2010年7月25日日曜日

もくまおう

Cocco - もくまおう



Coccoの歌にはよく、ふたりの自分が登場する。
このあたり一応過去のわたしと、今のわたしと置いている。

今のわたしは未来を内包する。変化の余地がある。
しかし過去は変えられないので、過去のわたしはずっとそのまま。

現在と過去、両方を含むわたしが「自問自答」するわけでなく、
どちらかというと両者は独立していて現在が過去の側へ語りかけていたり
両者が対話(になっているかは定かでないけど)していたりする。

まずは。
ここで取り上げる「もくまおう」も含めて時系列で並べてみる。

~おさらい~

水鏡
 過去「あなた」・「紫陽花」
 現在「わたし」
 結果:あなたは歌い、わたしは耳をふさいだ

羽根~lay down my arms~
 過去「羽根・鳩」
 現在「わたし」
 結果:「羽根」はまもなく空に帰り、灰も残らなくなる

【焼け野が原】
 過去「私」
 現在「あなた」
 結果:空は遠すぎる

【もくまおう】
 過去「あなた」
 現在「わたし」


・わたしが見たかったもの

 単なる未来でなく、「肩越しに見える未来」。
 
 肩越しということは何者かがわたしと未来との間に立っている。
 この詞の中、ほかに登場人物がいないものですから、
 その「何者か」の正体は過去のわたし。

 するってーと。
 わたしが未来へ進むと同じだけ、過去の自分が先回りしているもの
 だから、常に主人公の得る現在(未来だったもの)は過去の自分の
 影響下、あるいは過去そのものの延長線上でしかない。

 ずっと、過去から続く変化のない未来しか存在しない。
 ひとつの道しかない。
 だからある意味で悩みもない。
 「これから進む道」が決まっているから。決めようがないから。


・なぜ、その未来を見ることができなかったのか

 因・縁・果でまとめるとこう。

 本来ならば

 因 人は変われる
 縁 変化のきっかけにめぐりあい
 果 人は変わる。

 という流れが毎日ちょっとづつ繰り返され、あるいは
 時に大きなイベントとして大変化が起きることによって
 人は変わってゆく。

 「うんこちんちん」でゲラゲラ笑っていた小学生も
 どこかで卒業するし、しばらくの間駆け抜けたのちに
 青春時代が夢なんてあとからほのぼの思うようにもなる。

 人が変わると認識が変わる。
 認識がかわると世界が変わる。
 世界はひとつだけど、認識は多種多様。
 ついでに言えば生きやすさも生きづらさも認識ひとつにある。

 認識をより世界に即したものしていくことで、
 人は状況に応じたポリシーの変化を試みる。
 変化に成功することもあれば失敗することもあるのが人生。
 変化で成功することもあれば失敗することもあるのが人生。
 変化するのもリスク、変化しないのもリスク。

 ところが、変化を何かが邪魔するケースがある。
 執着やこだわりといったもの。
 ほかの言い方をすれば文字通り「固定観念」。
 変化しないさせないさせられない。

 ほかに説明する例が思いつかないから極端な例しか出せないんで
 それに即して書いてみる。

 世の中には、恐ろしい記憶を"消して"しまうケースがある。
 思い出せないメカニズムはこう。

 本来ならば、

 因 記憶を保持し続けている
 縁 思い出すキッカケが訪れる
 果 思い出す

 というプロセスで記憶がよみがえる。
 しかし、
 
 因 記憶を保持し続けている。消せないほどの。
 縁 思い出させまいと脳がストップをかけ続ける
 果 思い出さない

 といった心の防衛機能によって忌まわしい過去の記憶を
 封印することがある。

 身近な例。

 レジ待ちの間、コンビニ店員の名札を見たはずだけど
 思い出せないというのは「消去」だ。
 取るに足らない情報だから。

 しかし、大事なデートの期日がすっぽぬけたりもする。
 これが「封印」。

 予定に大事なデートがあるというだけで緊張してしまうと
 それ自体がずっとストレスであり続ける。
 そうするとほかのものが手につかないし、うまくいく準備も
 うまくいかなくなってしまう。

 だから心はいったん期日を「封印」することで
 心の平穏を取り戻し、物事をうまく回すようにしている。

 ふっとリラックスしたときにふと思い出すのがこれ。
 もう少し重いものだと、シャワー浴びてたりゆったり
 読書している最中に

 うーあーあうあうあーキコエナイー

 と、耳を塞ぎたくなるような過去の「何やってんの俺」
 みたいな記憶がよみがえるやつ。
 何の関連・きっかけもないのに突然思い出すあれ。

 もちろん、過去の自分暴露大会や他人の言動を見て
 自分のアウアウアーを思い出すこともあるけど、
 これはストッパーが耐え切れなくなって外れたことによる。

 いうなれば、簡単に外れる程度の悲惨さ。その程度の檻の強度。
 どっこい、あまりに悲惨な記憶はちょっとそっとのきっかけ
 くらいじゃ復活しないのもあったり。
 
 つまりそういうわけで、消去と封印は似て非なるもの。

 消去はファクター("因"子って言うもんね)そのものを
 消す作業であるのに対し、封印は消去できないほどの
 インパクトがあったものにおこなう心の動き。
 消せないものはフタするしかない。

 鼻炎薬のCMでいうならば、人間にはレセプター(鍵穴)がある。
 そこに(鍵)がはまるとアレルギーなどの反応が起きる。

 因 特定の物質とくっつくレセプターがある
 縁 がっちりはまる物質が結びついて
 果 アレルギー反応が起こる

 これを防ぐため、鼻炎薬はブロッカーを用意する

 因 特定の物質とくっつくレセプターがある
 縁 レセプターにはまる偽物をふたがわりにして
 果 アレルギー反応を起こす物質と結合しないようにする
 
 果を妨害するためには因をなくすか縁を断ち切ればよいのだけど、
 薬でレセプターを破壊するのは非現実的である(?)ので、
 ブロックすることで望む結果を得ている。
 
 これと同じこと。
 記憶ブロッカーが存在する。大小多寡問わず誰にでも。

 これと同じように、新潟の事件のように長い間監禁されていたとか
 事故や病気でずっと意識失っていたとかして、「縁がない」状態が
 続くという特殊な例を除けば、変化をブロックする存在が
 立ちはだかることで人は変化することができないといえる。

 「人は変われる」という因がなくなるのはそうめったに
 ありえないはずだから。
 
 詞に沿ってまとめると、

 因 「わたし」は変われる。
 縁 「あなた」が変化をブロックしている。
 果 「わたし」は違う未来を見られない。


・もくまおうとは

 「あなた」は大きな樹。
 「わたし」が欲しかったのは「あなたを守る力」。

 モクマオウって、正直見栄えしない。
 ビーチのキャンプコーナーに生えてる、葉っぱも松ぼっくりも
 ニセモノの木。

 防風や塩害を防ぐためだけにあるようなもんだし、枝なんか
 チクチクして鳥なんかがとまるような余地はなさそうなイメージ。

 だから、タイトルにある「もくまおう」は、「あなた」のことではない。 

 この曲では、

 「あなた」である、愛されている「大きな樹」
 「わたし」である、やたら愛されもしない「もくまおう」

 のふたつが存在する。

 過去の「わたし」は過去を纏い、愛された。
 しかし今の「わたし」はこれから変わってゆこうとしている。


・変わるには。

 過去の自分との統合を拒んでいたのは、「わたし」のほうだった。
 「水鏡」で耳をふさいだのは「わたし」の側だ。

 未来へ進むために過去を振り切ろうとしていた。もがいていた。
 でも過去の自分はどこまでも追いかけてくる。
 この曲では先回りさえしている。

 おかげで「あなた」以外のベクトルは得ようがない。
 それでも「あなた」以外のベクトルを探していた。
 でも見つからなかった。だから進めないでいた。

 それではどうにもならなかった。
 
 過去の側から呼びかける形の「焼け野が原」では

 じゃなきゃ 言って
 ちゃんと 言って
 聞こえないふりをしないで
 ここに居たいの
 私は側に居るのよ
 聞いて
 ちゃんと聞いて

 といっている。

 「水鏡」では、一度統合を果たした存在として「紫陽花」がいた。
 紫陽花は統合を果たしたけど、結果「死んでしまった」。
 生きている自分の一部なのに、自分でなくなってしまった。
 それが厭だったかしら。「わたし」の側が。

 だから「鳩」を追い払い、「あなた」の歌に耳を塞ぎつづけてきた。
 「羽根」でようやく統合への光が差したかなと思いきや、
 「焼け野が原」でまた聞こえないふりをしている。

 縛っていたのは「わたし」であって、ほんとうに必要なのは
 「あなたを守る」ことだと気づいた、いや、知っていたけど
 それを選択するのは困難を極めたのかもしれない。

 「あなた」のうしろに隠れて進むことをやめ、変化に対して
 すべて真っ向から「自分」で立ち向かっていかなくちゃ
 ならないから。

 さて。
 この曲では「あなた」と「わたし」以外にもうひとつ
 一人称が存在する。
 
 サビに登場する「私」だ。
 「わたし」と「私」は近いけど厳密に異なる。

 「焼け野が原」にも漢字表記の「私」が登場するも、
 そもそもその曲はイレギュラーで、視点が逆転している。
 一人称は人によって異なるので、「わたし」でない「自分」を指す
 言葉として「私」を選択したように見える。

 話し戻ってこれにより、現在・過去・未来で言えば
 現在の「わたし」、過去の「あなた」、そして未来の「私」
 と、時制の異なる意識ですべて一人称が異なっている。

 ただ、現在の「わたし」が変化・未来を内包するので
 「私」は「わたし」の意識の先にある。つながっている。
 決して「あなた」ではない。

 あたらしい意識の主をあらわす一人称としての「私」こそが、
 「水鏡」から続く一連の作品でなかなか出なかった、主人公が
 絶大な苦労と葛藤にまみれてやっと出せた言葉に見える。

 「あなた」の側でない、「わたし」の側でもない。
 両者で「私」なんだよという終着点。

 星の光も海の色も波の音も花や土の匂いもなにもかも
 感じるのは「あなた」でも「わたし」でもなく
 ただここにいる「私」。
 
 「私」のかわりに「あなた」が身代わりのように立つのではなく、
 「私」こそが自ら進み、新しい未来を見に行くよという決意。

 いうなれば、「わたし」が現実よりの意識を持ち、ポリシーを
 変えてゆく用意があるなら、「あなた」は潔癖とも言えそうな
 理想主義者。悪く言えば夢想家。
 理想を失うのは厭だし、こだわりは捨てられない。
 でもそれでは先へ進めない。

 我の強い「あなた」を盾にして突き進むのは迷いがない。
 しかしそれだけ「あなた」も「わたし」も現実世界との乖離に
 悩まされることにもなる。

 だから葛藤を高次元で処理する存在として「私」が歩みだす。
 そのためには「わたし」だけではどうにもふらふらして
 しまうものだから、目指す理想・譲れない、芯となる価値観を
 失わずに持ち続けるため「あなた」はそのままいてほしいと
 願うこころ。

 現実を前に理想はくじかれそうになるし、もしかしたら
 過去に一度、あるいは一度ならず理想を守れずにないがしろに
 してしまったかもしれない。
 そのため理想のない現実主義者に成り下がったりとか。

 時々でスタイルやポリシーは変えてゆかざるを得ないけど
 芯は変えずにいられたらと願うこころ。

 そしてこれまで歌ってたとおり、「あなた」は「私」と
 連続性を失い、「あのころのわたし」という思い出でしか
 語られなくなる。
 認識・思想・価値観などなどのつながりを失ってしまう。
 でも確かに自分の中にある。残る。

 その、理想を護るための「もくまおう」になりたいと
 思っているとする仮説。