで死ぬかもしれない。
 それでも覆らないのが正義で、その判断を正しく行うことが
 求められるんじゃないかしら。

***


Lecture 2

ミニョネット号沈没事件

  ・船沈み救命ボートで脱出・漂流
  ・乗組員は4人
  ・20日間水も食料もほぼ皆無
  ・一人は制止も振りきり海水を飲み、瀕死

  船長、瀕死の乗組員を殺害
  → 3人生き延びることができ、のちに救助された

  これは道徳的に正しいか?


 ・正しい

 さきの「6人のけが人」におなじ。
 ほっとけば4人とも死ぬ。等しく死亡率100%。
 誰が死ぬとかではなく、みんな死ぬ。
 容態に差はあれど、救助の見込みがない以上死を前に彼らは平等。

 遭難直後のように、

 「体力の差から誰が生き残るかわからない状態」

 でなく、すでに20日も経過していることから

 「いつ誰が死んでもおかしくない」

 状態。

 死という究極の状態において優先度に差がない。
 ということは、まずはじめの段階で優先度では解決できない。

 ならば、なんらかのプロセスでもって最大多数の最大幸福を
 達成するほかない。

 そういうわけでまず、船長は"平等に"「くじびき」による
 生存の選択を提案した。ひとりの生贄とひきかえの。
 しかしこれは反対にあい、行われなかった。

 その中で、もう、「今にも死ぬ」ところに見える人間がひとり。
 「制止も聞かず」海水を飲んで弱っている乗組員。

 この観点ではじめて差異と多数派・少数派が生まれる。

 結果、彼のプライオリティを低くおいたことで、
 残る3人という最大多数の最大幸福を実現した。 

 もし、「生贄」の彼が海水を飲んで弱っておらず、
 他の3人と同じ状態だったらならば殺されるだけの
 差・優先度の違いは生まれなかったはずだし、そんな彼を殺すのは
 明らかに道徳に反している。

 本来ならば、その弱った乗組員が死んだのちに彼を食したなら
 カニバリズム云々を除けば問題はなかったはず。
 しかしここで問題になるのが「とどめ」を刺すことの是非。

 海水を飲むという、線路上に置かれた箱に自ら入り鍵をかけるような
 行為を行ない、今にも列車が彼を轢こうとしている。
 そんな箱にライフルを打ち込むのはありか、なしか。

 地雷を踏んじゃったら最後。もうどうしようがない。
 そんな彼にライフルを打ち込むのはありか、なしか。

 死の直接原因は行為者にある。
 しかしそれを行わなくても死ぬ。

 列車の急ブレーキが異常に効くという奇跡、
 地雷が不発だったという奇跡を前提にして
 「生」の可能性を語るのは言葉通りナンセンスだ。

 であるならば、死という結果の前には
 横入りしてきた行為者の殺害行動そのものに意味がない。

 しかもこの場合、いたずらに殺すのではなく、
 のこる3人が刻一刻と迫る死から逃れられる

 唯一の
  
 手段として、とどめを刺す。
 ならば十分、人間4人というごく小さな「社会」の、のこる3人の
 延命という「公共の福祉」に適うものだと言えないか。

 
***

 
ところで。

 「6人のけが人」であれ、「ミニョネット号」であれ、
 いったん平等な立場にならべ、それから優劣でもって
 選択するプロセスを行う際、差異化の方法には正当なものと
 不当なものが存在する。

 たとえば、ここでは容態(生存の可能性)の差で判断した。
 しかしこれがたとえば、本人でなく他の誰かが騙して、
 あるいは無理やり海水を飲ませて弱らせたとしたらこれは不当だ。

 また、人種や信条、保有資産、その他個人的な怨恨で「生贄」を
 チョイスしたならこれも不当だ。

 正当な差異化がプライオリティ付けだとしたら、
 不当な差異化は「差別」だ。

 最大効用の暴走を食い止めるリミッターが「好き嫌い」や
 「差別」といったものでは暴走をコントロールできない
 どころか、却って助長させてしまう。

 リミッターそれ自体が同じシチュエーションによって
 機能したり機能しなかったりするのは正義とはいいがたい。

 だから、「無条件の道徳的原理」というゆるぎないものに
 依る必要がある。